五話
それからしばらく経って、美術部員が大きな賞を受賞し、朝の集会で表彰された。ヒーロー科に部活動は無縁なものだが、生徒の堂々とした姿はいち教師として胸が熱くなる。その生徒は表彰後、彼女の元へ駆け寄り、「先生のおかげです」と言って泣いていた。がんばったねえ、と背中をさする彼女の顔は紛れもなく教師そのものだった。
学校では接点がなく、知らない彼女を見て、絵を描いている姿や、案外子どもっぽく笑う姿、そして先日の妖しさ漂う姿を思い出してしまった。
「おい、イレイザー。おーい、イレイザー?」
「あ? すまん、なんだ」
「見過ぎだっての。最近やたら気にかけてんジャン。なんかあった?」
「いや、先生やってる顔、初めて見たから」
「まあ、そうだよな。ヒーロー科に美術ねえし、って、他の顔は見たってコトかァ!?」
急にデカくなったマイクの声に顔をしかめると、「そこ、先生方騒がしいですよ」と校長に注意された。からだを縮こまらせ、頭を下げる。すると、生徒側からくすくすと笑い声が聞こえ、この歳で集会中に校長に叱られるなんて、となんとも言えない気持ちになった。「あの頃を思い出すなァ、イレイザー」と肩を組んでくるマイクの腕を払い退けながら、ふと彼女の方を見ると、口元に手を当てて小さく笑っていた。飄々とし、何とも思っていなさそうな同期に、ため息をついた。
アトリエに呼ばれない日は、視界に入れるだけだった。彼女が忙しそうに美術準備室で授業の準備をしている時、俺もまた忙しく駆け回っていた。唯一の昼休みでさえ、仕事と仮眠だ。ランチぐらい誘えばいいジャーン、という同期の言葉を、仕事中は仕事をするもんだ、と返したが、携帯画面を見る回数は増え、美術室のある校舎の向かいを通るようになった。
「もう入ってるって、絵描いたから、とかじゃないよな。あの先生が、んな何の捻りもなく直接的なこと言うわけないだろ」
人通りの少ない廊下で寝袋に入り、ぽつりと独り呟く。彼女の言葉はわかりやすいが、わかりづらい。まさにあの絵と同じようだ。他の角度から探ろうにも、見えづらく予測が立て難い。彼女の創り出されるものにすっかり迷い込んでしまった。
さて寝るか、と寝袋のファスナーを上げた時、透き通ったガラス玉のような声が階段にころころと響いた。
「こんな所でお昼寝ですか?」
彼女だった。階段を登り切り、近づいてくる。しゃがみ込んで、俺の顔を覗いた。
「今朝の集会、先生たち学生みたいで面白かったです」
「……はあ、もう色々と恥ずかしいです」
そうですか? と首を傾げ、それにしても寝袋って合理的でいいですね、と手を顎に当てまじまじと見つめた。俺は起き上がることすら諦め、廊下に横たわったまま話すことにした。彼女の前で取り繕ったところで全て無駄なような気がしたからだ。
「あの、今夜お時間ありますか?」
「緊急なものがない限り大丈夫ですけど」
あなたって人は本当に、と呟くように続けた俺に彼女は、にこりと微笑んで、ではまた夜に、と言って去っていった。眠れるはずがなかった。
その日の夜、アトリエを訪ね、いつものように椅子に深く座り、紙面と自分を交互に見る彼女をただ見ていた。時折、さらりと垂れる長い髪を耳にかける仕草に見惚れ、今日は三つ編みをしていないことに、残念だ、と心の中で呟く。
シャシャシャと心地よく擦れる音が止み、小さく「よし」と聞こえた。
「今日で無事終わりました。貴重なお時間、ありがとうございました」
始まりが突然ならば、終わりも突然だった。
「そう、ですか。意外と短いんですね」
「トータルだと一時間くらいでしょうか。一人の方を描いた中では長いほうですよ、たくさん描けて満足です」
相澤先生をじっくり観察できて楽しかった、とクロッキー帳で鼻先まで隠して微笑む。これは素直に受け取っていいんだよな。
「じっくり観察しながら、たくさんどこを描いたんです?」
「それは、まだひみつと言ったではないですか」
「描き残したところは?」
うーん、と口元に手をやりながら、くるりと髪と同じ栗色の瞳を右下へ向ける。
「その顔だと、答え出てるんじゃないですか」
「では、脱いで、と言ったら脱いでくださいますか?」
「いいですよ」
彼女の瞳は自分の中の答えと対話しているものだった。だから投げかけた問いの答えがなんであれ多少の心構えはできていた。眉一つ動かさないで返せたはずだ。彼女の方が動揺している、ように見える。ほんとに? と言いたげに目を丸くしてこちらを見ている。今回は先手をとれた気がした。
「この間、俺もあなたの絵に入れてもらえるか、と聞いた時、あなたはもう入っていると」
「ええ、そう言いましたね、私」
「そのクロッキー帳に描かいたから、という意味ではないですよね」
彼女は、顔の横に垂れた髪を耳にかけ、クロッキー帳の表紙を撫でる。
「相澤先生、私のアームカバーを初めて見たとき、綺麗だって言ったでしょう? そして裏側はあの絵みたいだと思いませんでした?」
「え、ええ」
「先生、本質見抜くの得意でしょう。素直ですし。だから、相澤先生を描きたいって、私言ったんですよ」
そうか、すでにもう俺は告白を受けていたのか。
「では、4Bの鉛筆は?」
横に置いてある、4Bの鉛筆を手に取って、俺に渡す。全部言わせる気ですね、と少し拗ねたような顔をしていた。
「私が一番好きな硬さの鉛筆です。なので、相澤先生はもう私の中に入っているんですよ」
「はあ、言葉は真っ直ぐなのに、本当にわかりづらいですね。この先苦労しそうだ」
「今更なし、だなんて、いやですからね」
「覚悟の上です」
鉛筆を返す際、立ち上がった彼女の髪が揺れ、僅かに頬に触れた。それは想像以上に柔らかくて艶やかで、やはり絵の具のような、少し苦く懐かしいにおいがした。印象は未だ変わらず、独特な雰囲気のひとだ。シャボン玉のようだが、突いたって割れず、むしろくるくるふわふわと楽し気に、時に惑わすように舞う。色を変えようとも、どれも彼女で、つい追いかけてしまう。息苦しい。
だが彼女の側は、不思議と息がしやすい。
「俺、あなたの小指の横が鉛筆で黒くなってるの、好きですよ」
「知ってるわ」