22話 春をうつす
二人とも同じことを考えていたらしい。
ホワイトデーの話題になった時、同時に出た、「あの」から続いた言葉はやはり同じで、「照れますね」と、はにかむ彼女を微笑ましく思いながらデートの約束をした。
想いが少しでも伝わればと思ったバレンタインは、また僅かなすれ違いでタイミングが合わなかった。いや、俺がまた無神経だっただけだが、彼女は小さな違和感も臆することなく伝えてくれるため助けられている。そういった彼女の素直さもあって、俺たちはすれ違いで溝が深まることなく、これが二人の並んで歩む速さだと言わんばかりにゆっくりと進んでいる。まるで、一緒に帰る時の二人の歩幅のようだ。
ホワイトデーに約束したデートも、幸せな時間だった。俺の好みが知りたいからとちょこちょこ動き回る彼女が危なっかしく、手を繋いだ。何度か触れたことのある
◇◇さんの手は、しっくりと俺の手に馴染む。きっと相性がいいのだろうと勝手に頷いたりした。繋いだ途端、急におとなしくなり、「さっきまでの勢いは?」と聞くと、「不意打ちは反則です」と小さく答えた。帰り道も繋ぎたかったが、人混みでなければ繋ぐ理由もなく、触れそうで触れない距離がもどかしかった。
卒業式に修了式も終わり、春休みになった。来年度入学してくる全科生徒の個性把握や申請されたコスチューム等の確認に保管、その他諸々な事務処理に舞い込む仕事でデスクは山積みな日々だったが、週に一回一緒に帰るという約束は続いている。部活や自主練に励む生徒でそこそこの出入りはあるものの、やはり三年生が巣立っていった校舎は普段の休日と比べると静かで、窓から入ってくる柔らかい風に春を感じながら仕事をしていた。
◇◇さんに出会って、一年が経とうとしている。
今日の空と同じ淡い水色のハンカチと、桜色のジャケットを着た彼女のことを思い出す。今年も見れるだろうかと考えていた時だった。
「おはようございます! 福猫堂の
◇◇と申します。事務用品の納品に参りました」
聞き慣れた声に振り返れば、思い返していた桜色のジャケットを着た彼女が立っていた。天井の高い出入り口の横にちょこんと佇む姿が可愛い。纏う空気が柔らかくて彼女自身が桜のようで、春のようで、身体の中からじんわりとあたたかくなる。他に事務員さんやいつも対応しているミッドナイトさんもいたのだが、誰よりも早く足が自然と彼女へ向かった。
「おはようございます。学校へ来るの久しぶりですね、手伝います」
「相澤さん、おはようございます! ありがとうございます」
彼女から台車を受け取り、共に備品室へ行く。台車は相変わらず重く、積まれた量に驚くが、これを押せる彼女は割と力があるのかもしれない、と今更ながらに横を歩く彼女の小柄な身体を盗み見た。
そういえばお菓子作りは力と体力がいると何かで見たな、とふと思い出し、ずっしりとバランスよく積まれた台車から彼女の読み上げた用品の箱を棚へ置いていく。半分ほど終わった頃に彼女が、ふふと柔らかく笑いかけ、「相澤さん」と俺の名前を呼んだ。
「なんだか一年前を思い出しますね」
「ですね。ちょうど
◇◇さんのことを思い出していたところにあなたが来たから驚きました。その桜色のジャケット姿また見たいなと思っていたんです」
「まだこの辺りじゃ桜はまだ三分咲きくらいですけど、今日とても天気が良くてあたたかいから嬉しくって。思い出してくださった時に来れてよかったです」
この部屋に窓がないのが惜しいほどに、彼女の笑顔は晴れやかであたたかかった。淡い空の下で笑った彼女はもっと美しかっただろう。
「すごく似合ってます。桜を見るとあなたのことしか思い出せないくらいに」
「えっ、あ、はい、あ、ちょっと今見ないでくださいっ、多分顔真っ赤で恥ずかしいですっ」
クリップボードで顔を隠す彼女に、「それ下げないと作業できないでしょう?」と言えば、「相澤さんのいじわる」と可愛らしい事を言って、「私も相澤さんのその笑顔に安心して、ドキッとして、今の私がいるんです」とちらりとクリップボードから顔を覗かせた。それは反則だろ、可愛すぎる、抱きしめたい、学校というのをうっかり忘れてしまいそうだ。
「へへへ、相澤さんもお顔真っ赤ですね」
「……見ないでください」
作業が終わり、そのまま別れるのが名残惜しく、社用車まで送った。帰り際に、会えて嬉しかったと俺が言えば、
◇◇さんは「私もです」と微笑んで、帰っていった。俺は
◇◇さんが好きだ。もう抑えることができないところまできている。そう思いながら校舎へと足を動かした。
「あなたたち、二人して顔真っ赤になって出てきて、えっちなことしてないでしょうね!」
デスクへ戻る前に立ち寄った給湯室、ミッドナイトさんに話しかけられた。
「えっちって、あんたじゃないんで校内でそんなことしませんよ」
なにを言っているんだこの人は。というか声がデカい。春休みで生徒は少ないとはいえ、聞こえたらどうするんだ。少しでもクールダウンしてもらおうと「コーヒー飲みますか」と聞けば「いただくわ」と言ってまたそこそこデカい声で話し始めた。手間も時間も気遣いも全く無意味だった。
「失礼ね、私だってそのくらい弁えてるわよ! そういえば、付き合い始めてどのくらいなの? ご祝儀渡すの忘れてたわ」
「ちょっと声デカいですって。まあ、まだですけど」
「はあ?! ウソでしょ? 相澤くん、告白しない気? なあなあに流れで付き合おうと思ってない? はっきりしない男はモテないわよ」
「んなわけないじゃないですか、タイミングってものがあるでしょう。好きにさせてくださいよ。あと声がデカい」
「焦ったいわあ、ああもう焦ったい! 相澤くんあなたそんなに奥手だったの? 好きよ、個人的にはね! でも、そんなに好き好き好意を見せてくる男性からいつまでも告白されないのはいい気持ちじゃないってことも覚えておきなさい! 恋する女の子なんてすーぐ不安になっちゃうんだから」
「それは、まあ、……はい、肝に銘じます」
「あらやけに素直ね」
「俺の預かり知らぬところで不安にさせるのは本意ではないので」
ミッドナイトさんは、わかってるのならいいのよ、とコーヒーを受け取って給湯室から出て行った。茶化しながらも的確な事を言ってくる先輩に無意味とは言いすぎたなと反省し、そろそろはっきりさせなければならないな、と考えながら熱いコーヒーを啜った。
3月の終わり、来週は
◇◇さんの誕生日のある週。
一緒に帰った時、「誕生日もうすぐですね。どこか行きたいところや食べたいものありますか?」と聞けば、「相澤さんと一日一緒にいたいです」と思ってもみない可愛らしい返事が返ってきた。「どこでも一緒に行きますよ」と返すと、「それも嬉しいんですけど、家でお話したりとか、近所を散歩したりとか、とにかく相澤さんを一日独り占めしたいんです! えっと、あの、誕生日なので……。だめですか?」と頬を染め照れながら言った。「もちろん、いいですよ。喜んでお受けします」と返事をすれば、えへへへと少女のように無邪気に笑い、「ありがとうございます」と微笑んだ。
そして数日経って、
◇◇さんの誕生日まであと数分。今までメッセージのやりとりをしていて、日付が変われば電話すると伝えていた。週末会うことになってはいるが、やはり誰よりも先に祝いたい。いつも思うが、通話ボタンを押してからの数コールに胸が高鳴る。ドキドキする、というやつなのだろう。彼女の声が待ち遠しくて喉の下辺りがどくどくと脈を打つ。
コールが切れる前に一呼吸。
「こんばんは、相澤です」
『相澤さん、こんばんは。
◇◇です』
メッセージで会話をしていたというのに、声を聞くというだけで幸福度が格段に上がる。高すぎず低すぎず耳に馴染む、柔らかい桃のような甘く心地よい声。
「
〇〇さん、お誕生日おめでとうございます」
『ありがとうございます。一番に相澤さんに祝ってもらえてすごく嬉しいです。……ん、え? いま名前呼びました?』
「せっかくなので。だめでしたか?」
『全然! 嬉しい、です。なんだかこそばゆくって、むずむずします』
「
〇〇さん」
『……は、はい』
「呼んでみただけです」
もう~! と照れたように怒る声に、俺に対しても砕けた話し方をするようになってきた彼女に嬉しさを感じる。彼女が俺を独り占めしたいと言ったように、俺だって誰よりも近くで彼女のさまざまな表情を見ていたい。
好きだと伝えれば、
◇◇さんはどんな顔をするのだろう。
いつものように驚いたような顔をして、長い睫毛をぱたぱたとさせるだろうか。
いつものように嬉しい、と言って頬を染めるだろうか。
いつものように私も、と言って微笑んでくれるだろうか。
早く、会いたい。
右耳に声を聞きながら、瞼の裏に
◇◇さんの姿を映した。