6話 再び
担当教科の授業が終わり、教材を置くため職員室まで戻る。
季節の流れは早いもので、蒸し暑さを感じるようになってきた。校内の冷房はほどほどに効いているとはいえ、捕縛布を巻いた首周りには熱がこもり、廊下を歩きながら少し緩めた。
午後の座学は集中力が低下するな、復習も兼ねて小テストでも挟むか、などと考えながら、わしわしと頭を掻きつつ自分のデスクに教材をディスプレイ横のボックスに立てかける。あとは一限後の帰りのHRに顔を出すだけだ。それまでに連絡事項の最終確認と明日の授業の準備を、と考えているとミッドナイトさんが現れた。
「お疲れ様、相澤くん」
「ミッドナイトさんもお疲れ様です」
「今さっき、
◇◇ちゃん帰ったところよ」
ふらっと寄ってきたミッドナイトさんが俺のデスクに手を置き、久しく聞く彼女の名前を口にする。
「はあ」
「はあ、ってねえもう。今日はいつもの営業くんと一緒だったわよ。仲良さげだったわ」
「そりゃ一緒に働いていたら喋りもするでしょう」
突然、「ほら」と一枚の書類を目の前に突き付けてきた。何故しまわず俺に見せるんだ。何の意味が、と書類をよく見てみると、納品書のはずの書類は向こうの控えのもので、「この書類受け取る方間違ってますよ」と、指摘する。
「ウソ、やだ。まだ間に合うと思うの。私、次授業あるし、相澤くんお願い、頼まれてくれない?」
白々しく慌てた声を出し、手を合わせウインクを飛ばせば、「ね?」と有無を言わさぬ圧を放つ。
この蒸し暑い中強制的に走らされ、記憶に蘇るあの頃のパシリ感。あの感じだとわざとなんじゃないかと勘繰ってしまうが、いや、ミッドナイトさんの事だ、十中八九わざとだろうな。素直に彼女に従う俺も俺だが。
はあ、と返事をしたが忘れていたわけではない。先月も今月も来たのは男性社員で、来月辺り来るだろうかと考えていた。そこでまさかの追加発注という手があったという閃きと、彼女が来ていて、そして帰ったという報告に驚いた返事だったのだ。
猫の話をする彼女はどんな顔で、どんな声なのだろうか。またあの柔らかい笑顔で話すのだろうか。猫の写真、見せて貰えるよう頼んでみようか。自分も最近黒猫を見かけると話してみようか。そんな風に思い出しては考えていたのだから。
来客用の駐車場に着けば、彼女ともう一人、ミッドナイトさんが言っていたいつもの快活の良い男性社員が話しながら帰り支度をしていた。
「あ、でも行くならこの間みんなで行ったとこがいいな」
「お、いいじゃん。あん時気になってたけど頼まなかったやつあるんだよな」
「え、もしかして、ポテトサラダの柚子のやつ?」
「そうそうそれ!」
食事の約束をしているのか。仲良さそう、か。まあ確かに一緒に食事に行くなら仲良いよな。気兼ねない関係だとあんな風に砕けた話し方になるのか。そんな事を思いつつ、ゆっくり近づいた。話に夢中でこちらに気づいた様子はなく、気まずいが早めに解決せねばと思い、話しかけることにした。
「あの、すみません」
え、と振り返った彼女がタイヤ止めに足を取られる。よろけた彼女へ反射的に手が伸びて、二の腕を下から強く掴んでしまった。それは、ふわりとした服の芯にしては細く、これ以上力を入れると折れてしまいそうだった。
「急に話しかけてすみません。大丈夫でしたか?」
「あ、いえ。助けていただいてありがとうございます」
反対の手首を掴んでいた男性社員も「大丈夫か?」と聞いている。
無事を確認しサッと離した俺と違って、彼女の手首を掴んだまま手を離そうとしない彼は、「何かご用でしたか?」と張りついた笑顔で俺に聞いてくる。
もしかして交際しているのだろうか? これは人助けであって深い意味はない。目の前に困っている人、危険にさられている人がいたから助けた、ただそれだけだ。
だが、俯いた彼女の手触りの良さそうな真っ直ぐな髪から僅かに覗く耳は赤くなっていて、一瞬目が離せなかった。もしそうだとするならば、彼には悪いなと思った。
「こちらが受け取る書類を間違ってしまいまして、すみません」
「あ、本当だ。こちらこそ気づかずにすみません。わざわざありがとうございます」
「いえ、こちらのミスですので」
書類を交換し確認すると、営業の男性は帰り支度を始めた。
二人の関係が親密ならば伝えない方がいいとも思ったが、あまりにも微動だにしない彼女が心配で言うことにした。猫の話をするだけなら彼も許してくれるだろう。
「
◇◇さん、またいつか、猫の……よるさんの話聞かせてください」
未だ俯いたままの彼女に話しかける。ゆっくりと頭が上がると、さらりと髪が動き、やっと顔がこちらを向く。頬は耳と同じく真っ赤で、揺れる瞳は俺の目を見ていた。か細い声が「はい」とだけ返事をする。その全ての動作に先の、もし、が消えていく。
俺の中で消えたところで確信があるわけではないが、赤く染まった耳を見つめてしまったことくらいは許されるだろう。
「失礼いたします」と会釈し、助手席に乗り込む彼女。走り出す車のサイドミラー越しに目が合った気がした。車が角を曲がり、見えなくなるまでそこを動けないでいた。
ぬるく湿った空気を握る掌には、彼女の柔い服と、腕の感触が残っていた。