20話 ハートをひとくち
駅前、ロータリー近くの街路樹の横にいつも相澤さんはいる。
帰宅途中の時間帯でそこそこ人通りは多いのだが、相澤さんにだけピントが合ってはっきりと見える。さらには、キラキラと輝いて見える。暗い中、黒い服を着ているというのに。
相澤さんは、マフラーで寒さを凌ぐよう捕縛布(名前を教えてもらった首に巻いてる布製の武器)で口元を隠しながら携帯を見ている。手と目元しか見えなかったが、笑っているように見えたのは私の気のせいではなかった。「こんばんは」と声をかけると、彼はそのままの柔らかい顔で「こんばんは」と返す。
「何かいいことでもあったんですか?」
「ん? まさに今ですけど。
◇◇さんの足音が聞こえたのが嬉しくて」
「へ、あ、あい、ざわさん、足音でわかるんですか?」
私の足音が聞こえて嬉しいだなんて、あまりにもストレートな言葉に動揺しすぎて他に言葉が見つからず、「さすがです!」なんて言ってしまった。それでも相澤さんは「わかりますよ、他でもないあなたのですから」と恥ずかしげもなく言う。そのとどめの一撃のような言葉に声も出ず、相澤さんを見上げれば、彼は満足そうににやりと笑って、私の歩幅に合わせて長い脚を持て余しながら歩く。
一月末、風邪を引いてしまった私のお見舞いに相澤さんが来てくれた。一度は申し訳なくて断ってしまったが、やはり心配だと言った相澤さんへ素直に甘えることにした。ベッドから出ない私を心配したのか、よるさんはずっと隣にいてくれたけれど、それでも少し心細かったから相澤さんの顔を見た時は、ホッとした。冷却シートを貼ってくれて、プリンも食べさせてくれた。手厚く看病をしてもらうだなんて子どもの時以来かもしれない。あと、熱のせいか朦朧としていて色々と口走ったような気がする。いや、言った。全部覚えてる。いつも抑え込んでいる気持ちが熱で緩んでしまったのだ。ぽろぽろ、ぽろぽろ出てしまった。私が言った、勘違いしてしまいそうという言葉に、「勘違いしてもいいですよ」と確かに彼は言った。そして「おやすみ」と言いながら頭を撫でて、あの日のことを思い出した私に、見たことのない照れたような我慢したような複雑な顔をしていた。それは私が、「すき」をこぼさないよう耐えている時の表情だった。
来週はちょうどバレンタイン。告白するには絶好のチャンスなのでは? 一緒にごはん食べたりして、まったりしたところでチョコ渡して告白、とかいいのではないだろうか。
「相澤さん、来週バレンタインなんですけど、会えますか?」
「はい。いつもの時間で」
「もし良ければ、うちに寄って一緒にごはんとか……お時間大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫ですよ。楽しみにしてます」
「へへへへ」
つい出てしまった変な笑い声と、にへらと緩んだ顔につられたのか相澤さんも笑って「可愛らしい人だ」とくつくつと喉を鳴らした。長い前髪の隙間から見えた下がった眉毛に、ゆるく閉じた瞼に、その柔らかいものを包み込むような優しい声に心臓がギュンと鷲掴みされた。早く来週になればいいのに。言ってしまえばこの苦しさはなくなるのかな。
お店のディスプレイが赤やピンクで飾られ始めていた頃には悩みに悩んだ末、何を贈るか決め、試作もした。チョコは完璧だ、と思ったのも束の間、晩ごはんのメニューに頭を抱え、それに合わせた食器の調達や食材の買い足しに時間を取られ、慌ただしく一週間は過ぎ去り、あっという間にバレンタイン当日となった。
お家でごはんを、と誘ったのは私を家へ送り届けた後、再び仕事へ戻っているのだろうと薄々感じていたからだ。以前は私服だったのに、今はコスチュームのままだからきっとそうなのだろうと思った。忙しい相澤さんが週に一度私のために時間を作ってくれている、それが嬉しかったから何も言わなかった。
だから外でごはんよりも、家の方が時間に融通効くし、何かあっても遠慮なく出てもらえると思ってそうした。のに、それなのに、なんで? いつもの場所に立っているのは確かに相澤さんなのに、格好が相澤さんじゃない。信号待ちで止まっていた私は、青に変わっても進めず、一度見送ってしまった。
落ち着いて、深呼吸。大丈夫。コツリ、コツリ、となるべく足音をたてないように相澤さんへ近づく。黒いパンツに白いニット、うん可愛い、白も着るんだ。黒いショート丈のコート、大きな襟が小顔さを、短い丈が本来の腰の位置はここだと嫌でもわからせている。ぴたりと這うパンツはコスチュームの緩い股上と違って、すらりと伸びた長い脚を強調していてかっこいい。モデルかな。そのまま『イレイザーヘッド、男の色香漂う、冬のクラシックコーデ』とかでファッション誌に載っていてもおかしくないくらいに様になっている。前髪を分けた髪型は何度か見た、見たけれどその長い髪をハーフアップにするなんて、オシャレ上級者すぎる。え、もしかして髭もない? 髭って剃るの? なくてもいいの?
見た目の刺激が強すぎてだんだんと正常な判断ができなくなってしまった。通りすがる女の人たちがチラチラ相澤さんを見ている。わかる、だってこんなかっこいい人がいたら見ちゃうよね。けれどその方、毎週同じ時間、同じ場所に立っている人ですよ。あ、だからいつも髪と髭と捕縛布で隠してるのか、モテないように目立たないように。ヒーローって大変だ。いやいや普段の相澤さんもすっごくかっこいいし、素敵だけどね。
ゆっくり慎重に進んでは立ち止まってを繰り返していると、手の中の携帯が震えた。
『いつになったらこっちに来るんですか』
目線を携帯から相澤さんへ向ければ、彼が私を真っ直ぐに見ていた。道ゆく女の人が黄色い声を出してしまうほどの魅力たっぷりな人が私を見ている。こんなギャップを隠していたなんて相澤さんはずるい。私が一歩歩きだすと、彼も長い脚を一歩前へ出した。私に合わせた一歩ではなく、本来の彼の幅広い一歩だった。ぐんと距離が縮まる。
「こんばんは」
「……こんばんは」
見上げた彼の頬や顎には、やはり髭がなかった。つるりとした相澤さんの顔は、少しだけ幼く見える。というか、隠していたものがなくなって改めて造形の綺麗さにびっくりする。相澤さんと一緒に帰る日はいつもより気合を入れて準備をするし、帰りに化粧直しもして整えて出るけれど、それでも隣に立っていて大丈夫か心配になるくらいなのに、今日はもう釣り合ってない感がすごい。
「いつもと相澤さんの格好が違いすぎて、ドキドキしてしまいました」
「ああ、それで。食事に誘われたので。
◇◇さんの隣にいても変じゃない格好にしたつもりです」
「え、と、変どころか、素敵すぎて直視できないといいますか、むしろ私が隣歩いて大丈夫か不安なくらいです」
「
◇◇さんはいつも素敵ですよ。今日も可愛いです」
俯く私に相澤さんはわざわざ屈んで「さ、帰りましょう」と言った。平行な形のいい眉毛が優しく下がるのがよく見える。
私は今日、この人に告白をする、つもりでいたのにできる気がしない。遠くから彼を見つけただけで心臓が壊れるかと思うくらいにうるさく鳴って、暴れた心臓はうっかりすれば口から飛び出そうなほどだった。
「そう言えば、相澤さんのお家って私の家から近いんですよね」
「ええ、二区画くらい先です」
落ち着くためにも、慣れるためにも普段通り会話を続ける。
「今更ですけど、ご近所さんで嬉しいです。最初学校でお会いした時はこんなに仲良くしてもらえるなんて思っていませんでしたし、よるさんを知っていた時はほんとに驚きました」
「俺もです。職業柄、同業者以外と深く付き合うなんてなくて、むしろ煩わしく思っていたんですが、
◇◇さんは別でしたね。俺の中で特別です。まだよるさんだと知らなかった頃は、よるさんもこんな風に綺麗な猫なのだろうかとあなたも含め思い出していました」
「とくべつ……ですか。相澤さん、いつも言葉が真っ直ぐで心臓に悪いです」
「
◇◇さんだからですよ。あなたがいつも俺に対して真っ直ぐだから」
1伝えれば、100で返ってくる。もし想いを伝えたらどうなってしまうのだろう。普段通りに会話をして落ち着こうと思っていたのだが、よりドキドキと胸はうるさく鳴った。
見上げた相澤さんの横顔は、街灯が照らす薄暗い中でもとても綺麗で、さらに色気を放っており、ピンと伸びた短めの睫毛がキンと冷えた空気を扇いでいた。無言になっても私たちの間は甘い気がする。
玄関のドアを開けると、よるさんがお出迎えしてくれていて、「ただいま」と言ってよるさんを撫でる私のあとに続き相澤さんも「ただいま、お邪魔します」と言って上がった。ただいま、はよるさんに対しての挨拶とわかってはいても、恋人と同じ家に帰ってきたような空気に身体がむずむずした。
晩ごはんは失敗しづらいお鍋にした。朝早起きして下拵えしておいた野菜に豆腐、お肉を鍋に入れて、味付けは市販のスープ。料理が苦手と言ったのに中途半端な手料理を振る舞うなんて私の見栄っ張り。ご飯も炊いたけれど、相澤さんは食べるだろうか。前一緒に食べた時、足りなさそうだったから今日は色々と多めに用意してみた。聞いてみようかと振り返れば、いつからこちらを見ていたのか、相澤さんとぱちりと目が合う。びっくりして肩が震えてしまった。
「あ、相澤さんは、お鍋と一緒にご飯食べる派ですか?」
「ええ、食べる派です」
「了解です! 山盛りよそいます!」
私の震えた肩にか、動揺して出てしまったおかしな言葉にかわからないけれど、相澤さんは、ふふっと笑って、楽しみですと言った。最初、相澤さんは手伝うと言ってくれたけれど、二人で立つにはキッチンは狭いし、手際の悪さを見られるのも恥ずかしいし、多分見られてたら緊張で絶対なにかやらかすと思ったので、よるさんと遊んで待っててもらうことにした。
私たちの間でグツグツ煮立つお鍋。ほかほかのご飯。この日のために揃えた食器たち。選んで買ったのは自分なのに色違いが夫婦茶碗みたいだと勝手に顔が熱くなる。コートを脱いだ相澤さんの白ニット姿が眩しい。いつもは黒で引き締まって見えるけれど柔らかく見える白も良い。
ゴハンの単語につられてやってきたよるさんへもゴハンを用意し、先に食べ始めたカリカリカラカラという聞き慣れた音が私の心を少しだけ落ち着かせた。
いただきます、と食べ始めた彼は「うまいです」と言ってもりもり食べ進める。食材たちが喜んで自ら吸い込まれにいってるかような気持ちのいい食べっぷり。大きな口が開いて綺麗なフェイスラインが咀嚼に合わせて動く。相澤さんが食べてる姿はドキドキする。美味しそうに食べるなあ、と見ていたら「見過ぎ」と言われてしまった。目線だけをこちらにチラッとやった鋭い三白眼はいとも簡単に私を射抜く。これは心臓に悪い、見るのは控えて私も食べよう、と思って食べ進めていると今度は相澤さんが私をじっと見ていて恥ずかしくて「見ないでください」と言えば「
◇◇さん、うまそうに食べてて見てるの楽しいです」と笑った。仕返しもしてくるなんてお茶目なところもある、好き。
たくさん用意していた食材はほぼほぼ相澤さんのお腹へおさまって、驚くことにご飯は山盛り三回おかわりをした。オールマイトやエンデヴァーみたいに身体がすごく大きいわけではないのに、現役ヒーローの食事量半端ない。全部無駄なくエネルギーや筋肉に変わっちゃうんだろうなあ、と感心しつつも少し羨ましく思った。いや私も食べたら動けばいいだけなんだけれど。
軽く片付けをして、リビングのラグへ移動する。よるさんは私の膝ではなく、相澤さんの膝の上へ座ってくつろいだ。毛並みに沿ってゆっくり撫でる手に、安心しきったようにきゅうっと目を閉じるよるさん。気持ちよさそうにしちゃって。相澤さんの側、落ち着くよね。手も大きくて優しくて落ち着くよね。いいなあ。私も猫だったら、なんてちょっと考えてしまった。
食後の紅茶を淹れ、まったりとした時間が流れる。
そろそろチョコをと思うが、渡すイコール告白だと思うと身体が強張る。よるさんを見つめながら撫でる相澤さんの髪がはらりと垂れる。それを耳にかけ直す仕草が色っぽくて目が離せなかった。
「ふふ、見過ぎですよ、そんなにいつもと違いますか?」
「あ、いえ、かっこいいなあとおも、って」
ぱちと合った目に息が詰まる。座る位置間違えた、距離が近い。だめ、告白なんて無理、呼吸するだけでいっぱいいっぱいなのに。
「
◇◇さんがそういう顔してくれたなら頑張った甲斐があります。これ、よければ受け取ってください」
相澤さんは少し照れたようにそう言って、横に置いていた紙袋から箱を取り出し、私の前に差し出した。手触りのいい白く滑らかな面に黒い艶のあるラインで縁取られた箱には見覚えのある高級チョコ店のオシャレなロゴが真ん中に品よく収まっている。斜めがけされた細くて赤いリボンがバレンタイン仕様だと伝えてくる。
贈るチョコはどうしようかと悩んでいた時、何度も見たからこのチョコが一粒いくらで一箱いくらかも知っている。金銭感覚のズレは後々大きな溝ができると聞いた事がある。ヒーローで教師の相澤さんと、ごくごく普通のOLの私のお給料に差があることくらいわかっていたのに、私が躊躇った金額のものをポンと渡せてしまうのだと、本来ならばあの綺麗なボールペンも私には釣り合わないほどに高価なものなのだと、また嫌な卑屈な気持ちがむくむくと湧いて出てきた。好きな人からチョコを貰えて嬉しいはずが、またもや突きつけられた現実にチクリと胸が痛む。相澤さんはメディアには出ないと言っていたのに脳裏にカウントダウンで流れていた華やかな世界が浮かぶ。
こんなことはもう考えないようにしようと決めたでしょう、気持ち切り替えてちゃんと喜んで、と頭の中の私が叱ったけれど出た言葉は弱々しい私の方だった。
「……クリスマスもだったのですが、こんなに高価なものばかりいただいて申し訳ないです」
「もしかしてこの店は苦手でしたか?」
相澤さんは、目線を高級チョコの箱から上げない私にそう言って、顔を覗き込んだ。ああなんてめんどくさい女なんだ、素直に喜べばいいのに。ふるふると首を振って返す私に「あなたの喜ぶ顔が見たいだけなので遠慮せず受け取ってもらえると嬉しいです」と言って箱を握る私の手にそっと触れた。相澤さんは高価なもので心を引きつけようとしているわけではない、ただ私を想って選んでくれただけ。わかってる。わかってるのに。
「こんなに素敵なものいただいて喜ばない人はいません。私もすごく嬉しいです。でもなんというかこんなに素敵なものに見合う私じゃないと言いますか、気が引けてしまうと言いますか、やっぱり相澤さんとは住む世界が違うんだなあと思ってしまっ、た、り、」
相澤さんも喜ぶ顔が見たいって言ってくれたじゃない。卑屈すぎて嫌になる。しかも勝手に涙まで出て情けなさすぎる。
「すみません、また泣かせてしまった。高価なものを選んで贈ったつもりはなく、ただ
◇◇さんに似合うだとか、好きそうだなと思って選んでたので、あなたがそこを気にするとは全く思っていませんでした。すみません」
「ちが、あいざわさん、は、なにも悪くない、です」
彼は、ズビと鼻を啜る私にティッシュを渡してくれた。こんなに優しい人をまた謝らせてしまった。彼の膝の上で丸くなっていたよるさんは、気を利かせてか、後ろのソファへゆるりと移動した。
「慣れないことをするもんじゃないですね、失敗ばかりだ。
◇◇さんは俺は悪くないと、前にもそう言っていましたよね。二人のことなのだから、今度からは涙の理由も分けてくれませんか。それに住む世界が違うだなんて悲しい事言わないでください。俺だって普通の、恋愛下手なその辺の男ですよ」
「卑屈になってしまって、めんどくさいことばかり言ってごめんなさい。こういうのはもうやめようと思っていたのに。プレゼントもチョコもすごく嬉しいんです。これはほんとです。ありがとうございます」
「いえ、わかってますよ。あなたのそういう真っ直ぐに伝えてくれるところ助かってます。気づかないまま嫌われてしまうのはいやですから」
「嫌うだなんてそんな!」
ちょっとしたことで傷ついてあなたの言葉ですぐ立ち直るくらいに大好きなのに。私の手に触れていた相澤さんの手に力が入る。軽く握られた中でくるりと返すと、どちらともなくぎゅっと手を繋いだ。大きな相澤さんの手にすっぽりとおさまる私の手。至る所に細かな傷のある、たくさんの人を守り助ける優しい手が、今は私だけを包んでくれている。
見つめ合う瞳が熱い。きっと涙だけのせいじゃない。私のことが好きだ、と伝わってくる相澤さんの熱く優しい瞳が目の前にあるから。切なくてまた視界が歪む。溢れ出た涙を、相澤さんの指が拭ってくれた。
「
◇◇さんからチョコはないんですか?」
少しいたずらそうに笑って、相澤さんが言った。告白とかそういう雰囲気ではなくなってしまったけれど、一生懸命用意したのだから、ちゃんと渡したい。
ぎゅっと握られた手は離してもらえず、空いている方の腕を紙袋を置いていたソファの横へと伸ばす。
「えと、私のは手作りで……」
「え、作ってくれたんですか。今食べても?」
私が、はい、と頷くと、握っていた手をゆっくり解いて、紙袋から大事そうに箱を取り出し、「売り物みたいだ」と呟いて、開けるのが勿体無いと言いながらリボンを引っ張った。
料理は苦手だが、お菓子作りとラッピングは好きで、だいぶ凝ってしまった。相澤さんの高級チョコと同じくらい見た目の本命感がすごい。いや私のは必死な感じかな。
箱を開けると、相澤さんは小さく「おお」と言って、私が想いを込めてツヤツヤにしたチョコを一粒摘んだ。
「それはラム酒が入ってて、ほんのり大人な味です」
「いただきます。……ん、うまい。すごく好みの味です。これが手作りだなんて。クッキーもうまかったですし、お菓子作り好きなんですか?」
「お口に合ってよかったです。はい、料理はアレなんですけど、お菓子作りは好きで結構作ります」
チョコを食べる相澤さんも素敵だ。お酒入りも作ってよかった。彼のおかけでまた甘い空気へと戻っていく。イベントに焦って告白するよりこうやって少しずつ進んでいくのが合ってるのかも、などと考えていると、また手をぎゅっと握られた。
「え、あの……」
「これ、他の人に渡したりしてないですよね?」
「え?」
「その、今日バレンタインだから、あの仲の良い営業の彼とか、同僚だとか」
耳を赤くした相澤さんが上目遣いで嫉妬を口にしている。相澤さんも嫉妬、するんだ。かわいい。先ほどまでの凛々しい表情とは打って変わって、子犬みたいな愛くるしさを感じる表情はギャップがありすぎて、膝に置いているチョコを溶かしてしまいそうだった。
「……相澤さんにだけです。相澤さん、杉村くんと何かあったんですか……と聞いてもいいですか?」
「よかった。ホッとしました。そう、ですね。彼があなたに告白したと聞きました」
「えと、あ、そうだったんですか。それにつきましてはお断りしまして、今も変わらず同僚のままです」
忘年会で聞いた〝色々〟の中にそんな重大なことが含まれていただなんて。悔しいと言いつつも応援してくれる杉村くんはどんな気持ちなんだろうか。けれどそれは私は知るべきではない、と胸の奥にしまった。
「ええ、それも聞きました。彼、いい人ですね。何度か話しましたが、気が合いそうです」
髭のないさっぱりとした口元がにこりと微笑む。
『相澤さん、俺に牽制してくるくらいだから、
◇◇のこと相当好きだと思う』
相澤さんの言葉に、杉村くんが言った言葉が頭に浮かんで、時間差で顔面が大爆発した。
「ふ、顔真っ赤ですね。何か思い出したんですか?」
「わあ、見ないでください! あ、あいざわさんもだからおあいこです」
「はは、おあいこですか。
◇◇さんもチョコ食べますか?」
相澤さんは自分が箱を開ける時は手を離したのに、私の時は解いてくれなくて、代わりに相澤さんの空いた手が手伝って箱を開けた。高級チョコはやはり艶が違って、品がある。真ん中にある赤いハート型のチョコがむずがゆい。恥ずかしくて私はハート型のモールドを選べなかったのに、相澤さんは平気でこういうことをする。「どれ食べます?」と聞いてきた彼に「では、ハートのをいただきます」と手を伸ばせば、彼が先にチョコを摘んで私の口元へ持ってきた。
「はやく。チョコ溶けてしまいますよ」
すんなり口が開けるわけもなく、それでも相澤さんは、はやくといたずらそうに笑いながら急かしてくる。
ずるい、ずるすぎる。もう私が溶けてしまいそう。きっとハートは最後まで食べられないだろうから、相澤さんがいるうちにと選んだというのに。まさか本人からハートを食べさせてもらうだなんて。
「ほら、あーん」
おそるおそる開けた口に、チョコが入ってきた。その時、指先が唇に僅かに触れて、今まで触れられた箇所のどこよりも敏感に相澤さんを感じ取ってしまった。
「美味しいですか?」
「……美味しいです、とても」
相澤さんが口に入れてくれたハート型のチョコは、ベリージュレが甘酸っぱくて、私の気持ちと混ざり合う。
彼は指についた溶けたチョコを舐めながら、ハッピーバレンタインですね、と言った。このチョコにもお酒が入ってたのかなと思うほどにクラクラした。あまりにも大人な雰囲気の間接キスにすっかり溶けてしまった私は遅れて、ハッピーバレンタインですね、と同じ言葉を返した。
告白はできなかった。けれど、私が勝手に掘った溝を相澤さんが簡単に埋めてくれて、さらには思っていた以上に甘い夜だった。付き合えた時、私はどうなってしまうのだろう。もしかしたら彼の熱に当てられて、溶けて蒸発して消えちゃうのかもしれない。そう思わずにはいられない夜だった。