9話 人生相談
なぜ動けなかったのだろうか。
掌に残る彼女の柔い服と、その下の腕の感触、そして、それの細さのせいか。見上げる彼女の赤く染まった頬と濡れた瞳が脳裏に焼きついてしまったからか。消え入りそうな声を反芻させたからか。おそらくどれもだ。以前会った時の彼女とはあまりにも違いすぎて記憶にある〝福猫堂の
◇◇さん〟ではなく、彼女自身を垣間見てしまった気がしたからだ。
校舎から予鈴が聞こえる。
「……戻るか」
職員室へ戻り、キャビネットから納品書を保管しているファイルを取る。丁寧に貼られたインデックスシールを摘み、今月分のポケットへ書類を入れ、またキャビネットへ戻す。扉を閉め終わった時、ミッドナイトさんが話しかけてきた。
「随分と遅かったわね、デートの約束でもしてきた?」
「納品書、ファイルへ入れておきましたよ」
「会話になってないわ」
この手の話は苦手だ。どう話せばいいのかわからないし、不確定なものをどうこう話したとして解決するとも思わない。
「会話にならないんですよ」
どうして、と言いたげな顔をしている。
「会話をしましょうよ、相澤くん」と背中をぽん、と空気を多く含ませた掌で柔らかく叩いて「今日飲みに行くわよ」と有無を言わさない低い声で言うと去って行った。この破天荒に見えてしっかりと奥を見つめてくる先輩は、学生の頃から変わらない。そして、敵わないし頭が上がらない。
姿が見えなくなったことを確認して、ふう、と細いため息をついた。
終業後、とりあえず今日はやり過ごして見つかる前に家へ帰ろうと、デスクに手をかけた時、「相澤くん、忘れてないわよね」と肩に手を置かれた。
「なになに? 香山さんとなんかあんの?」と隣のプレゼント・マイクも話しかけてくる。さっきまで、あー疲れたー、と怠そうに突っ伏してたくせに、面白そうなことがあれば、途端に生き生きし出すのはこっちも学生の頃から変わっていない。
「人生相談」
彼女も至って真面目なトーンで話すもんだから、騒がしい男の眉も静かになる。
「相澤が? 香山さんに? なにそれ、ちょー気になるんだけど」
「なわけないだろ」
「似て非なるものよ」
プレゼント・マイクこと山田ひざしは、ワッツ? 要領得ないゼ、と片眉を上げ、俺とミッドナイトさんを交互に見やる。
「この後ラジオがなければ俺も参加したんだけどなあ」と言って、「じゃ、お先に」と職員室を後にした。
ミッドナイトこと香山睡先輩に捕まってしまった俺は、更衣室で私服に着替えた後、近所のいつもの居酒屋へ行くことになった。全く乗り気でない俺を、この細い腕のどこにこんな力があるのかと思うほど強く引っ張って、ずんずんと歩いて行く。
「そんな引っ張んなくてもここまで来たら逃げませんよ」
「そお?」
戯けたようにパッと掌を見せ、離した。
いらっしゃいませ! と威勢よく注文を聞きに来た店員に「生二つと、枝豆と、玉子焼き、あと唐揚げお願いね!」とメニューも見ずに頼んでいく。
「自分から誘っといてあんま飲まんでくださいよ」
「大丈夫よぉ」と言う香山さんは日本酒のお品書きを舐めるように見ている。本当に大丈夫だろうか。
一気に運ばれてくる料理を囲み、お疲れ様、と乾杯をして一口。香山さんは二口、三口……半分くらい流し込んで「ぷっはー!」と叫び、ゴンッとジョッキをテーブルへ置いた。
「で、なんでデート誘わなかったのよ」
「唐突ですね」
「あの時の会話の続きよ。ほら、会話をしましょう」
ぐいっと乗り出し、左手をくいくいっとさせ、俺の発言を待っている。会話にならんと言ったはずなのに、まったく強引だなこの人は。
「何故デートに誘わなくちゃいけないんですか」
「質問に質問で返すとはナンセンスね、相澤くん」
「人生相談、なんでしょう?」
それもそうね、一理あるわ、と腕を組む。
「相澤くんが、
◇◇ちゃんのことを気にしてると思ったからよ」
長考の末、そのくらい流石の俺でもわかっていることを言う。
「なるほど。気にしているとデートに誘うんですか?」
「まあ、そうね。普通は。もっと知りたい、仲良くなりたいと思わない?」
「んー、そうですね」
そう! それなのよ! と大きな目が眼鏡からはみ出そうなほど見開き、パチンッと指を鳴らす。
「まず、相澤くんが人を、それも初対面の女性を気にする時点でこれは大事件なのよ」と早口で捲し立て「何故彼女が気になるの?」と質問する。
「何故って……」
次は俺が腕を組み、長考する。
その間、香山さんは玉子焼きを一欠片、口に頬張る。
「その考えてること、口に出してちょうだい」
「まとまってないのに話すの嫌なんですよ」
「そんなまとまるの待ってたら、私呑んじゃうわよ」
「それは勘弁してくれ」
最初の生から酒を頼まないで話を聞いてくれている、珍しく真面目な先輩にそう言われると、まあいいかと話す気になってくる。
「彼女……
◇◇さんに飼い猫に似てるって笑われたんですよ、初対面なのに」
「勇気あるわね、
◇◇ちゃん」
「で、その後めちゃくちゃ謝ってて。赤くなったり青くなったり忙しいなって」
「表情豊かなとこがよかったのかしら」
どうなんだろうか。そう言われるとそうなのかもしれない。最初は桜色と淡い水色が似合ってると感じた。だがそれは俺の中に留めておくことにした。
「猫飼ってるし、社名に猫入ってるから職場選んだって言うし、相当な猫好きだなって思って」
「相澤くんも猫好きだものね」
こくりと頷く。
「黒猫飼ってるって言ってたから、名前が気になって。俺に似てるって言ってたし」
なるほどねぇ、と浅く頷き「猫ちゃんの名前聞いたの?」と聞くので、また、こくりと頷く。
「え、相澤くんにしてはすごいことじゃない?」
「そう、なんですか?」
そうよ、と穏やかに答える。
「名前を教えてくれた時、また笑ってて。最初笑った時とは違う、なんて言うんですかね。微笑んだ? とにかく、柔らかく笑ったのがすごく印象的で」
「あなた、ギャップに弱いわね? まあ、弱くない人なんていないだろうけど」
そうかもしれない。
「そんで今日、書類渡しに行った時、
◇◇さん転けそうになって、咄嗟に二の腕掴んじゃったんですよ」
心配そうに「まあ、彼女大丈夫だった?」と聞き、「大丈夫そうでした」と返すと「よかった」と表情を和らげた。
「あの二人仲良さそうで、付き合ってるのかと思ったんですけど」
「相澤くんもそんなこと考えるのね」
「まあ、そりゃあ気にしますよ。でも、」
「でも?」
「彼女、耳まで真っ赤で、俯いたまま固まってしまって。もしかしたら付き合ってないかも、と」
「はあん、俺にもチャンスあるって?」
枝豆の皮を押し、中身を口に入れながら首を横に振る。
「赤くなった耳を見てしまったこと許されるかなって」
「ちょっとお! 何中学生みたいな事言ってんのよ! 青いじゃないの!! 大好きよそういうの」
急に立ち上がり、乗り出して俺の肩をバンバン叩く。思ったより強くて、さっき口に入れた枝豆を噴き出しそうになった。
「で、相澤くんは赤くなった耳を見てどう思ったの?」
「……今彼女はどういう表情をしているのかな、と。顔を見たくなりました」
「~~~っ!」
香山さんは声にならない声を上げつつ、テーブルをトトトと小刻みに叩いたかと思えば、顔を赤くさせ、はあはあ言いながら「青い、青いわあ」と身体を抱えて悶え始めた。
ぼんやりとしていた感情が質問に答えることによってはっきりしてきたように思う。だからと言って、この感情を彼女に伝えてもいいのだろうか。職業を言い訳にするつもりはないが、一般的な普通の付き合い方はきっとできない。
「見たの?」
また、こくりと頷く。そんなに飲んでいないのに頷きすぎて酔いそうだ。くらっとする頭を押さえている俺の姿にもお構いなしに、香山さんは、それでそれで? と聞いてくる。
「そこまで聞きます? もういいのでは」
「やだ、私が聞きたいのよ」
「人生相談じゃねえのかよ」
「いいじゃない、相談料よ」
はあ、と大きなため息をついた。心底嫌そうな顔をしているであろう俺に対して、向かいの香山さんは子どものように目を輝かせてこちらを見ている。
「動けなかったんですよ。彼女が帰った後も思い出してしまって」
「何を?」
何を……。
「手に残った感触と、見たいと思った表情と、俺の言ったことに返した声を、……です」
一つ一つ口に出す度、また彼女を思い出す。
「やだ……私、人が恋に落ちる瞬間、初めてみたわ」
バッグから手鏡を取り出すと、ほら、と俺の前に出した。鏡に映った、見慣れたはずの自分の顔は、今日見た彼女と負けないくらい赤くて、恥ずかしさに手で口元を覆うと目を逸らしてしまった。
これは相談料のおつりだけど、と香山さんはぽつりと呟き、
「相澤くんが見た、
◇◇ちゃんの耳まで赤くなったその顔は、今のあなたと同じ気持ちのはずよ」
と言った。そして、
「あなたは踏み込む前は臆病なのよね、一度踏み込めば愛情深くてつまんないくらい穏やかに愛を注げる人なのにね」
と続けて「臆病にならないで、それが一方的だったとしても相澤くんの思いなら大事にしていいのよ」と微笑んだ。
人生相談。あながち間違ってないと思った。やはりこの先輩には敵わないし頭が上がらない、と再確認し、自分の恋を自覚した夜だった。