3話 牛丼、食べるんですね
頭の中を整理するには無心に手を動かすに限る、とキッチンに立ったのは就業時間後すぐ帰寮してからだった。
こんなに広くて立派なキッチンがあるのに、忙しい教職員たちはお湯を沸かす程度しか使っていない。かくいう私も立った回数は多くないのだけれど。誕生日会や季節のイベントでパーティを催している生徒たちの方がよっぽど有効活用している。
鍋を覗けば、甘辛いつゆに浸かり、味が絡まるようキュッと縮んだ薄切り牛肉と、くったりとつゆ色に染まった玉ねぎがレンジフードの照明でツヤツヤと輝いていた。買った時のパックのまま冷凍庫へしまっていた牛肉を全てぶち込み、無心で作った牛丼は、大盛り食べたあとでも十食分は悠にある。以前、カレーをうっかり作りすぎて困ったので、こんな時のために保存用のタッパーはたくさん用意していた。無計画に計画的で、後々面倒になるのに、それすらも面倒だから、まあいいかで済ませてしまう性格は直したほうがいいと自分自身でもそう思うが、誰にも迷惑をかけていないのでとりあえず置いておく。
それよりも、私の部屋で寝ていたことに加え、昼食中ミッドナイト先生から聞かされた衝撃的事実の数々は私をより悩ませていた。
相澤先生が私の部屋の前に立っていた? それも真夜中に。思い詰めた顔で。
私が相澤先生と仲良さげに話していた? それも赴任してすぐの歓迎会の日に。二年経った今も仕事以外で話したこともないというのに。
部屋の前に立っていたのは謝ろうとしてくれていたのかもしれないけれど、そもそも何故、相澤先生は私の部屋で眠っていたのだろうという疑問に戻ってくる。歓迎会後だったならわかる。いやわかりたくないけども仮に、もしも、だ。ミッドナイト先生が言った通り旧知の仲で久々の再会に意気投合の末、であれば辻褄が合うし、記憶が曖昧だからこちらにも失礼があったと思えるのに、何故に今。無心に手を動かし、無心にお腹いっぱい食べてみたけれど全くもってどのピースも合ってはくれなかった。
「持ち帰っても埒が明かないのはわかってたのに」
私の苦悩とは裏腹に美味しく出来た牛丼のタッパーが五つ積み重なった時、寮の玄関が開いた。
相澤先生だ。平然を装い、お疲れさまです、と挨拶を交わす。先生のことだからエレベーター一直線だろうと思っていると、捕縛布を脱ぎ取りつつこちらへ向かってきた。
「うまそうな匂いですね」
カウンター越しに覗き込んだ先生はそう言って、真っ直ぐに私を見つめた。
ここで食べるか聞かないのは人間性を問われるだろうか。けれども、うまそうと言われた後の「結構です」は私だってちょっと凹むし、そもそもゼリー飲料を口にしているところしか見たことがない。
「そうですか?」「美味しく出来ました」「匂いだけですよ」と思いついてはみたけれど、返事はどれもが違う気がして、だからって聞かないとなるとやっぱりなんかモヤっとする。
相澤先生は鍋から肉を上げ下げしながらどう返そうかと悩む私に「そうすると味が絡むんですか」と続けて話しかけた。
え、何、急に喋るじゃないですか。本気なのか冗談なのかわからないのやめてもらえます? ついうっかり心の声が出てしまいそうだ。
「……た、食べます、か?」
「いいんですか。食べます」
「……え?」
「いや、食うか聞いたのあなたでしょう」
「そうですけど、まさか食べると思ってなくて。ゼリー吸ってるとこしか見たことなかったので」
時間が惜しいだけですよ、と言ってキッチンへ回り、手を洗った。
〝相澤消太〟って何なんだ。でも今の雰囲気はあの穏やかな寝顔と似ているような気もする。手伝うことはあるかと聞く先生を断り、座って待っていてもらうことにした。あまりにも、さも普段この程度の雑談は交わしていますよ、という話し方に戸惑っていたからだ。あと少々の苛立ち。先生の口からは、お疲れさまです、了解です、そうですか、しか聞いたことがないのに。今は〝先生〟ではない、ということなのだろうか。
タッパーに詰めなかった分を温め直し、どんぶりへよそったご飯の上へ乗せる。お箸で食べられる程度につゆを回しかけた。私の苦悩が混ぜ込まれた牛丼をまさか元凶の胃に入れることになるとは。何かしらの作用はあってほしいところだ。
「どうぞ。ご飯は冷凍保存してたものですが」
「いえ、ありがとうございます。いただきます」
「七味も紅しょうがもなくてすみません」
「いえ、十分です」
「それだけで足りますか? お味噌汁とかいります?」
「ではお言葉に甘えて」
いつの間にか髪を後ろで一つに結んでいた相澤先生は行儀よく手を合わせ、もう一度「いただきます」と言った。大盛り牛丼が、ガッと開いた大きな口へ気持ちよく吸い込まれていく。ひと口がデカい。もうあと数口ほどで完食しそうだ。今は仕事終わりでお腹を空かせた男の人に見える。これが〝先生〟ではない、〝相澤消太〟? 先ず持って先生をよく知らないのだからどの点も繋がらないし、やはり視覚差は埋まらない。
味噌汁の入ったお椀をテーブルへ置くと、頬をやや膨らませ咀嚼する相澤先生がぺこりと会釈した。飲み込んで味噌汁を啜り、「うまいです」と言う。
「それはインスタントですけど」
「さっきから言葉に少し棘を感じるのですが、迷惑でしたか?」
「いえ、特に意味はないですけど、そう思うのはそちらに心当たりがあるからでは?」
「うまいものをうまいと言っただけですが」
「そうですか」
「あんたは昔からそうだ。肝心なところではっきり言わない」
「え?」
私の苦悩が吸収されたのか、相澤先生が気になる言葉を吐き出した。が、話を続ける前にヒーローネットワークからの着信を告げる音が二つ響く。慌てて携帯を確認するも要請された個性に私は該当せず、帰寮していた先生数名と相澤先生が出動することとなった。片付けは帰ってからやると言う先生に、やっておくと言うと、口調を戻し「すみません。ごちそうさまでした。うまかったです」と言って捕縛布を掴み、寮を後にした。
気をつけて、くらい言えばよかった。そう思ったのは、蛇口から流れ出る水に触れ、冷たさに我に返った時だった。一粒も残らず綺麗に完食されたどんぶりに水を張る。最後、かき込んでいたつゆの跡がやんわりと水に溶けていく。その水面にあの日見た、擦れることなく真っ直ぐ押された判がぼんやりと浮かんだ。〝相澤消太〟って一体何なんだ。クシュクシュとスポンジを泡立てて、コップ、お箸、お椀、どんぶりの順に洗っていく。
「……あんたって、私のことよね」
悩んで驚いて、悩んで腹が立って、また驚いて、〝相澤消太〟のせいで感情が忙しい。
「昔から。はっきり言わない」
確かにそうだ。はっきり言わないのは私の悪いところ。確信が持てるまで言うのが嫌だったり、人に自分のことを相談できなかったり。今回のことだって、相澤先生へ聞けばよかっただけだし、何か知ってそうなミッドナイト先生に相談することだってできたのだ。さっきだって絶好の機会だったのに先生の出方を伺ってしまった。嫌味な言い方して。
そんな私に〝相澤消太〟も何か困っているということ? だからって部屋で寝る理由にならない。はっきり言わないのはそちらもではないか。
「もう、穏やかな日々を返してよ」
そう呟いた言葉は泡と共にさらさらと流れ、排水口へ吸い込まれていった。