四話
お疲れ様でした、と鉛筆を置いてクロッキー帳を閉じる。そして、彼女は「絵、見ますか?」と聞いた。
頷いた俺を、こっち、と手招きする。案内された場所は創作に使用していると言っていた隣の部屋で、彼女に続いて中へ入れば、小さい照明が奥の左上から当たっているだけで少し薄暗かった。苦い匂いが濃く、紙や木のような匂いもする。
こちらの部屋も整然としており、俺が勝手に想像していた芸術家のアトリエというものとは程遠かった。散らかっていると言っていたが片付けたのだろうか。イーゼルには描きかけの絵が置いてある。キャスター付きの棚には画材が、クロッキー帳やキャンバスはラックに気持ちが良いほどに綺麗に並んでいた。
こっちへ、とさらに奥へと呼ばれた。突き当たりの壁に立て掛けてある大きな板状のものは彼女の胸下ほどの高さで、細い線で描かれた草花を散らした白い布がかけられてあった。
彼女が丁寧に布をはらりと剥がす。描かれたそれは、実物は、全くの別のものに見えた。
俺がネットニュースで見た絵は、あえて言い表すならば、生命力溢れる絵だった。新緑を思わせるような瑞々しい緑に、柔らかい陽射しのような淡い紫、撫でる風が心地良さそうな桃色と黄。色たちは主張することも混ざることもなく、それぞれが支え合うように織り重なっており、絵のことなんて全くわからない俺でさえ、惹き込まれるほどに美しい絵だった。同期の言葉を流さず、個展へ行けばよかったと後悔したくらいだ。
「フライヤーにも使ったメイン展示のものなんです」
他は寄付したり譲ったりしたと言う。だがこの一枚だけは置いておきたかったらしい。
大きな絵を描くのは体力がいるだとか、だからお菓子をたくさん食べてしまうだとか。そんな事を言っていた気がする。耳に水が溜まったかのように、彼女の声が、ぼやりとくぐもって聞こえる。見間違いか、それとも俺の目がおかしくなってしまったのか、と頭を軽く振り、何度か瞬きをしてみたが、目の前にある絵は変わらなかった。彼女は、「どうしました?」と何事も無く言う。
半歩、こちらに近づいた彼女に、身構える。
「私、ひとが好きなんです。好きだから私の絵に招待して、きれいな色で囲って、少しでも息がしやすいように、ここにいる間は楽しいな、気持ちいいなって思ってもらいたいんです。自己満足ですけどね」
このふんわりとした柔い笑い方もまやかしなのだろうか。
目をほのかに発光させれば、頬辺りの髪が揺らめく。
「この中にいる白いひとっぽいものは?」
「相澤先生には、ひと、に見えますか?」
何かの罠かと疑ってしまう程、彼女の言葉に嘘はない。だが、嘘であってくれ、とも思った。背筋がぞくりとし、乾いた目を強く閉じる。またいつでも個性が使えるように。
「ええ、今朝ネットニュースで見た時はそう思いませんでしたけど。さっき言ったこと具体的にどういうことか説明いただいても?」
「私、疑われてますか?」
「職業柄、すみません」
「絵にひとを閉じ込める、なんて個性は持っていませんよ。個性に関しては教員名簿に載っているものが全てです」
疑われているというのに、にこりと笑って、細い腕で大きな絵を持ち上げた。隣の明るい部屋へと持っていき、こっちで見てみてください、と言う。
「ん? どういうことだ。今朝見たものと同じです、ね」
「ライトがね、当たる角度や見る角度によって見えるものが違うんですよ」
絵具の凹凸や重ね具合、様々な技法で表現していると説明する。彼女の絵は、石膏やジェッソを使った立体的なものらしく、近づいて見なければ立体とわからないほど巧みに塗られていた。一色ではない緑や紫が盛り上がって影を作り出す。その影は白っぽく発光して見える。その下は黄や桃色が踊るように靡いていた。
こっちから見るとさっきのに近いかもしれません、と言う彼女に従い、立ち位置を変えるとその通りで、脳の錯覚だとわかっていながらも不思議な感覚に陥った。
小さい頃遊んだ騙し絵みたいでしょう? と、目を見開き驚いている俺を覗き込むように首を傾げる。
「相澤先生から敵を見るような目で見られるの、良かったです」
「まったく、あなたって人は……」
個性を発動しかけたが、杞憂に終わってよかったと胸を撫で下ろす。気になっている女性、ましてやこの学校の教員から敵が出ただなんて、考えただけでもゾッとする。
だが、腹に残るしこりのようなものはなんだ、と自分の腹部をさする。
「騙すようなことしてすみません。先生が今朝私の絵見ていらしたし、あの記事では仕掛けについては書かないようお願いしていたので。ちょっと驚かそうかなって。……怒っていらっしゃいます?」
「いいや。でも肝が冷えましたよ。芸術家の考えていることは敵を推し量るより難しい」
「そうかしら? 好きなものを好きなように描いているだけですよ、アートですからね。どんなに意味あるように描いたって、受け取り方は人それぞれですから。気付いた方がいれば嬉しいですけど、私から教えるつもりはないです。相澤先生には教えちゃいましたけどね」
そう言って、また柔らかく微笑んだ。
「俺も……、俺もあなたの絵に入れてもらえるんですか?」
腹に残ったしこりに触れる。
嘘であって欲しいと思いながら、彼女に包まれるようなこの絵の中に入れるのであれば、それは息がしやすそうだとも思ったのだ。
「もう、入ってますよ」
ふふ、と口元を隠しながら笑う彼女のアームカバーはやはり綺麗だったが、腕を上げ初めて見るそれの裏側は、紫、青、緑が溶け込むように重なり合っていて、先ほど別室で見た違う見方をした時の不思議な絵のようだった。