一話
芸術家特有の独特な空気を纏い、絵具のような鉛筆のようなわずかに苦いにおいをさせているひと。
俺は、彼女に対してそういう印象を持っていた。
服の袖口が汚れないようにつけているアームカバーは、色とりどりの絵具がついていて、それはひとつの絵画のようで綺麗だと目を落とした時、「これ綺麗でしょう」と見透かしたように微笑んだ。その姿に、「綺麗ですね」とぽつり、なんの捻りもない言葉がこぼれた。と言っても、それ以上に最適な言葉は見つからなかった。
美術室の前を通りかかった俺と、教室のドアを開けた彼女が鉢合わせた、ほんの数分前の事。初めて話したわけではなかったが、それは教職員会議の資料だとか、敷地内施設の申請だとかの業務的なもので、彼女自身の言葉と会話をしたのは初めてだった。
彼女は美術教科の教員だ。そして美術部の顧問でもある。
女子生徒と並んでもあまり変わらないくらいの小柄さだが、薄手のブラウスと花柄のマーメイドスカートが丸みを帯びた滑らかな曲線を拾い、大人の色香を醸し出している。腰まである栗色の緩くウェーブがかった長い髪に、大きくも小さくもない二重瞼の瞳と、スッと通った鼻、ふっくらとした小ぶりな唇が優しげな印象を与え、親しみやすさのある容貌をしている。
生徒たちからの、特に美術部員からの信頼は熱く、時には姉のように優しくたしなめ、多感な時期の少年少女たちのやり場のない思いを芸術へと導いていた。雄英高校といえば、歴代、現役のトップヒーローを輩出しているためヒーロー科ばかりに光が当たってしまうが、部活動においても強豪校で、それは文化部もしかり、美術部もレベルが高いと有名だった。ごく一部の生徒はそれを目指して雄英の門をくぐるものもいるほどである。
本人も油彩画を描いていて、昔から馴染みのある小さな画廊で個展を開いたりしているという。会話の後、半分は自分で調べ、半分は情報通な同期に聞いたものだった。接点の少ない一教員と三言会話しただけで気になってしまうものだろうか。それは会話の終わりが突拍子もなかったからだ。
今、彼女のアトリエへ招かれ、椅子に座っている。優雅に紅茶を飲みながら。
俺が「綺麗ですね」と言った後、「相澤先生を描いてみたい、と今思ったんですけど」と彼女はそう言って、「だめ?」と子どものように首を傾げた。独特な、不思議な雰囲気が俺を包む。数秒、間をあけたのち、承諾の返事をしていた。奇襲攻撃にでもあったような気分だった。敵ならば何通りかの対策があるが相手は教員で女性で、ほぼ初めて話す相手だ。そして初手から後手に回っている。こうなれば自分のペースへ持っていくのには苦労する。「お前はそうことに関してはアレだよナ」いつかの同期の言葉が浮かんだ。俺はそういう男だ。何故受けてしまったのか、自分でもわからず、とりあえず情報収集だと気持ち焦りながら観察と聞き込みを始めた。
それが五日前。あの日以降、柔らかな栗色の緩やかに巻かれた長い髪を視界におさめていた。選択教科の教員とは言えど、部活の顧問もしているとなかなかに忙しいようで彼女はいつも小走りだった。歩幅が短いのかパタパタとせっかち気味に動いている。あの時、教室のドアから勢いよく出てきたのにも納得だった。「調べた情報に間違いはないみたいだな、まあ世間話か冗談か。口約束なんてそんなもんだろ」と向かいの校舎を歩いている彼女の横顔と揺れる長い髪を、ぼうっと眺めていた。空き時間に少し仮眠を取るために寝袋へ入りかけていた時、見かけたからだ。
一言、あの話はどうなったのか、と聞けば済む話なのだが、どうにもこの感情に合理性は求められないらしい。意外にも苛立ちや嫌悪感は抱かなかった。むしろ、向こうから誘ったのだから、と女々しくも二の足を踏んでいる。もし勘違いやあの場の冗談だったなら恥しかない。思っていたより自分は意気地が無いのだなと、はあと小さくため息を吐いた。
そんなことを考えながら眺めていると、こちらに気付いた彼女が、ぴた、と止まり軽く手を振る。そして、携帯を取り出して操作した後、顔の横で携帯を振り、「みて」と口を動かす。ポケットに手を入れると、ヴーッと携帯が震え、取り出して見てみれば、各教員が学内外用で使用するメールアドレスから『今日、大丈夫ですか?』と来ていた。すぐに『大丈夫です。』と送って、彼女と同じように、携帯を顔の辺りまで掲げ、「へんじ」と口を動かした。
無邪気な仕草にうっかりつられてしまい、はっと我に返った時には、彼女は、にこりと笑って、両腕で大きな丸を作っていた。後ろから話しかけてきた生徒にびっくりした様子でぱっと腕を下ろし、俺にだけわかるように手を振り、その生徒と一緒に笑い合いながら美術室へと入っていった。
目をゆっくりと閉じ、僅かに緩む口元を隠すため寝袋のファスナーを上げた。