二話
部活動に勤しんでいた生徒たちも寮へ帰り、静かになった校舎。
残りは自室に戻ってからやろうかと切り上げようとした時、パソコンの角にメールの通知が表示された。どきりとした。同時に、マウスを握る手の横で震える携帯に目を落とす。
『先ほどはありがとう。教員寮の最上階にアトリエがあるので、お時間がある時に来てください』
同期しているのだから、どちらにも通知がいくのは当たり前だ。だが、仕事用でプライベートな会話をしているようで心臓に悪かった。
チン、とエレベーターが鳴って、誰も入寮していない最上階の静かなフロアを歩く。時間は二十二時を過ぎた頃だった。持ち帰った仕事と、1ーAの寮の見回り、風呂、着替えなどを済ませた後、五分程どうしたもんかと自室を右往左往し、意を決して出てきた。
『アトリエ』と表札のあるドアをノックをすれば、カチャリと開いて、あの綺麗なアームカバーと所々絵具のついた生成色のエプロンを身につけた彼女が出迎えた。通された部屋は、寮ひと部屋の広さと変わりなく、見慣れた間取りではあったが、天井まである幅広な本棚には本や画集がぴっちりと背順に整頓されており、窓には清潔な白いカーテン、その際には二人掛けの布張りのソファとローテーブルもあって、下には毛足の長い白いラグが敷いてあった。アトリエと聞いていた俺は、よくある芸術家の雑然とした部屋を想像していたため、普通の女性の部屋にいたたまれない気持ちになる。
「こっちはね、綺麗にしているんです。たまに生徒たちも来たりするから」
廊下から向かって右側にある引き戸を見ながら恥ずかしそうに言う。普段創作には扉向こうの部屋を使っていて、今は散らかっているから閉めていると言う彼女にほんの少しだけ安堵した。左側には壁に沿って椅子とサイドテーブルが置いてある。
「こちらにどうぞ。少し椅子、固いかも」
ごめんなさいね、と背もたれのある滑らかな木製の椅子にクッションを立て掛け、座るよう促した。
脚を開いて深く座り、柔らかいクッションに背中を預けた。何度か手の位置に迷ったが、腕は肘掛けに置いて、腹の前で軽く手を組むことにした。
彼女の纏っているにおいはこれか、と部屋に漂う画材の、少し苦いような懐かしいような匂いを、すんと嗅ぐ。
「来てくださって、ありがとう。楽にしててくださいね」
横にあるサイドテーブルに紅茶を置きながらそう言って、彼女は向かいに簡易な木製の丸椅子を寄せて座った。その右隣には同じ丸椅子に十本程の鉛筆と、灰色がかった練り消しがトレーに乗せられ置いてある。軽く挨拶をした後、クロッキー帳のページを捲り、トレーから鉛筆を選んで描き始めた。
シャッシャッ、スッ、スッー、シャシャッ。
紙に鉛筆が擦れる音が心地よく響く。
耐熱ガラスのティーカップを口元まで持ってくると、香り立つ湯気が鼻先と髭を濡らした。ふう、と何度か息を吹きかけ、一口含む。ダージリンだかアールグレイだか俺にはわからなかったが、ふわりと鼻に抜ける茶葉の爽やかな風味が、心許なかった気持ちを落ち着かせた。
「あの、俺このままでいいんですかね、普通に座ってるだけですけど」
「はい、そのままで。普段の相澤先生が描きたいので」
「そうですか」
迷いのない線の動きは俺のどの部分を描いているのだろうかと思う。たまに顔を上げたり、目線だけをこちらに向けて、そしてまた鉛筆を動かす。さらりと垂れた栗色の長い髪を耳にかける仕草に目を奪われ、目線を上げた彼女と視線がぱちりと合う。気まずさに鉛筆を持ち替える意味があるのかと聞けば、「芯の硬さや濃さが違うんですよ」と横に置いていた予備の鉛筆を数本渡した。
頭には2H、B、2B、4Bと書いてある。見慣れない形の鉛筆をまじまじと見る俺に、彼女が持っていた他のものより二、三センチ程短い鉛筆を見せながら柔らかく目を細めこう言った。
「相澤先生は、4Bがしっくりきます」
「ええと、俺には何のことだかさっぱりです」
俺の顔を見た彼女は、うふふ、とかわいらしく少女のように笑って、また描いていく。
それから十五分ほど経って、ぱたりとクロッキー帳を閉じ、お疲れ様でした、と言った。もっとかかるものだと思っていた俺は、もう終わりですか、と聞いた。彼女は、はい、と言って、モデルさんを疲れさせるのはいけませんから、と柔らかく口角を上げた。
最初こそ心ここに在らず状態だったものの、今はこの部屋から出るのが名残惜しいとさえ思った。女性関係にいたっては意気地のないことを改めて自覚したのだが、近い距離と密室に後押しされ、口を開くことができた。
「あの、鉛筆、なんでこんなに芯長いんですか」
「見た目、書きづらそうですよね。でもデッサンってこうやって寝かせて描いたり、立てて描いたりするんです。同じ鉛筆でも表情が変わって、それを使い分けるんですけど、面でも描きますし、どうしても芯の減りが早いので、それでこんな風なんですよ」
持ち方を変えながら丁寧にわかりやすく説明する彼女は、当たり前だがやはり先生なのだなと思わせる。
「一本一本、削ってるんですか」
「ふふ、相澤先生、生徒みたいですね。はい、カッターナイフで削っていますよ」
「それって俺にもできますか」
彼女から笑みが溢れる。先に手本を見せた後、カッターナイフを渡した。紙で折った箱にカスが落ちるよう削っていく。意外と力加減が難しく、長い芯をうっかり折りそうになるも、黙々とやる作業は嫌いではなく、三本目にもなれば、彼女が削ったものと然程変わらないデッサン用の鉛筆が出来上がった。
「相澤先生、上手ですね。さすがです」
「無心になりますね、これ。装備の手入れに似てるな」
「ええ、いいですよね。確かに私にとっては装備のようなものになるのかな、そう思うとなんだか恥ずかしいですね」
隣で同じように削っていた彼女がそう言って、削り終わった鉛筆を裏紙に何度か擦り付け、フェルトの敷かれた平らなトレーに戻していく。
何に対して彼女が恥ずかしがっているのかを考えている時、彼女は芯がついて黒くなった右手の小指の側面を見て、左手の親指で撫でた。
「さっき、俺のどこ描いていたんですか?」
「まだひみつ、です」と言って、手を洗いに席を立つ。
俺は、質問を間違えた、と苦い顔をして頭をわしわしと掻いた。