19話 熱
年の瀬らしい、凛とした寒さの夜だった。
すぐにでも顔を見たいと思ったのも、一番に声を聞きたいと思ったのも、ほうと吐き出した白い息が黒い空に消えていく、そんな日だった。
クリスマスイブの夜、自分が送ったメッセージにため息をついている俺を、隣の席で仕事をしていたうるさい同期は「煩ってんなア」とニヤニヤしつつも「ちょーっと休憩したらドウヨ」と背中を叩いた。まあそのせいでクッキーを一枚取られてしまったんだが。
警備に駆り出された大晦日、次のシフトのヒーローと交代し帰っている途中、ビルの大画面には生放送中のカウントダウンが流れていて、仕事帰りに年を越した。年明けを祝う人たちの賑やかな雰囲気の中、ポケットの中で冷たくなった携帯を握ると、彼女の声が聞きたくなった。
好きだと伝えたくなる。いや、伝えてもいいのだろう。一歩引いたような、薄い膜のようなものは誕生日を祝ってもらった日以来感じない。もっと近づきたい。目が合った時の少し慌てたように照れる顔が好きだ。裏表のない真っ直ぐな言葉が好きだ。俺の手を一生懸命あたためようとする華奢な手も、いつまでも聞いていたくなる甘い声も、ころころ変わる豊かな表情も、彼女の全てが好きだと思う。彼女と目を合わすたび、言葉や文字を交わすたび募っていく。初めての感情だ。
俺へのクリスマスプレゼントを悩む彼女へ、週に一回、一緒に帰ろうと提案した。
◇◇さんのことを想えば難しくはなかった。仕事が残っていたとしても彼女を家へ送った後、戻ればいいだけだ。時間を作るとはこういうことなのだろう。今まで好意があっても相手に合わせて何かをしようと考えもしなかった。忙しい時はそっとしておいてほしかったし、その時の相手の気持ちを深く考えたこともなかった。擦り寄る仕草に、続けて来る連絡にうんざりする時さえあった。誰かを想って何かを贈りたいだとか、毎日のように届く何気ない連絡が嬉しいだとか、自分がこうも変わってしまうとは。
仕事始めの1月上旬、
◇◇さんから贈ったペンを使っているとメッセージが届いた。このために新調したという、淡い緑色のペンケースも一緒に写っていた。彼女が生まれた季節の春を連想させる色合いに自然と表情が綻ぶ。事務仕事の多い彼女だからいつも使えるものをと選んだが正解だったようだ。
一緒に帰る日が近づくと、『お仕事が忙しい時は無理なさらないでくださいね。』と連絡が来た。待ち合わせに来れなかった日のこともあり、信じていると言ってくれたが彼女はこの約束に幾らか不安を抱えているだろう。少しでも安心できればと思い、急な仕事が入った場合はすぐに連絡を入れると伝えた。
それから2週続けて同じ曜日に駅前に待ち合わせをして帰った。10分程の僅かな時間が日々の疲れを癒していくようだった。俺を見つけた時の嬉しそうな顔にぐっときて思わず捕縛布で口元を隠した。好きだと伝わってくる言葉の端々に、こちらも伝わればいいと想いを乗せて返す。歩く歩幅も短くゆっくりで、それに合わせるのも幸せでしかない。「歩くの遅くないですか?」なんて気遣いや傾げた首さえも愛おしい。僅かな時間だからこそ確実に知らなかった彼女を知ることができた。同じように質問攻めをしてくる
◇◇さんに笑わされつつ、俺のことも教えた。反応もいちいち可愛くて自分の目尻がこんなにも下がるのかと驚いたくらいだ。
この片想いよりも先の関係はなんと表せばいいのだろうか。隣で揺れる、この華奢な手を取って歩きたいと、できれば早くそういう関係になりたいとポケットに突っ込んだ手を柔く握った。
約束の曜日が近づいて、年甲斐にもなくそわつく週半ばだが、今週は違う。
なんでも一昨日くらいから
◇◇さんの体調が良くないらしい。昨夜から連絡が取れていない。今週に入って一気に冷え込んだせいかもしれない。深夜に降り続いた雪で、辺りはすっかり銀世界だった。
今日は月一の納品の日だったらしく、名前はなんと言ったか、確か、杉村さんがやってきた。やはりミッドナイトさんに捕まって、背中を丸くして備品室へ向かう様子に申し訳なく思ってしまった。
「すみません、相澤さん」
帰り際、すれ違った廊下で呼び止められ返事をすると、ご存知でしたら申し訳ないんですけど、と彼が話を続ける。
「
◇◇、今日熱で休んでて、同期のやつらが見舞いに行こうとしてたんですけど、多勢で行っても迷惑だろって止めたんです」
「杉村さんが行かれるのですか?」
あの日の会話など忘れているような口ぶりに、俺も余計なことを言う。まったく合理的じゃない。大人気ないのはどっちだ。
「ははは、そんなわけないじゃないですか。もしかして相澤さんも鈍感なタイプですか?」
「そういうあなたはお節介タイプですか。俺が行っても?」
「そうですね、俺はあいつの笑顔が見られたらそれでいいんで。相澤さんに行ってもらえればと思って声をかけたので、お会いできてよかったです」
杉村さんが「ははは」と快活そうに笑う姿に、本当にいい奴なんだろうなと眩しく映った。自分がこうなりたいとかではなく、彼女の周りにはこういういい奴がいるのかという、なんというか焦りみたいなやつだ。一緒に食事に行くほどに仲が良いようだし、馬が合うのだろう。それは彼女にとって友人というだけ、だがそれがいつ好意になるかはわからない。心変わりだってありうるのだ。いや、
◇◇さんはそんな人ではない。全て俺次第だ。
授業が続いたため、業務の空き時間に
◇◇さんへメッセージを送った。
『体調が悪くお休みしていると聞きました。具合どうですか?
◇◇さんの都合がよければ、帰り寄るので必要なものがあれば言ってください。』
終業時間間際に携帯が震えて、彼女の名前が表示された。
『ご心配おかけしてすみません。たくさん寝て少し良くなりました。風邪をうつしてはいけないのでお気持ちだけありがたく受け取っておきます!』
これはどう捉えたらいいんだ? はいそうですかと真に受けていいものなのか。悔しいが、背に腹は変えられん、こういうのに慣れている山田にでも聞いてみるか。
「なあ山田」
「オウ、どーした? 相澤からの誘いでもさすがに今日はノーセンキューだゼ! この寒さと雪じゃ歩いて帰んのしんどいっつーの!」
「飲みじゃないし、誘ってもいない。いや、もういい解決した」
オイオイそれはねーんじゃねえのオ?! と椅子を回転させながら叫ぶ山田を後にして、更衣室へと向かった。聞く前に少し考えてみればよかった。なに焦ってんだ、俺。確かにこの寒さと雪じゃ買い物に行きたくても行けない。熱があれば尚のこと。寝込んでる時、日持ちする買い置きはいくらあったっていい。
彼女へもう一度連絡を入れた。すると『ありがとうございます。ではお言葉に甘えようかな』といつもの彼女らしい返事が返ってきた。
必要そうなものを一通り持って、
◇◇さんの部屋の前に立つ。
着く時間は前もって連絡した。起こしてしまうのは悪い気がしたが、インターホンを鳴らす。しばらくしてカタンと鍵が開く音が聞こえた。ドアノブが下がり扉が開く。全ての動作がゆっくりで彼女に体力がないことがわかる。ああ早く横になってもらわなければ。
「こんばんは、わざわざありがとうございます」
熱とマスクのこもった息で目が潤んだ彼女が弱々しい声で出迎えた。
「辛いのに動かせてしまってすみません。すぐ横になりましょう」
ドアの僅かな隙間に身体を捩じ込み、部屋へ入る。彼女を支えてベッドまで連れていくと、そばにはよるさんがいた。寄り添っていてくれたようだ。
触れた
◇◇さんの額は熱く、肩で息をしていた。
「額に貼る冷却シート持ってきましたけど、苦手ではないですか?」
彼女は、こくんと小さく頷いた。静かに瞼を閉じ、俺が貼るのを待っている、んだよな。片手で前髪をよけ、そっとシートを貼った。風邪を引いた生徒にも何度かやった事なのにそれとは違う緊張で動きがぎこちなくなってしまった。
「相澤さんの手も、シートもひんやりして気持ちいいです」
鼻声で少し舌ったらずな、ふにゃりとした声で、とろんと目を細めながら言った。俺の冷えた手が彼女のしんどさを僅かでも紛らわすことができたのであれば、しばらく手を当てていればよかった。
「そうですか、よかったです。食欲はありますか? 薬飲んだ方が楽になると思うのですが。ゼリーやプリン、アイスもありますよ」
「では、プリンいただいてもいいですか」
食欲はあまりなく、救急箱に薬は入っているものの飲めていないという。彼女に許可をもらって薬を取りに行き、残りを冷蔵庫へ入れた。
薬と買ってきた常温の水、以前彼女が好きだと言っていたプリンとプラスチックのスプーンを用意した。ベッドの上で座り直そうとする彼女の介助をし、水を渡す。喉が痛むのだろう、こくりこくりと静かに流し入れると、ふうと小さく息をもらした。
「はい、どうぞ」
プリンをスプーンで掬い、
◇◇さんの口元へ持っていく。きょとと潤んだ目を見開いて、ひとくち分のプリンと俺を交互に見やる。ん、と数センチ唇へ近づければ、口元を可愛らしく指先で隠して、今度は首をふるふると横に振った。
「風邪うつっちゃいますし、自分で食べられます、よ」
「ヤワな鍛え方してないですから大丈夫です。いいから、はい」
◇◇さんは、それじゃあ、とおずおずと口を開けた。高くなった体温でいつもより赤い唇へプリンを運ぶ。
「……おいしいです」
「よかった」
「これ前に私が好きだって言ったプリン……。なんでそんなに良くしてくれるんですか……こんなに優しくされると勘違いしてしまいそうです」
熱でぼうっとしているのか、普段より3割り増しで素直な
◇◇さんが、長い睫毛をぱたりとゆっくり上下させながら言った。なぜってそれはあなたが好きだからですよ、と弱った彼女へは言えず。だが、誰にでもしているわけではないとわかってほしかった。
「いいですよ、勘違いしても」
「え、とそれは……どういう……」
「ほら静かに、今は身体の回復を第一に考えましょう」
ゆっくりだった瞬きが今度は忙しくぱちぱちと瞬く。答えを知りたがる口へプリンを入れれば、おとなしくなって俺の言った言葉にこくんと頷いた。全部食べれるかと聞くと、はいと小さく答え完食した後、ごちそうさまでした、と俺を見て言った。看病しているだけなのにこの胸がぐっと締め付けられるような感覚はなんだ。これが俗に言う、キュンとするというやつか。たまらなく愛しいと思う。
「では俺は帰りますね、鍵締めてポストへ入れておきますからゆっくりしていてください」
薬を飲むのを見届けた後、立ち上がる俺に合わせて布団を捲った彼女の布団を掛け直す。
「なにからなにまで、ありがとうございました。相澤さん、おやすみなさい」
「いえ、何かあればすぐ連絡してくださいね。おやすみなさい」
少し寝癖のある可愛らしい髪を思わず撫でてしまった。
◇◇さんがハッと目を見開く。やってしまったと触れた手を引っ込めた時、彼女が、あれ、と呟いた。
「やっぱり、もしかして以前送ってくださった時も……思い出した、相澤さんの手だったんですね。よるさんを撫でてるのを見て、私はそれを知ってるような気がしていて」
ああ、思い出してよかった、と独り言のように溢し、
「私、相澤さんが言うおやすみが好きなんです。今日の終わりに相澤さんで満たされて幸せな気分になるんです」
と、ふんわりと微笑んで言った。
ドクンと心臓が鳴り、身体が熱くなる。
3割増しどころか、7割、いやもうわからん。
彼女がよくやる、下唇をきゅっと噛む仕草を無意識にやっていた。これ以上思いが溢れてしまわないための仕草だったのだと、この時、身をもって知った。