三話
昨夜のことを考えながら、握っていたボールペンを持ち変えてみる。
いつだったか、美術教師が個展を開いている、とマイクから誘われたことを思い出した。
「ハァン? 今更? ちょっと前に終わったぜ。興味ねぇなんて言ってたヤツがどうしたよ」と言いつつも、ネットニュースの記事を教えてくれた。空き時間に読んでみると、小さな個展にも関わらずそこそこ人の出入りがあったこと、フライヤーに載っていた絵を中心に構成された展示は、ひとたび入ると絵の世界に入り込み、時間を忘れてしまう、と記されていた。彼女の絵は一言で言うとシャボン玉のようらしい。彼女の纏う雰囲気そのものだ、とも。
シャボン玉、か。言い得て妙とはこのことだと思った。綺麗だ、ふわふわとしている、儚い、繊細だ、と表現する言葉は出てくるが、誰にでもわかるよう説明しろと言われれば、さてどこから言えばいいのかと言葉に詰まる。色は様々にぐにゃりと変えるが、形は球でどこから見ても同じ。本当の彼女はわからないことだらけだった。
ヒーローを兼任する個性の塊のような教師たちはわかりやすく、ある意味助かっていたのだな、と鼻から長めのため息を吐いた。
「あら、私のこと調べてくださったんですか」
声が降ってきて、パソコンに齧り付くように見ていた顔を剥がした。
「ああ。先生がどんな絵を描くのか気になってしまいまして」
「昨日、見せなかったからかしら?」
「まあ、そうですね」
参考になりましたか、と聞く彼女に、写真だけではわからないので実際に行ってみたかった、と伝えると、「一枚だけ手元に残してるんです、見ますか?」と、聞いてきた。彼女のことだから忘れた頃に誘われるのだろうと考えながら二つ返事で「ぜひ」と返す。
「もし今夜空いていたら、何時でもいいので来ませんか?」
拍子抜けした。おそらく顔にも、まさかと書いてあったのだろう。俺の顔を見た彼女が、「ご都合考えずにすみません」としおらしく声を小さくしたため、慌てて「仕事が終わったら行きます」と答えた。
消灯後の見回りも終え、教員寮の最上階、彼女のアトリエへ向かう。時間は二十二時半少し前だった。ドアをノックすれば、お待ちしてました、と柔らかく微笑んだ彼女が出迎え、どうぞ、と招き入れる。昨日今日だからか、それほど緊張していない気がして、躊躇うことなく部屋の奥へと足が動いた。
小柄な背中に着いていく。いつもは長い髪をそのままに揺らしているのを今日は一本の三つ編みにして後ろに垂らしていた。毛先はくるんとしていて、ふわりと毛束感のある三つ編みがかわいらしかった。
「絵を見せるお約束でしたが、初めに相澤先生を描いてもいいですか?」
「ええ、構いませんよ」
彼女は、今日は夜も暑いですね、と透明度の高い氷を縁ぎりぎりまで入れた細身のストレートのグラスに、濃い目に淹れた熱い紅茶を注ぐ。パチパチと氷が鳴って、ゆらゆらと香ばしい色と混ざっていく。シルバーのマドラーで何度か混ぜると、溶け残った氷がグラスに当たって、カランカランと涼しげな音を奏でた。
「相澤先生はビスケット、食べれます?」
「ビスケットですか。久しく食べてないですけど、大丈夫ですよ」
「よかった。部活でも出したんですけど、用意しすぎちゃって」
「部活で?」
一言聞くと、いただきます、と言ってグラス横に置いてある個包装の袋を開け、一口頬張る。サクサクと歯触りの良い音がして、優しい甘さが広がっていく。話しながらデッサンの準備をする彼女を見つつ、もう一口ビスケットを齧った。
「始める前にお茶してるんですよ。放課後ってお腹空きませんか? ちょっと小腹満たすと集中できるし、何というか気持ちの切り替えみたいな感じです。だらっと来てだらっと始めるよりメリハリある方がいいじゃないですか」
咀嚼しながら頷いた。すきっと爽やかなアイスティーでもったりした口内を流すと、この組み合わせ癖になるな、と思いながらトレーに乗せられたお手拭きで指についた水滴を拭う。
「パフォーマンスを上げるためのいい時間ですね。部活動時間も限られていますし、合理的で嫌いじゃないです」
「意外。部活でお茶してるなんてって怒られるかと。相澤先生厳しそうですし」
「集中力やパフォーマンスの向上を考えられていたり、生徒たちの息抜きや切り替えの仕方を教えている先生を咎めたりは出来ないですよ。寧ろ感心しました。厳しく当たっている自覚はありますが、どうにも俺はその、所謂アメの部分が出来なくて」
「そうでしょうか? 私はヒーロー科の子たちと関わることはないのですが、相澤先生を囲む生徒たちはいつもイキイキとしていて真っ直ぐで、先生大好きって顔していますよ」
彼女は、にこりと微笑みながら語りかけ、クロッキー帳のページを捲り、描いていく。
「先生をしながら顧問もして、自分の創作もするなんて立派ですね」
言葉に詰まった俺は、アイスティーを一口飲んで、次の話題を振った。
「そういう相澤先生も、ではないですか」
「それは……まあ、」
よく考えるとそうだ、とまた言葉に詰まる。それが立派か、と言われると自分には当てはまらないような気もするが。
「も、というより先生は全てひとのために動いているので、私からすると相澤先生の方が立派です」
私は半分くらいは自分のためだから、と続けた。
人に感動を与えたり、心を動かすきっかけを作っている彼女も十分〝ひとのため〟になっていると思ったが、心の内にとめた。
鉛筆の音だけが聞こえるこの空間が嫌いではない。新たな発見ができるこの時間は心地が良いとさえ思っていた。
ひとの集中している姿は良い。
前を向き善くあろうとする姿は尚更。
ひとも、この鉛筆のように、細くて一見折れそうでも使い方や魅せ方で違う面が見えてくる。どう使うかは己次第で、維持も向上も基本は自分の意志だ。全てにおいてではないが、手を伸ばし、教え導くのが教師であるとするならば、表現の仕方が違うだけで、彼女の描いているものもきっとそれに近いものがあるのだろうと、鉛筆の擦れる音を聞きながら、そんな事を考えた。
「そろそろかな」
「俺はまだ構いませんよ」
「そうですか? ではお言葉に甘えて、あと五分」
さらり、とページをめくってまた描き始めた。一体、俺の何処を描いているのだろうか。
「4B、でしたっけ」
「ええ、4Bです」
ふふ、と笑って鉛筆の頭を見せる。
小指の側面が手首辺りまで、さらに薬指の腹も少し黒く鈍く光っていた。俺は何故だかわからないが、それを見るのが好きだと思った。