3話 猫の話
朝のHRが終わって、受け持つ授業もなく空き時間が続いた午前中。
春は何かと書類仕事が多い。それに加え、新入生の届け出された個性と把握テストとの齟齬、日々強化されていく在校生の個性把握、体育祭後すぐに始まるインターン各所への連絡など細々とした事務作業が多く、片付けても片付けても次から次へと仕事が湧き出てくる。
ディスプレイ画面、タブレット、手元の紙面を凝視しすぎて目が乾く。個性以外でもドライアイが邪魔をするなんて不合理の極みだな。己の目の酷使具合に鼻で笑って、マウス近くに置いた目薬をさし、目頭を指で揉む。
コーヒーでも淹れに行くか、と席を立とうとデスクに手をついた時だった。
「おはようございます、事務用品の補充に参りました。福猫堂の
◇◇です」
入り口にビジネスカジュアルな格好をした小柄な女性がいた。
事務室、職員室は珍しくほとんどの職員が出払っていて、近くには俺だけのようで、立ったついでに対応する。
台車が重かったのか、彼女は軽く息が上がっており、運ぶのを手伝うことにした。横を歩く彼女の桜色のジャケットは、春らしくていい色だと思った。桜といえば、空き時間に手が空いた人がいたら花見の準備を手伝ってほしいと校長が朝礼で言っていたような。だから人居ないのか。まあ静かでいいけど。
額やこめかみを拭く彼女のハンカチが淡い水色で、一足先に花見をした気分になる。
福猫堂さん、事務用品……。ミッドナイトさんが若い男性社員を捕食するかのように備品室へ連れて行ってるのを何度か見かけたな、と荷物を運びながら思い出す。
備品室へ案内すると、彼女はクリップボードに挟んだ紙と台車に積まれた物を交互に確認しながらちょこちょこ動き、作業を始めた。補充するのも手伝おうかと思っていたのだが、あまりにもきびきび動くので声をかけるタイミングを失ってしまった。
上に積んであった物は軽いようだが、下の方……今持った物も結構な重さじゃないか? この子の身長じゃ脚立に乗っても届かないだろ。
「俺やりますよ」
「え、いいのですか? 上の方届かないかもと思っていたので助かります。ありがとうございます!」
彼女は、また額にうっすらと汗を浮かべて、ほっとしたような顔でお礼を言った。受け取った段ボールを棚へ置いて、彼女が発注書から順に読み上げたものをまた棚へ置いていく。
最初からこうしていればよかったんだ。これ普通に重いな、普段は一人でやっているのだろうか。この棚がデカすぎるというのもあるが、もう少ししまう位置を考え直してもいいかもしれないな、などと考えていると「ふふ」と笑い声が聞こえた。
聞き流せばいいものを、「どうかしましたか?」と声をかけてしまった。彼女は慌ててクリップボードで口元を隠し、顔を赤くしたり青くしたり、ころころ表情を変える。別に問い詰めたくて聞いたわけではなく、ただ、なんとなく気になっただけだ。威圧的に見えたのだろうか。おろおろする彼女を前に、どうしたもんかと頭を掻いた。
やっと口を開いた彼女が返した言葉は、屈んだり伸びたりする姿が飼い猫に似ていたから、だった。言い訳にしては遅刻をした生徒のそれより下手で、本心ならばよくわからない。俺が猫に似ている? 理解はできないが、猫は好きな方だから別に悪い気はしなかった。未だすまなさそうに縮こまっている彼女の方が怯えた猫のようだ。さっきはあんなに柔らかく微笑んでいたのに。
「いえ、俺猫好きなので。頭上げてください。そう言えばおたくも猫つきますよね、社名」
もう少し気の利いたことでも言えればとも思ったが、どっかのうるさい同期と違って口下手な俺はこのくらいしか思いつかなかった。だが、「私も猫が好きで就活の時ここだと思って決めました」と言うので、彼女も相当なただの猫好きか、と思わず笑ってしまった。あれだ、おそらく、道端に落ちているビニール袋が猫に見えてしまう猫好きあるあるのようなやつだ。
作業が無事終わり、受取のサイン欄に印鑑を押す。
「それでは失礼いたします」と丁寧にお辞儀をする彼女は最後まで謝っていた。
そういえば飼い猫の名前はなんというのだろうか。ふと気になって聞いた。
彼女は、きょと、と目を丸くさせ、それから少し困ったように笑って名前の由来を話した。
「黒猫だから夜か。いい名前ですね」
飼い猫のことを思い浮かべているのか、名前を褒められて喜んでいるのか、ふわりと柔らかく微笑み、もう一度「失礼いたします」と軽く会釈すると帰っていった。
桜色の彼女は、猫好きの、よく表情が変わる忙しいひとだった。
花見の時に見上げた空は、やはり淡い水色でよく澄んでいた。
あれからしばらく経って、福猫堂さんから来たのはいつもの快活良い男性社員で、相変わらずミッドナイトさんが対応している。
まああの重さと量だ。彼女は代理かなにかだったのだろう。そういうことにして、最近見かけるようになった猫に思いを馳せる。
近所のコンビニへ行く際、以前は違う道を通っていたのだが、なんとなく一本隣の道を通ってみると不思議と懐かしさを感じる通りに出た。そこに並ぶ個人宅の生垣や石壁に生えている四季の草花が、子どもの頃の通学路にもあったからだと何度か通るうちに記憶が思い起こされた。
その通りには道に面した外壁に出窓のあるアパートが建っているのだが、そこの二階の出窓に佇む猫が黒猫で、最初見た時、置物と見間違えるくらい凛としていて静かだった。きっと彼女の飼い猫の〝よるさん〟も、夜と名付けられるくらいなのだからあの黒猫の様に美しいのだろうと勝手に想像する。
「はぁあん、今日もいい男だったわあ」
ミッドナイトさんが、手のひらで頬を挟み、悦に浸りながら帰ってきた。
「ちょっと、学校で変なことしないでくださいよ」
「やだするわけないじゃない、ただ重いものを、はあはあ言いながら運ぶ姿を眺めてるだけよ」
「いや、それも十分変だと思いますよ。頻度は多くないと思うんですが、女性の時ないですか?」
「ああ、
◇◇ちゃんね、彼女の時はちゃんと手伝ってるわよ」
当たり前じゃない! となぜか偉そうに踏ん反りかえる姿に、そうですか、と返す。
「彼女も、その、営業の方だったり?」
「いいえ、
◇◇ちゃんは確か経理だったはずよ。営業さんが出払ってるときのお手伝いだって言ってたわ」
ミッドナイトさんは、ふうん、と舐めるように俺を見上げ目を細めると、何か面白いものでも見つけたかのように、にやりと口角を上げた。
「なになに気になっちゃうの?」
にやりとした顔のまま茶化してくる。ほんとこの手の話好きだよなこの人。
「別に、女性だと重いんじゃないかな、と思っただけですよ。以前手伝った時、結構な重さだったんで」
確かにねえ、私は鍛えてるから全然平気だけど普通の女の子には重いわよねぇ、と言い、ペンをくるくると指で回しながら自分のデスクへと戻っていく。
やはり手伝いだったか、と納得して、咄嗟に出た言い訳がましい言葉に一度小さく息を吐き、深く瞬きをした。何故言い訳がましいと思ったのか自分でも引っかかったが、とりあえず気づかないふりをすることにした。それを大事にしたところで、どうにかなるとも思わないし、どうにかしようとも思わないくらいにはそういうのから遠くなっていたからだ。
会わなければ忘れてしまう、そう単純なものでもないことくらい知っているはずなのに。