7話 痕
心臓が止まるかと思った。
聞きたいと期待していた鼓膜を撫でるような低い声に、静まりかけた心臓がびくりと跳ねて、うるさく鳴り出す。はやくはやくと焦る心に足がもつれてしまった。
転ける。そう思った時、「危ない」と小さく聞こえた。ふわりと浮いた身体が、くんっと引っ張られる感覚で我にかえる。転ける時ってどうしてスローモーションのように感じるのだろう。伸ばされた手が私の二の腕を掴んでいた。その感触と手の大きさ、力の強さにぶわっと体温が上がっていく。
相澤さんの手だった。
気づいてからはもう本当に一瞬で、顔も汗が蒸発しそうなほど内側から熱くなった。全身の血液が沸騰してしまったんじゃないかと思うくらいで、鼓動は速く、鼓膜がボウっと音を立てている。うるさすぎて自分の声が遠い。助けてもらったのに上を向くことすらできず、声を絞り出してお礼を言うのが精一杯で、また失礼なことをしてしまった。なんでこんなところばかり晒してしまうのだろう、あの日のことをちゃんと謝ろうと思っていたのに。
私越しに話しているふたりの会話はほとんど頭に入ってこなかった。
杉村くんが車に乗ったみたい、どうしよう。動けない。
視界に映る相澤さんの黒いブーツの足先が、ジャリとコンクリートを鳴らし、こちらを向く。
「
◇◇さん、またいつか、猫の……よるさんの話聞かせてください」
え。あ、また気を遣わせてしまった。何か言わなきゃ、返事。その前に顔、下向いたままはだめだ。
ゆっくり顔を上げると、相澤さんの顔は思った以上に上で、きゅっと喉が締まる。
「……はい」
恥ずかしさと焦りもあって掠れた小さな声しか出なかった。聞き取れただろうか。
僅かに眉根が動いて、あの日見た、ずっと思い出していた、見た目からは想像つかない柔らかい瞳が私を見ている。とっくに離されているのに掴まれた二の腕が彼の熱を奪ったかのように熱く、疼いた。
「
◇◇、そろそろ行くぞ」
杉村くんの声が私を現実に引き戻す。
仕事、会社戻らなきゃ。そうだ、まだ仕事中だ。
「助けていただいてありがとうございました。失礼いたします」
頭を下げ挨拶をした。ぎこちなく車の方を向く。空いていたのは助手席でホッとした。帰りは運転してくれるのか、助かった。このうるさい心臓のままでは運転できる気がしない。
車に乗り込み、シートベルトを閉め、背もたれに寄りかかった。
「お待たせ、大丈夫だよ」
そう言うと、杉村くんが「おう」と返事をして、車を走らせる。
ゆっくり走り出した車が相澤さんから遠ざかっていく。
ふと見たサイドミラー越しに、目が合った気がした。長い前髪と首元にぐるぐると巻いた布のようなもので表情はよく見えなかったけれど、合った気がした。そして見えなくなるまで目が離せないでいた。
雄英から帰る車内では杉村くんは静かで、何も聞いてこないのが逆に気まずくて、かと言って自分から言うことでもなくて、無言のまま会社へ戻った。
なんとか仕事を終わらせて定時で帰ることにした。頭が仕事モードに切り替わらず、これ以上手がつかなかったからだ。
帰り道、相澤さんの姿や声、顔を何度も反芻させては顔が緩み、胸がきゅうと苦しくなる。
好き。
相澤さんが、好き。
今日まで考えていた様々な事が、爽やかな緑色の初夏の強い風が芝生をさらって吹き抜けたかのように、ぶわっと舞い上がって空高く何処かへ行ってしまった。曖昧なんてそんなものじゃなかった。大袈裟でもなかった。ヒーローへ対する好意がどうとか、迷惑かもとか、忘れられなかった苦しさは、好きだったからだ。
優しい目元は見間違いではなかったし、この感情はしっかりと恋だった。
「私、相澤さんが好き、なんだ」
小さく出た言葉は一気に自分の中で現実味を帯びて、また顔が熱くなる。気づくともうアパートの前で、掲示板のガラス扉に映る私の顔はにやけていてこんな顔で歩いていたのかと恥ずかしくなった。
家に入れば、いつものようによるさんが玄関に座ってお出迎えしてくれていた。
「よるさん、ただいまー」
返事をするように、にゃあん、と鳴く。
「おかえりって言ってくれたの? 可愛いねえ」
頭を撫でた後、可愛らしい狭いおでこと、眉間の短い毛並みを人差し指ですりすりと撫でる。
玄関を上がってバッグを掛け、手を洗いに洗面台へ向かう。その間、くるくるとよるさんが器用に足の合間を縫って歩く。
「うふふ、よるさんどうしたの? くすぐったいよ」
部屋着に着替えるため、ベルトを外し、パンツを脱いだ。ブラウスのリボンを解いた後、首の根元にあるボタンを二つ外す。化粧がつかないよう気をつけながら、そうっと脱ぐ。キャミソール姿になって、ふと洗面台の鏡に映った自分を見た。横を向いて掴まれた右腕を上げてみると、赤く手の痕が残っている。
「……相澤さんの手の痕……だよね」
そっと痕に触れれば、ヒリついた痛みが、彼の感触を、熱を思い出させた。
「力、強かったな。手も、こんなに大きい。さすがヒーロー……」
そうだった、彼はヒーローだった。ぽつりと出た言葉に上がった熱が少し冷める。人助けも気遣いも安心させるような優しい顔してくれるのもヒーローだから。
ヒーローはたくさんいるけれど、周りにヒーローと付き合ってるっては聞かないな。聞いても有名人、芸能人やヒーロー同士の熱愛報道とかばかりで、こんな事務職の一般人が相手にされるわけない、よね。
「自分で言っといて悲しくなってきた。相澤さんは違うかもしれないし」
ああ言ってくれたし。
「気遣ってくれただけでしょ」
そうかも。いや、でも。
「……好きになるのはいいよね」
鏡の前で一喜一憂して、やっと落とし所を見つけた私は、足元にぴたりとくっついて丸まっている、よるさんに気づいた。
「わ、よるさんごめんね。ゴハンにしようね」
ぴくりと耳が動いたよるさんは、うにゃあ、と鳴くと、また私についてくる。
にゃうにゃう、と言いながら食べるよるさんの横で、まだ胸がいっぱいな私は、膝を抱えながら朝用のヨーグルトをちまちまと舐めるように、ゆっくり胃に流し込んだ。
シャワーを浴びて上がれば、なんとなくいつも後回しにしていた化粧水をすぐにつけて、念入りにボディクリームを塗ってみたり、ヘアケアを頑張ってみたり、もしまた今度会えた時少しでもマシな自分でいたいという欲がふつふつ沸いて、自分から香る甘い匂いに、これが恋か、と纏う空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
今度こそ失礼なことしないように落ち着かなくては。今日みたいに突然で驚いても、まずは深呼吸しよう。今までの事を改めて謝って、お礼を言って、それで猫の話して、ちゃんと会話できるようになろう。
ベッドに座れば、よるさんがすぐに膝の上に乗ってきた。
「どうしたの? 今日は遊ばないの?」
にゃぁん、と私を見てひと鳴きすると、くるんと丸まって座った。
「よるさんは何してた? またカメラに猫パンチしてたでしょ」
しっぽを、ぱたり、と動かす。
「私はねえ、今日久しぶりに相澤さんに会ったんだあ。会えなかったなあって思ってたら帰る時、間違えた書類届けてくれてね、びっくりしちゃった」
よるさんは、たまに相槌を打つように、ふすう、と鼻息を鳴らす。
「それで転けそうになって助けてもらったんだけど、やっぱり上手く話せなくて。はあ、何度も思い出したけど口にするとダメだね」
柔らかそうで固いしっぽが、ぺしん、と太ももに当たる。
「こんなのばっかりだけどさ、私ね、相澤さんが好きみたい」
そう言って、よるさんのお腹に顔を埋める。体勢を変えて、よりふわふわの気持ちのいいところを出してくるよるさんは、きっと人の言葉も、気持ちもわかってるんじゃないかと思う。
背中を撫でながら、あたたかくて柔いふわふわに頬を擦り寄せる。
「よるさんも好きだよ、いつもありがとう」
うにゃあ、とまた返事をするようにひと鳴きして、しっぽをぱたり、と動かした。
次の日の朝。痕はまだ残っていて、彼の指の線に自分の指を合わせてみる。私よりひと関節と半分長い指。ひりつく痛みは、もう穏やかで緩やかな日々には戻れないと言っているようだった。片想いなんて何年振りだっけ。想いを告げれなくて終わった甘酸っぱい初恋に似た、けれど全く別の苦しさが私の心を占領した。
少しずつ薄くなる彼の痕に寂しさを感じて、まだ消えないで、と祈るように右腕を抱いて眠った。
まだ、まだ、と数えている間に、雨の日が多くなっていき、いつの間にか梅雨入りした。昨年より一週間も早いらしい。通りで蒸し暑い日が続くわけだ。新しく買った半袖のブラウスに袖を通す。
ギャザーのたっぷり入った袖を翻しても、もう右腕に痕は残っていなかった。