2話 嘘だと言って!
昼休み直後の激混みの時間帯を過ぎた食堂は生徒も疎らで、職員たちがまったりと食事をとっている。窓際の隅の席に座っていた私は、すっきりと澄んだ空に流れるうろこ雲を眺めつつ、A定食のアジフライのサクサクとした食感を歯に感じながら、明日は雨だろうかとそんなことを考えていた。
あれから一週間経った。何もなければ、解決もしていない。
自室でないことには嫌でも気付いただろうし、第一、同僚とはいえ女性の部屋に無断で入り、しかも眠るなんてことをしでかしたのに謝りもしないだなんて。何もなさすぎて夢かと考えたりもしたが、あれは夢じゃない。寝息、体温や質感は生々しく手のひらに残っているし、寮の浴場に備え付けられているシャンプーの匂いもした。寝顔すら穏やかで、少しだけまあいいかと思ってしまった自分が憎い。毛布まで掛けて。こんなにも頭にこびりついてしまうくらいなら無理矢理叩き起こして、謝罪の一言でも聞けばよかった。
「はあ」
「あら、溜め息なんか吐いちゃって」
ココいいかしら、と言って私が返事をすると、ミッドナイト先生がオムライスとサラダが乗ったトレイを隣に置いた。
「何か悩み事?」
「いえ、明日は雨かな〜とかそんなところです」
「そう? その溜め息と何か関係あるのかもと思って声を掛けたのよ」
「なんです?」と私が聞くと、オムライスを掬ったスプーンをぱくりと口に入れ、小さくもぐもぐと咀嚼したあとこっそりと真剣な声で「ワタシ見ちゃったのよ」と言った。
あまりにも迫真迫った声に、キャベツの千切りをあまり噛まず丸飲みしてしまい、ゴクリと喉が鳴った。
「な、なにをですか?」
ミッドナイト先生は、ちらちらと目だけで回りを見渡し、こちらに視線がないことを確認すると手で口元を隠してもったいぶるように、あのね、と私に耳打ちした。
「真夜中、アナタの部屋の前に立ってたの」
まるで怪談でも話始めるかのようなしっとりとした低い声にぞくぞくと膝から粟立っていく。
「それはオバケ的なアレでしょうか? 私怖い話はちょっと」
「違うわよ、もっと怖いわ」
力強い大きな瞳が怯える私を映している。
「嫌です、聞きたくないです!」
「なんだと思う?」と話を続けるミッドナイト先生を前に逃げも隠れもできない、蛇に睨まれた蛙の気持ちだった。「いやぁ」と目を瞑り耳を塞いだけれど食堂の騒めきと手のひらを貫通する艶やかな彼女の声は、「相澤くん」と耳の奥に響いた。どんなに恐ろしいオバケの形相よりも聞きたくなかった。
「なんで、でしょうか?」
手はそのままに薄ら目を開け、おそるおそる聞いた。縮み上がった私とは対照的にスッキリとした顔のミッドナイト先生は、赤い唇をにっこりとさせた。そうだった、彼女は根っからのSというのを忘れていた。
「知らないわ。声を掛けようにも二、三時くらいだったし。でも様子が変だったのよねえ」
「変、とは」
ミッドナイト先生が言うには、思い詰めた顔をしていたらしい。学生時代からの先輩だというミッドナイト先生がそう言うのだからそうなのかもしれない。私は頑張って思い出しても仏頂面ばかりで、感情を表すような相澤先生を想像することができなかった。
「喧嘩でもした?」
ドレッシングをぺろりと舐めた口が、私と相澤先生からほど遠い言葉を発した。喧嘩というのはある程度意見を交わすか、相手の中身を知らないと出来ないものだろう。
「いや、まず業務連絡以外話ししたことないですし」
「え? あんなに仲良さげに話してたのに?」
「私が? 相澤先生と? いつですか?」
「アナタの歓迎会よ。だから二年前くらいかしら? それはもう意気投合って感じで」
会話の節を「え?」という音で刻んでいくたび、話は進んでいく。
「仕事とプライベートはきっちり分けそうじゃない? アナタも相澤くんも。だから何かあったのかしら〜ってね。歓迎会の時アナタと話す相澤くんの顔はどう見ても旧知の中って感じだったし。しかも男女のソレよ。違ったかしら? あら、アナタここへ来る前は鳴羽田だったわよね。相澤くんも前はそこにいたのよ。顔見知り? それともやっぱり元カレ? こっそりヨリ戻したでしょ。ワタシの勘は当たるのよ」
「え、ええ、ちょ、ちょっと待ってください! 情報過多! 不得要領!」
全くもって身に覚えがない。というより二年前というのもあってその時の記憶が曖昧だ。ぼんやりと楽しかった、としか。確かに雄英へ来る前は鳴羽田のヒーロー事務所で勤務していたけれど、相澤先生もだったとは。
「ぜんっぜん覚えてないんですけど、それ本当に私でした?」
「間違えるわけないでしょ、アナタの歓迎会よ、もう。相当酔ってたのかしら」
「私の部屋の前に立っていたのも本当に?」
「本当よ。日付変わってたから今日になるわね」
「ちょっと頭パンクしそうなので、一旦持ち帰らせてください」
「いいけど、悩み増えただけじゃない」
動揺を落ち着かせるべく分離して沈澱した味噌をくるくると箸でかき混ぜ、一気に飲み干した。
「んんっ、それは言わないでくださいよ」
何かあったら相談するのよ、とご機嫌にオムライスを口へ運ぶミッドナイト先生の傍ら私は混ざり合った味噌汁とは違い、何一つ混ざることなくくるくると回っているだけの頭を抱えつつアジフライを齧る。
明日の天気など知る由もないほどにすっきりと青い空には、触り心地のよさそうなうろこ雲がどこまでも連なっていた。