5話 膨らむ
雄英高校へ備品補充の手伝いに行ってどのくらい経っただろう。
月一の納品だからもう2ヶ月か。
あの時、満開を迎えていた近所の桜は、みるみるうちに葉桜となり、濃い緑が生き生きと生い茂って気持ちの良い木陰を作り出していた。アパートのある通りの生垣には、紫陽花が咲き、しっとりとした風に重そうながくを揺らしている。
手伝いを頼まれるのもそうあるわけではないし、その先が希望する場所でもないわけで。
あの日から彼のことを考えると胸が浮く感じがしていた。そういう感覚が何なのか忘れかけていて、恋かも、と気づくのにも時間がかかってしまった。そしてこの先どう進めていいのかも全くわからないほど遠くなった感情だった。
しかも相手はあの有名高校の先生で、人気職業のヒーロー。アイドルに、芸能人に、有名人に、手の届かない人に、恋をしているようなものじゃないか。よくよく考えてみれば、相澤さんの対応はヒーローそのもので、完璧に人助けで気遣いの塊で、それを受けたからといって好意を抱くのは違う気もする。きっとそんなのが日常的な相澤さんにとっては迷惑な話だろう。
それでもあのわずかに動いた表情が忘れられずにいる。
恋というには大袈裟で、否定すれば胸が痛む。そんな曖昧なところにいる。
お昼休憩の自分のデスク。コンビニのサンドイッチを固いものを噛んでいるかのようにじっくり咀嚼して、ごくんと飲み込み、ふぅぅん、と鼻息混じりの長いため息をつく。最近は胸がいっぱいなのかあまりごはんが喉を通らず、図らずも体重が二キロ減った。キープするのが精一杯だったのに、心に誰かがいるだけで減ってしまうとは、単純だ。
気分を変えよう。
「よるさん何してるかな」
携帯から見守りカメラのアプリを起動し、映った映像からよるさんを探す。お気に入りの出窓にいたよるさんは、カメラの動作音に気づいたのか、ぬ、と映ったかと思うと、ちょいちょい、ちょいちょいと猫パンチを繰り出す。
「ふふふ、それカメラだよ。よるさん」
お留守番中のよるさんも可愛い。
音声機能はついてないのだけど、つい話しかけてしまう。
「猫動画? あ、よるさんか。こうやって動くの見るのは久しぶりだな」
背後から声がして、びくっと肩が飛び跳ねた。声のする方へ振り返れば、同期で営業の杉村くんが立っていた。
「わ、びっくりした! そうそう、見守りカメラでね、ちょっとよるさんの様子を見てたの」
「へえ、こんな便利なもんあるんだなあ。なんかカメラ殴ってね? はは、可愛いな」
少しの間、よるさんの様子を見届けたところで、そういえば頼みがあるんだった、と話を続ける。
「午後からの社用車、相席いい? 急ぎのやつでさ」
合わせた手のひらを頭上まで上げ、「この通り!」と腰を曲げる。今までに何度か見た光景に、「今回だけだよ」の言葉は意味がないとわかっていて、それを飲み込んだ私は、「仕方ないな」と返した。
「いいよ、じゃ13時に駐車場ね」
「助かる! ありがとう!」
ぱあっと輝くような爽やか営業スマイルを向けると、じゃあまた後で! と去っていった。
私の同期は杉村くんを含め四人いて、頻繁に同期会を開くほど仲が良く、気兼ねなく話せる仲で、特に話の合う杉村くんとは二人で飲みに行くことも多い。たまに周りからは「付き合ってるんですか?」「もう付き合っちゃいなよ」と言われることもあるが、ほんとに全く何にもないから大きなお世話だ。きっと向こうもそう思っている。
普段ならば朝行くところを、まとめてお願いしたいことがあるからと外回りを午後にお願いされていた。そのため午後イチで銀行へ行く予定だった私は、午前のうちに社用車の使用申請をしていたのだ。
入り口横の壁にあるホワイトボードの自分の名前の横に〝外出中〟のマグネットを置き、行き先と大体の戻り時間を記入する。手伝う旨は、上司と後輩にはきちんと伝え、急ぎのものがあれば携帯に連絡を入れるようお願いした。
いってきます、と声を掛けて駐車場へ向かうと、杉村くんが台車を押す姿が見えた。車の後ろにはもう一台荷物が乗った台車があって、この量で急ぎだったなら午前中行けばよかったのにと思った。
杉村くんは基本真面目なのだが、お調子者でちょっと押しが強いところがある。学生ならば分け隔てなく誰とでも喋るクラスの人気者といったところか。普通も普通のできれば目立ちたくない私からすれば、同じ会社の同期でなければ親しくならなかっただろうというタイプだ。
「結構な量だね、なんで申請忘れるのよ……」
「ははは。今朝入った急な発注だったし、明日でもいいって言われたんだけど、貸出のとこ見たら
◇◇だったから、午後一緒に乗せてもらおうかなーって」
調子の良いこと言いながら荷台に荷物を乗せていく。
「まあ、いいけどね。ところで行き先は? 時間は大丈夫?」
「14時に雄英高校」
「じゅうよじに、ゆうえいこうこう」
「そ、時間的には全然余裕だろ」
復唱した〝雄英高校〟という言葉に、とくんと胸が高鳴る。
鳴り始めたそれは、助手席に座る杉村くんにも聞こえるんじゃないかと思うほどにうるさくて、バレないよう小さく深呼吸をする。それでもまだ、とくんとくんと忙しい鼓動を落ち着かせるためエンジンを掛け、車を走らせた。
自分の仕事を終わらせ、雄英高校へ向かう途中、初対面であんな無礼な態度を晒したのに見た目を気にしてしまうなんて浅はかだと思いつつも、信号待ちで前髪を軽く整え、ブラウスのリボンをキュッと強く結んだ。
「ちょっとさ、荷物多いし手伝ってもらってもいい?」
雄英高校へ着き、来客用の駐車場で荷台から台車へ荷物を下ろしながら杉村くんが言った。
「もちろん。二人でやればすぐ終わるよ。台車も分けた方がよさそう、途中で崩れてもいけないし」
それらしい事を言いながらも、不純な動機でいっぱいだった。もし相澤さんに会えたら、この間の事をもう一回ちゃんと謝ろう。そして、ただの憧れだったとか、恋なのかもしれないとか、あの笑顔は見間違いだったとか、このふわふわぐるぐるした曖昧な気持ちの名前を探そう。
「サンキュー! お礼に今度飯でも行こうぜ」といつもの調子で誘う彼に、「はいはい」とこちらもいつものように受け流す。
校内に入れば、午後の雄英高校は賑やかで、生徒たちの元気な声が聞こえる。若さってエネルギーのかたまりのようだ。衣替えをして身軽そうな生徒たちは、キラキラとした眩しさを放っていた。
「こんにちは! お世話になっております! 福猫堂の杉村です!」
「もう来てくれたの? 助かるわあ」
事務室兼職員室で挨拶をすると、ミッドナイトさんが出迎えてくれた。
「急で悪かったわねえ、この時期、春以上に印刷するのをすっかり忘れててね。あら、今日は
◇◇ちゃんも一緒なのね」
「ご無沙汰しております。量が多いので補助で参りました」
そうなのね、と何故か少し残念そうなミッドナイトさんに案内され、備品室で作業を始める。
「じゃあ
◇◇は確認を頼むよ」
「はーい」
挨拶の時にちらりと職員室を見たが、相澤さんはいないようだった。今までも雄英へ来ることはあったけれど、あの日初めて会ったくらいだ。そう簡単に会えるはずない。何の教科教えているんだろう。全然想像つかないな。
発注されたのは、トナーとコピー用紙だったため、量は多くても作業自体に時間は掛からなかった。
「いやあ、
◇◇が一緒でホント助かったよ」
「別に何もしてないけど?」
いやホントに、と言葉を濁しながら何度もお礼を言う彼を不思議に思いながら、サインを貰いに再び職員室へ行く。
「補充終わりました!」
はあい、とまたミッドナイトさんが対応してくれた。やっぱり相澤さんの姿はないようだ。
「サインね、はい、どうぞ。今日は急に発注かけてごめんね、助かったわあ」
ミッドナイトさんは、書類を杉村くんへ渡して、私にはパチンとウインクをした。
「ありがとうございます! ではまた何かご入用でしたら、すぐ参りますので、よろしくお願いいたします!」
二人で深々とお辞儀をすると、空になった台車をそれぞれ押しながら駐車場までの道を歩く。
さっきのは何のウインクだろう、相澤さんに会えなかったなあ、とぼんやり考えていた。社用車までもう少しという来客用駐車場の敷地で杉村くんが、心ここに在らずな私に「疲れた?」と聞いてきた。
「ん? ちょっと考え事してただけ」
「ならいいけど、付き合わせて悪かったな。やっぱお礼させて。美味いもん食べたら元気出るって!」
「大丈夫だよ、全然元気! あ、でも行くならこの間みんなで行ったとこがいいな」
「お、いいじゃん。あん時気になってたけど頼まなかったやつあるんだよな」
「え、もしかして、ポテトサラダの柚子のやつ?」
「そうそうそれ!」
私というのは、本当に単純なもので、美味しいものの事を考えると少しだけ元気が出てきた。胸の苦しさは変わりないけれど、話をしながら食べれば気も紛れて喉を通るかもしれない。そんな事を考えながら杉村くんと片付けをしていると、「あの、すみません」と後ろから声をかけられた。
上から降ってくる耳ざわりのいい低い声。
「えっ」
この声って、もしかして相澤さん? うそ、ほんとに? なんでどうして。今日はもう会えないと思ってたのに。
はやくはやく、と焦る心が私の身体を動かした。