1話 今まで何もなかったのに
秋暮れ、という言葉も近年の長引く残暑に霞んでいる気がする。
淡く遠くなった空に、やっと秋の気配を感じつつ、私は敷地内の巡回当番で校舎から西回りに歩いていた。縁があってこの雄英高校で教師となり、ヒーローと二足の草鞋を履くようになって二年が過ぎた。桁違いな忙しさに目が回りそうになるけれど、ヴィラン相手に万年寝不足な日々だった頃より人らしい生活をしている。
敷地内に寮が建てられたことも理由の一つ。寝に帰るだけだった以前の部屋は片付ける暇もなく次から次に物で溢れかえり、それは特別綺麗好きというわけでもない自分ですら嫌になるほどだった。トイレ、冷蔵庫、冷暖房完備の至れり尽くせりな寮へは必要最低限な物しか持っていかなかったし、朝起きて夜眠る生活をしていれば、様々な物事が整っていった。
暑さ極まる大合唱から美しい音色へと移り変わり、自然界での夏の終わりを知る。それでもしばらくの間、肌をさす日差しはジリジリと痛かったけれど、徐々に汗ばむ首筋を掠める風が冷たくなった。近頃は朝晩の空気も凛として冬の気配がする。揺れる葉の音も乾燥してきた。
こうやって季節の僅かな変化に気付く余裕すらある。
「よし。西側、異常なし」
「お疲れさまです」
正門前で最後のチェックポイントにレ点を付けた時、東回り担当だった相澤先生がのっそりと歩いてきた。捕縛布と長い前髪に隠れて相変わらず表情は読めない。
「こちら側は異常なしです」
「お疲れさまです、西側も問題ありません」
私がそう言うと、覇気のないだらりとした低い声で「そうですか」と言った。甘い匂いを纏った冷たい風が相澤先生の背中側から吹き抜ける。寒かったのか先生はさっさと校舎へ戻っていってしまった。あの真夜中の出来事について聞けるチャンスだと思ったのに、猫背で丸まった背中はあっという間に消えていった。
「キンモクセイのいい匂い」
ヒーロー科生徒除籍者数が百人を超えるという厳しさの塊な相澤先生は常に仏頂面で素っ気ない。
赴任時の挨拶回りの際もそうで、同期だというマイク先生は「アイツは元々あんな顔でああいうヤツなの。飲みもメシもフラれてばっかヨ」と言っていた。「誰よりも生徒想いで真っ直ぐなヤツだから気ィ悪くしないでやって」と先生の代わりになのか私にのど飴を二つくれた。
「というかそもそも、ちゃんと話したことないんだよね」
見えなくなった姿にひとり呟くほど何も知らない。だからこそ二年経っても〝仕事熱心〟〝生徒想いの厳しいひと〟としか知らない先生が起こした出来事をどう処理していいのか悩んでいた。
何事もなく普段通り一日を終えるはずだった三日前。
就業後寮へ戻り、お風呂や食事を済ませたあと自室で少し仕事をして、ニュースのチェックや読書をし、ベッドに入ったのが零時過ぎ。自然と重くなった瞼を閉じればスズムシの涼やかな音に凝り固まった脳が解されていく。そのままとろりと溶けるように眠るのが最近の流れだった。
整った生活に脳も正しく働く。眠りが浅くなって寝返りをうった時、ベッドとデスクの間に何かが居る気配を感じた。在るとは違う、物ではない黒い何かが居る。それが科学的に証明されていない存在だとしたら、と首の裏がひやりとし、心臓が一瞬だけきゅっとなったけれど、私もヒーローだ。瞬時に心を切り替えた。怖いものを怖くなくなったわけではない。歳を重ねるにつれ、他に怖いものがあることを知ってしまったから保てているだけだ。
息を殺して床にそうっと降りる。その黒い塊が出していた音は、すうすうという深い寝息だった。一応、人だ。眠っているだけのようでひとまず安堵した。起き抜けの目で暗闇でも対応できたことは幸いだったな、と回りこんで慎重に確認する。近づいても起きる様子はない。気配が揺らぐこともなく、狸寝入りをしているわけでもなさそうだ。殺気もない。本当に寝ているだけ。
上下黒い服を着ているが、裸足、ということは外から来たわけではない。髪は長いが、体格的に男性だ。腕を組み、脚を少し曲げ、眠りづらそうな縮こまった体勢。この丸まった寝姿はよく廊下や空き教室を通った時に見かける。
「もしかして、あいざわせんせい?」
顔を確認すれば、名前を呼んだその人だった。セキュリティが強化され、容易く部外者が入ってこられる場所ではない雄英の敷地内に建つ寮。しかも現役ヒーローが住む教師寮だ。オバケ的なアレではなければ内部者だろうと思ってはいたけれど、まさかだった。確か相澤先生の部屋と私の部屋は同じ階。上下ならまだしも左右違う間取りを間違えるものだろうか。
とりあえず起こして、部屋へ帰ってもらおう。
「先生、部屋間違えてますよ」
それにしても、床で寝る? いや、ベッドに入られても嫌だけど。
「先生、相澤先生、起きてください。部屋間違ってますよー」
声を掛けても肩を叩いても揺すっても起きない。というか、びくともしない。安全圏だからって油断しすぎでは?
時間は三時過ぎ。眠れるのはあと三時間弱。
私が職員室へ着いた時には相澤先生は高確率でデスクにいるためきっと私よりも早起きだろうと推測をし、これ以上の害はなさそうなのでこのまま寝かせておくことに決めた。岩のように床に転がる相澤先生へ予備の毛布を掛ける。正直なところ私も寝たかった。睡眠は大事だ。
朝、アラームが鳴って起きると床に先生の姿はなく、掛けたはずの毛布も、髪の毛一本すらなかった。毛布はというと元々置いていたクローゼットの中にあり、畳み方も位置もそのままだった。確かに出して掛けた記憶はある。だが畳み方もしまう位置も全く同じにできるとは思えないし、勝手に人のクローゼットを開けるようには見えない。けれど、そもそも勝手に入って眠るのだからもしかするとありえるかもしれない。
ありえないと断言できるほど私は〝相澤消太〟を知らなかった。
そんな奇妙な出来事が二夜連続。一度なら間違いだと納得できただろうに、さすがに無理がある。
二度目の侵入が三日前の夜中のことで、その日の朝、直接聞いてみようかと試みたが校外学習の引率で日中は不在。放課後もヒーロー活動へ行ってしまった。その日は会うことなく一日が過ぎ、昨夜来たと考えられる二時頃まで待ってみたけれど、相澤先生は現れなかった。
次の日も、その次の日も。
そうそう間違われては困る。ちなみに、部屋を訪ねてまで聞く勇気はなかった。
職員室へ戻り、チェック表を定位置へ戻した。当番表を手に取り、〝相澤〟の印鑑の隣の欄に自分のものを押す。少し擦れ、斜めになってしまった。五回に一回くらいは綺麗に押せるが、やや苦手だ。それに比べ相澤先生の印鑑は、どれも真っ直ぐで朱肉も均等だった。
隣のデスクの先生に寮で部屋を間違えそうになったことはあるかと聞くと、ぼんやりしてエレベーターの降りる階を間違えたくらい、とのことだったから、揺すっても起きないほど疲れていた相澤先生が部屋を間違えただけなのかもしれない。とりあえずはそう思うことにした。
忘れてしまおうと思えなかったのは、あまりにも疑問が多かったし、なにより私の知る先生との視覚差があり過ぎたからだった。