8話 ちょうどいい距離
梅雨冷えと言われながらも、連日続く、しとしと静かに降る雨は湿度を上げ、不快指数も上げていった。
経理部は女性社員が多く、比較的空調が弱めに設定されている。念のため背もたれに掛けているカーディガンはまだ役目を果たせず、無機質な椅子を温めていた。
昨日より4度も気温が高い今日、男性社員の部長や上司は、卓上の小さな扇風機を回したり扇子で扇いだりしていて、そろそろ温度を下げてもいいんじゃないかと思う。けれど、冷え性だとかメイク崩れや乾燥が気になるお年頃の、私も含む女性社員は、なかなか言い出せないでいた。
「お疲れ様です! ってこの部屋あっつ!」
営業部の杉村くんがドアを開けた瞬間そう言うと、近くにいた上司が「だよねえ、暑いよね、気のせいじゃないよね」と扇子で顔を扇ぎながら言う。
「廊下より暑いっすよ」
部内の同意を得た上司が、嬉々として空調の温度を下げた。ちょうど風が当たる位置にいた私は、やっと本来の目的を果たせた、と声が聞こえてきそうなカーディガンを羽織る。幸い、風量は変えないでいてくれたようで、薄手のカーディガンで過ごせそうだ。
「お疲れ、これ領収書と出張申請書」
杉村くんが部長たちと軽く話をした後、クリアファイルにまとめられた書類を私のデスクまで持ってきた。
「お疲れ様。はい、確かに受け取りました」
「16日から出張なんだよ」
「ん、みたいだね」
渡された申請書に目を通しながら返事をする。
16日、3日後か。ギリギリでもないし、余裕があるわけでもない微妙な日数。今は急ぎのものもないし、すぐに取り掛れそう。えっと、期間は一泊二日、移動手段は新幹線っと。ホテルは駅近くのよくあるビジネスホテルね。
「でさ、あん時言ってた、」
「なあに?」
手元の作業に集中してしまい、彼の声を聞き漏らしてしまった。
「いや、何でも。後で連絡する」
「わかった。じゃあこれ進めておくね」
「ありがとう、頼むわ」
「あの、先輩と杉村さんって付き合ってるんですか?」
じゃ、と経理部の部屋から彼が去ると、隣の席で後輩の宮森さんが小声で話しかけてきた。
緩く巻かれた茶色い髪がよく似合う、うるうるした瞳が小型犬みたいな可愛い子で、たまにランチに一緒に行ったりしている。入社時からよく懐いてくれていて、仕事は正確で早いし、報告も連絡も相談もしっかりはっきりしてくれる頼もしい後輩だ。
「もう宮森さんこれで何度目? ないない。同期で仲が良いだけだよ」
ふぅん、と唇を尖らせ、あまり信じていなさそうな顔で相槌を打つ。
「杉村さん、結構人気なんですよ? 爽やかだし面白いし、仕事出来るし。それに先輩も可愛いからお似合いだって話も聞くんですよぉ」
いやいやと手を振って、小声で返事をする。
「ウソ、そうなの? 知らなかった。まあ仕事は出来る、よね、うん」
「わあ、杉村さんかわいそ。先輩たち同期で仲いいじゃないですかあ、羨ましいです。今度一緒にご飯行きたいな~。機会があれば誘ってくださいね!」
宮森さんはプルプルの唇をニコリとさせ、仕事に戻った。
人気ってことは狙ってる子も多いってことかな、周りの大きなお世話だと思っていたけれど変な誤解生んでも嫌だし、距離に気をつけよう。小さな会社だもん、そういういざこざは避けたい。
今日中の仕事に加え、申請書の処理も滞りなく上げることができ、達成感のある一日だった。仕事中は仕事に集中。でないと先生でヒーローの相澤さんに釣り合わない気がする。ダメなところばかり見せてしまったけれど、これからはちゃんと、しゃんとしよう。片想いをして、恋をして、弱々になるのではなく、背筋を伸ばして過ごしたい。
バッグから携帯を取り出すと杉村くんから『仕事終わったら連絡して』とメッセージが来ていた。『お疲れ様、今終わったよ』と送るとすぐに『会社出てすぐのコンビニで待ってる』と返ってきた。
気をつけようと思った矢先の待ち合わせに、どうしようかと悩んだが、彼の話を聞き漏らしてしまった手前断る理由も見つからず、今日は乗ることにした。
コンビニの前に着き、メッセージを送ろうと携帯の画面に目を落とした時、「よっ」と背後から声がした。
「わっ、なんでいつも死角から現れるかなあ、もう。お疲れ、今日はどうしたの?」
「お疲れ。いやー出張前にさ、この間言ってた店行こうかなって。お礼したかったし」
「お礼?」
「雄英の、手伝ってもらったやつ」
ああ、そう言えばそんな話もしていたっけ、忘れてた。
「そんな、いいのに」
「いや、俺が助かったからさ、奢られてよ、ね?」
「じゃあ、そこまで言うなら奢られてあげよう」
自分の気持ちの忙しさであの時の会話をすっかり忘れていた私は申し訳なさに、「ごめんね、ありがとう」と伝えると、「ちゃんとあの店予約してるから」と杉村くんはホッとした顔で言った。
「え、ほんとに?」
「ほんとほんと」
以前、同期たちと行ったそのお店は駅の表側の高架近くにあって、古い建物を今風にリノベーションしたオシャレな居酒屋だ。黄色いレンガと青銅の看板が味のある、どこか懐かしい佇まいをしている。短めの白い暖簾をくぐり、ガラスの引き戸を開ければ、店員さんの威勢のいい声とボサノバのリズムの軽快な音楽が聞こえた。
〝予約席〟とフダの掛かった半個室の席へ通されると、とりあえずのビールと、サラダ、焼き串盛り合わせ、明太チーズ入り玉子焼き、そして二人とも気になっていた柚子のポテトサラダを注文した。「もっと頼めよ」と言われたけれど食べきれるかわからず、「足りなかったら追加するね」と言って、いつもばんばん頼むくせに、と膨れる彼を納得させた。
「乾杯」
「かんぱーい」
霜が薄らと膜を張ってキンキンに冷えたジョッキに、白い泡と黄金色の炭酸の比率が見事な、その姿だけでも喉がゴクリと鳴る飲み物を、ガチンと鳴らし合わせる。
「っはぁ! 夏も近いとビールがうまいな」
「だねえ、仕事終わりの一杯が幸せに感じるよ」
「だな~! さ、こっちも食おうぜ」
「いただきます!」
気を遣うことなく、それぞれが食べたいものを自分で取るスタイルは本当に楽で、こういうとき彼と飲むのは楽しいなと思ってしまう。
「このたまご美味しいぃ」
「即玉子焼きとはお前らしいな」
「だって食べたい時に食べたいと思ったものを食べないと! その時が一番美味しいんだよ」
「うまそうに食うの見てると、やっぱ
◇◇いいなって思うわ」
「え? 何か言った?」
うまそうに食う、までは聞こえたのだけれど、その後が店内の騒がしさや流れる音楽にかき消されて聞こえなかった。
「いや、うまそうに食うなって言ったの」
「だってこれ凄く美味しいよ、食べてみてよ。この間はチーズだけでそれもまろやかで美味しかったけど、辛子明太子のアクセントが良い感じ」
「ん! ほんとだ。めちゃくちゃうまい! ……ちょ、柚子のやつ、やっぱいいわ、うま~」
「わあ、美味しい~! ホクホクのところをそのままももちろんいいけど、カリカリに堅揚げされたじゃがいもで掬って食べるの美味しすぎる!」
結局、最初に頼んだものはあっという間になくなり、追加で注文することになった。最近食べ物がすんなり喉を通らなかったから、久しぶりに美味しく食事ができたことに浮かれていた。
待っている間しばらく沈黙が続き、口を開いたのは杉村くんだった。
「あの、さ」
「なに?」
「あー、えと、次の料理も楽しみだな」
「うん、山芋のやつ美味しそうだよね!」
煮え切らない物言いに、いつもの彼らしくないなと思ったけれど、次々運ばれてくる料理にそんな雰囲気もなくなってしまった。ふたりともあまり飲む方ではなく、お酒もはじめのビールのみであとはウーロン茶を頼んでしまうというなんとも色気のない飲み会なのだ。
気になるメニューを一通り堪能し、店を出て、駅へと向かう。
杉村くんは電車通勤、私は駅裏に住んでいるため帰る方向が同じだった。
「んー! お腹いっぱい! 本当にご馳走になってもいいの?」
結構食べたよ? と申し訳なく声を落として言えば、杉村くんは、らしくねえよ、と笑った。
「いいんだって、
◇◇と一緒に飯食うの楽しいから」
それとさ、と言った後、
「俺、
◇◇の事好き。この関係心地いいからさ、言おうかすごく迷ったんだけど、今日一緒飯食ってやっぱ言いたいなって思って」
普段通りの喋り口調のまま、さらりと言う。
「え、え?」
「だよな、
◇◇ならそう反応すると思った」
「や、びっくりして」
「ははは、返事は出張明けでいいからさ、その間くらいは俺の事考えててよ」
気づけば駅に着いていて「気をつけて帰れよ」と上り方面へ歩いて行く。私は彼に何も言えず、じゃあまた、と挙げられた手に、弱々しく振り返すことしかできなかった。