最終話 好き
春は出会いの季節。改めてそう思う。
早いもので、よるさんと出会って三度目の春を迎えた。猫のよるさんは、人間で言うと私と同じくらいの年齢で、もうすっかりお姉さんだ。青みがかった黒の艶やかな綺麗な毛並みと、深い金色の瞳が満月のようで、まるで夜みたいだといつも思う。よるさんが私を見つめて、ゆっくりと瞼を閉じれば二つの小さな月が欠け、また満月を迎える。伝わって、繋がって、満足そうに私を見ている。私の大切な存在。
そして、桜が降る頃に出会った消太さんもまた、私にとって大切な存在となった。失敗したり迷ったり弱気になったり、決して真っ直ぐではなかったけれど、自分自身を見つめ直し、向き合い、さらに彼を知るために必要な寄り道だったのだと、今では思う。
甘く柔らかい風が吹き、ホッと心を緩めたところにまた冷たい雨が降り、薄い灰色の空にため息をつく。まるで恋のようだ、と年甲斐にもなく考えてしまうのは、黒猫みたいな彼、消太さんに恋をしているから。
そらせない視線に、きゅうと切なくなって、息が浅くなる。見慣れたはずの私の部屋の景色が、ぼやりと揺らぐ。右耳から聞こえる速い鼓動はとくとく鳴って、私の速い鼓動と心地よくずれながら重なって一つになる。
夜がつなぐ恋のしっぽ 最終話 好き
真っ直ぐで誠実で思慮深くて、さすが教師でヒーローだと思っていた彼は少しだけ意地悪で、いたずらっぽく笑う相澤さんに、彼の心の端っこに触れられた気がして嬉しくなる。たまに反則級のギャップを見せてきて心臓が止まるかと思う。触れる手が優しい。横顔が綺麗、すごく好き。声は、耳の奥がきゅうとなるほどに切ない、けれど心地良い。
日々新しく知る彼のことと、どんどん大きくなる気持ちで私の心は膨れ上がり、今にも溢れてしまいそう。
それでもまだ相澤さんが知りたい。相澤さんと一緒にいたい。
恋はわがままだ。会えない時は会いたいと願って、会えれば連絡先が聞きたいとそわそわして、それらが叶えば、もっと会いたい、もっと声が聞きたい、知りたい、触れたい。もっと、もっと、と欲張りになる。
眠る前の私はわがままだ。ベッドの中で瞼を閉じれば、彼でいっぱいになって、早く朝になればいいのに、と願ってしまうほどに。
3月の終わり。一緒に帰った日の数日後は、私の誕生日という週だった。当たり前のように祝うと言ってくれた彼に、私は、相澤さんを独り占めしたいと言った。通りがかった街灯の下で、彼は、もちろんと柔らかい声で返す。背の高い彼を見上げれば、優しく笑った顔が見えた。
「0時を回った時、電話します。そして週末、改めてお祝いしましょう」
なにもかもが嬉しくて、私も笑った。
これほどまでに誕生日が待ち遠しく思ったのは、いつぶりだろうか。
『
〇〇さん、お誕生日おめでとう』
『
〇〇さん』
相澤さんが、私の名前を愛しい人を呼ぶかのように、しっとりとした声で呼ぶから、緩んだ心からぽろりと溢れるところだった。二度目に呼ばれた時は少しだけ期待をしてしまい、返事が遅れた。「呼んだだけ」だと相澤さんは笑って、それに私もふざけて返したけれど、私だって「消太さん」って呼んでみたい。
彼の名前を呼んで、好きって言いたい。
相澤さんはその時、どんな顔をするのだろう。
今年も近所の桜が満開になった。
一週間も経てば、ひらひらと舞い、鈍色のコンクリートは軽やかな淡いピンク一色となる。そんな日に私は誕生日を迎え、この春色の絨毯を我が物顔でゆっくりと歩くのだ。
週末、約束通り〝相澤さん一日独り占め〟がスタートした。一度私の家へ迎えに来てくれた相澤さんの手には大きな荷物と、ホールケーキが入っているであろう大きなケーキ箱があって、わあと喜びの声を上げる私に、「帰ってからのお楽しみです」と微笑んだ。それからすぐ、近所の公園へ桜を見に出かけた。去年の夏、靴擦れで歩けなくなっていたところ、偶然通りかかった相澤さんに手当てしてもらった公園だ。
外は澄んだ空に薄らと雲が浮かび、ぽかぽかと暖かく、絶好のお散歩日和だった。隣を歩く相澤さんの藍色のシャツと春の淡い景色とのコントラストにわくわくする。おろしたての白いスニーカーも喜んでいるように見える。
「手、繋いでもいいですか?」
そう言ってポケットから手を出した相澤さんを見上げれば、眩しさに視界がチカチカした。太陽の眩しさだけではないのはわかっている。相澤さんといると、いつもより鼓動がはやくなる。それを私は心地いいとさえ思う。進み方もわからず、やっぱり無理かもしれないと落ち込んだ公園を、手を繋ごうと誘われ、一緒に歩こうとしている。夢のようだ。
はい、と私が返事をして彼の手を握ると、「
〇〇さんはたまに大胆ですよね」と笑った。自然と呼ばれた名前に、耳の奥がきゅうとなって「消太さんほどではないです」と私も彼を名前で呼んでみた。
「ほら、そういうところ。たまらなく可愛いです」
「~~っ!!」
なんでこういつも倍以上になって返ってくるのか、処理が追いつかなくて、繋いだ手をぎゅっと握ってしまった。ちらりと盗み見れば、満足そうに緩く口の端を上げた彼が、私を見ていた。
「さ! さくら! 桜を見ましょう!」
「ふふ、そうですね」
公園内の桜並木を歩く。緩い風が、消太さんの髪や、藍色のシャツの襟を揺らしていた。彼にはああ言ったけれども、降る花びらも、垂れるほど伸びた枝の先に咲く桜もぼんやりと見えるほどに、私のピントは彼にばかり合ってしまう。それなのに広角レンズで撮っているかのように視界が広く、映る全てがキラキラとしていて、青春映画や恋愛映画のワンシーンを観ているようだ。
歩きながら長いようで短かった一年を思い返す。第一印象はお互い良くなかった、と思う。けれど私は、柔らかく笑う彼に惹かれた。彼のことを考えると、ふわ、と胸が浮く感覚がして、それは恋なのだと気づいて、消太さんのことが好きだと気づいて。落ち込んだり不安になったり卑屈になったり自分の覚悟のなさに情けなくなったりして、それでも消太さんは、縮こまってしまった私の心をひょいと簡単に掬い上げて、優しい笑顔で包んでくれた。思い出しても全部が夢のようだけれど、繋いだ手の感触が、あたたかさが夢じゃないと言っている。
一歩、また一歩、歩幅が揃うたびに「すき」が募っていく。
「ふふ、何考えているんですか?」
消太さんが私の顔を覗き込んで言った。耳にかけられた前髪が、はらりと垂れる。私はこれに弱いということが最近わかったばかりだ。細くて柔らかそうな黒髪に、とくん、とくんと鼓動が速くなる。
「しょ、消太さんのこと、です」
「へえ、奇遇ですね。俺もです」
そう言って、ぐっと引き寄せた。急に縮まる距離に、触れ合う腕に、かあっと顔が熱くなる。
肘がもう消太さんの身体に触れそう。これって恋人の距離じゃないの? 私たちは知らない間に恋人同士になってしまったの? 歳を重ねれば雰囲気でそういう関係になることもあるらしいけれど、消太さんはそういう人ではなさそう。私も違う。ちゃんと言いたいし、言われたい。今言う? でも今声を出したら絶対に震える。裏返る。心臓がうるさくて声量の調整ミスって日向ぼっこをしている鳩たちを起こしてしまうかも。桜並木も折り返し地点。水面の反射が眩しかった小さな池は私の後ろ側になったけれど、瞼の裏に映った残像がチラチラとストロボのように光って、依然として眩しい。
ああ、思考がまとまらない、一言目が思いつかない。
「桜、綺麗ですね。こうやって落ち着いて見上げたのはいつ振りだろう」
消太さんの言葉で我に返る。
「え、ええ、綺麗ですね。お花見、とかしないんですか?」
見上げた彼の頬や耳は、ほんのり桜色になっていた。「見ないで」と言わんばかりに斜め上を向いている消太さんに、ドキドキしているのは私だけではないと知って、ホッとした。
「花見は教員同士で毎年あるんですが、どんちゃん騒ぎで花なんて愛でる状況じゃないんですよ」
「うふふ、楽しそう」
「
〇〇さんは? 花見、しないんですか?」
「してたんですけど、名所だと場所取りが毎年大変で、もういつも通りご飯でいっかーって。代わりに帰りに夜桜見ながら歩いたりして」
「ああ、場所取り。大変だって聞きます。夜桜もいいですね。夜また見に来ますか」
「いいんですか?」と聞けば、「もちろん。一日独り占めなんでしょ」と言って、私の好きな顔で笑った。今なら言えそう、と思った時、「帰ったら昼飯にしましょう。色々準備したんですよ。よく行く店のものなので味は確かです」と消太さんが自信満々に言うから、なんだか可愛らしくて顔が緩んでしまい、今はこの雰囲気を楽しもうと「すき」を飲み込んだ。
帰り着いた私の家では、いつも通りよるさんがお出迎えに来てくれていて、私や消太さんが撫でると、心地良さそうにきゅうと瞼を閉じた。そして私たちより先に、トトトトと軽やかに歩いて部屋の奥へと入っていく。その時のピンと伸びたしっぽが可愛くて、思わず顔を見合わせて微笑んだ。
消太さんが持ってきてくれたのは、立派なオードブルで、チキンとレタスが入ったラップサンドにローストビーフ、カラフルなマリネ、クリームコロッケにポテトサラダが彩りよく盛り付けられていた。よく行く店というのは、雄英高校の先生方がよく飲みに行ったりするお店で、学校の近くにあるらしい。雄英の卒業生が切り盛りしているお店はリーズナブルだが味は確かだと、消太さんが教えてくれた。
そしてなんとケーキは消太さんの手作り。これまでの感じだとイベントや記念日を大事にするマメな人なのだろうか。それでも手作りでくるとは想定外で、意外と言ってしまったら失礼だけれど、クールそうな見た目と全然違って、とてつもなく可愛いと思ってしまった。手作りのホールケーキは、雄英の食堂の先生と一緒に作ったそうで、私がお菓子作りが好きだからどんなものなのかやってみたかったと少し照れながら言った。
シンプルで品のあるホールケーキには、繊細な飴細工と、ピンクや黄色のエディブルフラワー、〝Happy Birthday
〇〇さん〟と書かれたチョコプレートが乗っていた。シンプルでオーソドックスなケーキは難しいし、センスが必要になる。目の前のそれは百貨店のスイーツショップのショーケースに並んでいても遜色ない見事なものだった。私の好きな色で飾られた上品なケーキに見惚れていると、消太さんは生クリームの泡立てと、飾り付け、プレートの文字を書くのをやったと教えてくれた。消太さんは、やはりセンスがあるらしい。
テーブルに並んだ豪華な食事に、驚きのあまり「美味しそう」「すごい」「綺麗」「嬉しい」とありきたりな言葉しか言えずにいたけれど、彼は、「そんなに喜んでもらえるなんて。俺も嬉しいです」と緩やかに眉尻を下げ、口の端を上げた。
「消太さん、優しくって笑顔が素敵だから、生徒さんたちに人気でしょう?」
「ん、いや、初めて言われましたね。おそらくあなたの見ている俺は、あなただけしか知らないと思います」
消太さんは、私を見つめて言った。
そう言われて、ふと思い出す、第一印象。あれが彼の学校での姿なのだろうか。もう私の中の消太さんは柔らかい笑顔や、少し照れた顔で、あの時感じた、怖い印象や近寄り難さはどこにもない。それは私だけが見ている、私だけが知っている、恋をしている彼。
「そういえば最初、ちょっと怖いかもって思ったの思い出しました」
「はは、確かに怯えてましたね。俺は、そうですね、桜色のジャケットがよく似合う笑顔の素敵な女性だなと思ってましたよ」
「うそ、あんなに失礼なこと言ったのに」
「俺は
〇〇さんが謝るほど気にしてなかったです。表情がよくころころ変わって面白いなと、むしろ好印象でしたね」
まさか、第一印象はお互い良くないと思っていたのは私だけだった。彼の言う好印象に疑問がよぎったけれど、私しか知らない消太さんが柔らかく笑いかけてくれるから、私も私を好きになっていく。それでもやはり恥ずかしくて、「そうなんですか」と照れながら小さく返事をした。
ふふ、と空気を含み優しく笑ったあと、「そろそろ食べますか」と彼は言った。食べ始める前に許可をもらって並べられた料理とケーキの写真を携帯に収めていく。おそるおそる「消太さんとも撮りたいな~なんて」と溢すと、彼は「撮りましょう」と言った。消太さんは長い腕を伸ばし、豪華な食事を背景に、よるさんを抱っこした私と一緒に撮ってくれた。写真の中の消太さんも素敵で、よるさんも美しく、私だけが緩みっぱなしの笑顔で写っていた。
「写真、どうでした?」
「私、顔ゆるゆるです」
「あはは、可愛いですよ。すごく嬉しいというのが伝わってきますね。あとで俺にも送ってください」
ずっとプレゼントをもらい続けているみたいで、こんなに幸せな誕生日があってもいいのかと、涙が出そうで下唇を噛んだ。
オードブルはどれも本当に美味しかった。胸いっぱいだった私は、メニュー全てを堪能した頃にはお腹もいっぱいになってしまって、消太さんが頑張れば食べてしまえる量だったけれど、「また夜ゆっくり食べましょうか」と言ってくれた。夜にはお酒いかがですかと聞けば、あなたが眠らなければと笑って答える消太さんとふざけ合いつつ片付けをした。
それも終わり、アイスティーを持ってリビングへ移動する。大きめの一人掛けのソファは二人で座るには手狭で、相澤さんへ座るよう勧めてみたけれど、隣にいる方がいいと私の横へ座った。春夏用に新調したコットン生地のラグがさらさらしていて気持ちがよく、ソファへ寄り掛かって一息つく。
「ケーキもう少ししてからでもいいですか? お腹がいっぱいで」
「もちろん。時間はまだあるんですから、
〇〇さんの好きなように」
「ふふふ、ほんとに一日独り占めですね」
「どうですか、楽しいですか? 俺、隣にいるだけですけど」
「すっごく楽しいです! それがいいんです。隣にずっと消太さんがいて夢のようです。ごはんもおいしくて、ケーキも綺麗で。ほんと最高のプレゼントです」
気を抜くとぽっこりお腹がわかってしまいそうで、腹筋に力が入る。二人掛けのソファに買い直そうかな、なんて考えていると私と消太さんの間によるさんがやってきた。
私を見つめたよるさんが、にゃあと一声鳴いて、ゆっくりと瞬きをした。
「うふふ、今日よるさん甘えん坊だね、私も好きだよ」
額を撫でれば満足そうにもう一度、にゃあと鳴いた。くるりと消太さんの方を向いて、もふもふの手で彼の脚をふみふみ歩き、膝の上で丸くなった。胡座をかいた消太さんにすっぽりおさまるよるさんが少し羨ましい。しっぽをふりふり大きく動かしている。ご機嫌のようだ。
「よるさん、感情表現が豊かで可愛いんですよね。今も消太さんの上ですっごくご機嫌なようです」
「俺もこんなに賢くて意思疎通のできる猫に会ったの初めてです。一緒に居る人に似ると言いますよね」
「そう、なんですかね、えへへ。確かに消太さんに懐くの早かったですもんね。あ、あはは」
自分で言っておいて、照れるなんて。かあっと赤くなる私に相澤さんは、見てて飽きないなと笑った。
「そういえば、さっき、よるさん何か言ったんですか?」
「さっきは、目を見つめてゆっくり瞬きしたんです。猫が大好きって伝えてくれてるらしいですよ」
消太さんは、へぇと言いながらよるさんの背中を撫で、私の目を真っ直ぐに見つめた。熱くて、でも優しくて、吸い込まれそうなほどに黒い瞳に私を映して、重そうな瞼がゆっくり閉じた。その仕草に息をのんで、焦って吸った息が、ひゅっと喉を掠める。けれど、ゆっくりと上がっていく短い睫毛に見惚れた。
「どう? 伝わった?」
「えと、それはあの、え、と」
意味はついさっき自分で説明したからわかっているのに、言葉が出てこない。
黒猫のような彼が、消太さんが、私を「好き」と言っている。
私の目も熱くなって、視界が揺らぐ。消太さんは、照れくさそうにぽりぽりと頬を掻いていて、耳まで赤くなっていた。
「俺を最初に猫みたいだって言ったの、
〇〇さんですからね」
そう言って、拗ねた子どものように、下唇をムイっと突き出す。涙で滲んだ向こう側で、消太さんが好きと言って、照れている。うるさい心臓がボウっと鼓膜を揺らす。あまりのうるささに自分の身体じゃなくなったみたいで、心がふわふわと居所を失っている。
ぱちぱちと瞬きをしながら私は、こくりと頷いて、そんな私に消太さんが柔らかく笑いかけた。ふ、と緩んだ眉に、とろりと下がる目尻が優しくてまた涙が滲む。
「俺、
〇〇さんのことが好きです」
「私も。……私も消太さんが好き、です」
あなたはほんとによく泣きますね、と私の頬を消太さんの指が撫でた。彼が触れて、身体に心が戻ってくる。
私のことを好きだと言った彼は、涙が溢れるほどに優しい顔をしていた。この瞬きがシャッターだったらいいのに。でも今撮ってしまったら滲んじゃうなあ。溢れ出る涙を消太さんが何度も拭ってくれた。
「自分でも最近知ったんですけど、感情が昂ると出ちゃうみたいです」
「そういう表情豊かなところ、好きです。もっとそばで見ていたいと、ずっと思っていました」
なので今日は俺にとっても様々な意味で良い日です、と空いていたよるさん一匹分の幅を詰めた。薄い布越しに触れた肩がじんわりとあたたかくなる。手より触れ合う面が多くて、消太さんの体温をしっかり感じる。言えた。名前を呼んで、好きって言えた。伝わった。嬉しい。せっかく拭ってくれたのに嬉しすぎて、またうるうると目頭が熱くなる。
消太さんはよるさんが起きないようにそっと腕を伸ばし、私の肩をぐっと抱え込んた。よるさんと同じように私も消太さんにすっぽりとおさまる。ちらりと目線を上げれば筋の浮いた男らしい首元が見えて、すんすんと鼻を鳴らすとあの時かいだ、いい匂いがした。男の人のにおいに、石鹸のような清潔なにおいが混ざった消太さんの匂い。好き。藍色のシャツはそれに洗濯洗剤とお日様のにおいもする。お散歩したからかな。好き。ドキドキするのに不思議と落ち着く。
「ふふ、やっぱり大胆ですね」
耳を寄せた胸元から消太さんの声がした。撫でるような低音の振動が伝わり、頬がふるりと粟だった。私の頭に彼が頬を擦り寄せる。よるさんがよくやる仕草みたいで、本当に大きな黒猫のよう。好き。
「消太さん、いい匂いするからつい。好きな人にしかしないです。私、今日から消太さんの彼女になってもいいんですか?」
私の問いに消太さんは、短く「ええ」と答え、喉仏をゆっくり上下させた。そして、「俺と付き合ってください」と言ってくれた。右耳に直接響く声と、とくんとくんと速い鼓動は彼のもので、彼も私に恋をしているのだと実感した。
「はい」と答える私の鼓動も心をきゅっとつねられたような甘酸っぱい速さになっていて、消太さんの鼓動と重なっていく。とくん、とく、とくん、と心地よいリズムを刻み、想いが通じ合えた喜びに震えた。
丸くなっていたよるさんが、すくりと立ってラグの上でうーんと伸びをした後、消太さんへも「好き」の瞬きをする。彼が嬉しそうに人差し指でよるさんの顎下を撫でながら「俺もよるさん好きですよ」と答えれば、よるさんは満足そうに、ふすうと鼻を鳴らし後ろのソファへ、ひょいと登ってまた丸くなった。
その姿に私たちはまた顔を見合わせて笑う。細めた瞼を上げれば、ふいに視線が絡まり、近づく消太さんの顔に目を閉じた。嬉しくて、しあわせで、あたたかかった。
思えば、よるさんが繋いでくれた恋だったように思う。
よるさんのように真っ黒な彼の動く姿を猫のようだと思った。彼の優しさが聞いたよるさんの名前。恥ずかしさで固まる私によるさんの話を聞かせてと言ってくれた。猫好きな彼は見かけた黒猫によるさんを重ねて、同時に私も思い出してくれて。それは本物のよるさんだったんだけれど。あの時は驚いたなあ。よるさんもいつの間にか消太さんを気に入って、出窓から消太さんが見えれば教えてくれた。気に入った人の膝にしか乗らないよるさんは、なんの躊躇いもなく彼の上で丸くなり、ご機嫌にしっぽを振って、消太さんも嬉しそうによるさんを撫でる。私の大切なふたりが仲良くなって私も嬉しい。
始まりも、距離が縮まる時も、今だって私たちの間にはよるさんがいてくれた。
恥ずかしくて下を向いた私の顎に消太さんが触れ、離れた唇がまた重ねられた。薄い唇が喰むように重なって私を擽る。バレンタインの時に触れられた指先よりもはっきりと消太さんを感じた。何度か味わうよう喰むと一度離れ、顎から頬へと彼の指の背が私の輪郭をなぞる。
一気に詰められた心と身体の距離にのぼせ上がった私の首は熱くて、ドクドクと激しく脈を打ち、頭も心臓も破裂しそうだ。
「しょ、消太さんっ、も、ちょっと身体が、もたないですっ」
私に触れる消太さんの手を両手で掴んで制すると、ふふと優しく微笑んで、ちゅっと鼻の頭に唇を落とした。
「可愛くて嬉しくてつい。そろそろケーキ食べましょうか」
「……消太さん、たまにいじわるですよね」
「好きな人にしかしないですよ」
そう言って彼は、私の指にも唇を落とした。
時計の針は15時を指している。
穏やかな昼下がり、私と彼をつないだよるさんの、すふすふという寝息を聞きながら綺麗な誕生日ケーキを食べた。夢のようだと言う私に消太さんは、夢じゃないよ、と桜色の花びらが乗ったケーキをひとくち私の口の中へ入れた。
「
〇〇さん、誕生日おめでとう。好きだよ」
レースカーテンの向こうの空は淡い水色で、できたてのわたあめのような雲が浮かんでいる。外では暖かい陽射しの中、緩く甘い風に桜が舞って、新しく何かが始まるには素晴らしすぎるくらいの春の日だった。