17話 迷わず進め
一緒に帰りませんか、と誘われた。
朝、ベッドから出た時床が思ったより冷たく、それを相澤さんにも伝えたくなって、挨拶のあとに『最近すっかり寒くなりましたね』と送ったその日だった。
連絡先を知れただけでも急展開なのに、それから1ヶ月ほど、毎日ではないけれどメッセージのやりとりをしていた。今日もいつものように『おはようございます。』と返事が来るのを今か今かと待っていた。
待っていた返事には、信じられないくらいに嬉しい文字が並んでいた。初めて誘われた。子どものように無邪気にはしゃいだのはいつぶりだろう。その返事が来たのは、誰もいない給湯室でポットのお湯が沸くのを待っている時で、あまりにも驚いてうっかり携帯を落としそうだった。待ち合わせの時間と場所の連絡を見た時は、嬉しさのあまりトイレの個室で「やったー!」と心の中で叫びつつ、高らかに腕を伸ばした。ここが家なら本当に叫んでいたし、ぴょんぴょん飛び跳ねていたと思う。
今夜、窓越しではなく、直接相澤さんに会える。声が聞ける。
相澤さんは、駅前のわかりやすい場所に居てくれた。そうでなくとも私の目はすぐに彼を見つけていた気がする。それほどにキラキラと輝いて見えていたから。
話をしながら歩く帰り道、私の歩幅に合わせてゆっくり歩く相澤さんは、すぐに着いてしまうのは勿体無いと言った。そして、アパートの前に着いた時、相澤さんは今日が誕生日だと言った。
私が嬉しいと言えば、俺も、と返す相澤さん。誕生日に会えて嬉しかった、と言う相澤さん。私が写真で送ったものと同じものを食べる相澤さん。心配だから何かあったら自分を呼んでほしいと連絡先を教えてくれた相澤さん。無精髭のワイルドな口元からそんな言葉が出るのかと疑ってしまったけれど、あの口は確かに可愛いと動いて、低くて心地よい声は私の耳に届いた。向けられた柔らかい笑顔はヒーローとしてじゃなくて相澤さんのものだって思ってもいいの? 目が合うと私を捕らえて離さない力強い視線に自惚れてもいいの? でも、あんな失態ばかり晒している私のどこに惹かれる要素があるというのだろう。何一ついいところなんて見せていないのに。
わからない。反応を楽しんだり、弄んだりするような人じゃないとわかるからこそ、わからなかった。
あんなに遠い存在だと思っていた相澤さんとこんなにも近づけて、どんどん好きが募っていく。毎日好きだって思う。
どこが、って言われたら全部なのだけれど、最初にも見た、あの強面に見える気怠そうな目元がふにゃりと下がって柔らかく笑うところが忘れられない。多分あの笑顔に相澤さんの優しさだとか誠実さだとかが詰まっているような気がする。それに勘違いしそうになるくらいの心遣い。これは好きというより尊敬している。すぐ自分のことでいっぱいいっぱいになってしまう私にとって、そんな人になりたいと心を入れ替えてくれる存在だ。
わからないけれど、こんなに素敵な人が私のことをいいなと少しでも思ってくれているのであれば、迷わず頑張ってみようと思う。
今日は相澤さんの誕生日を改めてお祝いする日。
前に待ち合わせした駅前、日曜日、15時。幾度かやりとりしてこの日を決めた。
迷わず頑張ろうと思ってからは、相澤さんの指が打った短い文章にキュンとして、身体の内側がむずむずして、何かしらで発散しないと胸が破裂してしまいそうで、枕に顔を埋めて「きゃー!」と叫び、バタバタとベッドで泳ぐそんな恋を知ったばかりの中学生のような毎日だった。
少し低くなった空に落ち葉が舞って、朱や黄色が交互に足元へ集まってくる。待ち合わせの時間から30分経った。我慢できないほどの寒さというわけではないが、風が冷たく携帯を握る手が悴む。
何度相澤さんとのトーク画面を開いても、昨日の『おやすみなさい』のまま。そこに乗っかっている『明日、楽しみにしています』の一言が冷えた身体にチクチクと刺さる。昨夜から今まで何も連絡がない。一度連絡してみようかとも思ったけれど、送れなかった。
よく考えてみれば、あの夏の夜、相澤さんは出動要請の帰りだと言っていた。いつだって彼はヒーローのコスチュームを着ていた。ヒーローは助けを必要としている場所へ行く。それがどんなに危険な所でも。背筋がぞくりとした。何故忘れていたんだろう。
さらに30分経って、お店の予約の時間が迫ってきた。
相澤さんは無事だよね。おはようの挨拶くらい送っていればよかった。返事が来なくても既読がついたのを見れば安心できたかもしれないのに。悴んだ指先はキーボードを打とうにも上手く動かなくて、鼻がツンとして、喉の窪みが苦しい。
帰りながらお店にはキャンセルの電話をして、少し温まったら相澤さんに連絡しよう。そう思って、鳴らない携帯から顔を上げた時、スーツ姿の杉村くんがいた。
「
◇◇? どうしたの。待ち合わせ、にしては寒そうだな。鼻真っ赤じゃん。いつからここにいるの」
顔を見られたくなくて、また下を向いた。
「杉村くんは休日出勤? お疲れ様。待ち合わせだったんだけど、今から帰るところ」
「もしかして、相澤さん?」
「ん、急ぎの仕事が入ったんだよ、多分。もう帰るとこだから、じゃあまた明日」
固まっていた足をなんとか前へと動かす。膝がギシギシ鳴って、上手く歩けない。
つま先が痛い。
「だから言っただろ? 今後もこうやって一人不安になって、連絡来るか本人が来るまでずっと待つのか? つらいだけだろ」
背中に刺さる言葉が痛い。
「そんなの最初からわかっていたことだから。不安じゃないとは言えないけど、だけど相澤さんは大丈夫だから、全然つらくない。お願い、着いてこないで。一人にして」
八つ当たりしてしまう狭い心が痛い。
感覚の鈍った足の裏がぶにぶにと不格好に鈍色のコンクリートを踏んで、歩き慣れた道を心許なさげに歩く。
途中で予約していた店にキャンセルの電話と、相澤さんへメッセージを送った。なんとなく、家に着いてからは送れない気がしたからだ。
『お仕事でしょうか? 相澤さんが無事であることを願っております。私は一度家に帰りますね。』
悴む手でなんとか打った文字は、昨日までの浮かれたやりとりとは温度差がありすぎて凍りそうだった。
歩きながらも杉村くんに言われた言葉が頭をよぎって、それを振り払うかのようにジンジンと痺れた足で早歩きをしてしまった。息を吸うと肺が痛い。
「よるさん、ただいま」
「にゃあ」
いつものように毛並みの良い耳の間の短いさらさらの毛を撫でるとよるさんは、きゅうと目を閉じた。じんわりあたたかくて悴んだ指先がとけていく。擦り寄る仕草が優しくて、ホッとして堪えていた涙が視界を歪ませた。部屋へ上がる気力もなく、玄関に座り込んでしまった私によるさんは、ごろんとお腹を出して寝転んだ。
二度目の約束で浮かれて、好きな人の誕生日を祝えることに浮かれてすっかり忘れていた。相澤さんはヒーローだし有名高校の先生なんだもん、覚悟はできてる、と思っていた自分にがっかりした。待つことがこんなにもこわいなんて思っていなかった。
ぼうっとしながらふわふわのお腹を撫でていた。どのくらい経ったのか、インターホンが鳴って、ビクリと動いた足が玄関のタイルをジャリッと鳴らした。覗き穴から覗いてみれば、ドアの向こうに立っていたのは相澤さんだった。いつの間にか外も暗くて、共有廊下の青白い光が彼を照らしている。涙を拭って服のシワを払い、ドアを開けた。
顔の幅ほど開いたドアの隙間から見えた相澤さんはヒーローのコスチューム姿で、その黒いツナギはところどころ汚れていた。少し息も荒い気がする。急いで来てくれたのかもしれない。心の準備が整う前に開けてしまって言葉が出ない。「お怪我はないですか?」と言うだけだと頭ではわかっているのに。
「その涙は俺のせいですよね、遅れてすみません。まだ間に合いますか」
ドアを身体の幅分開けると、相澤さんが一歩前へ進んで、少し屈むように身体を曲げた。
「お店は、キャンセルしてしまったのでもう……」
「そう、ですよね。では、また連絡します。本当にすみませんでした」
間違った。これでは誤解されてしまう。相澤さんは人々をさまざまな理不尽から守るため自分が怪我することも厭わず命をかけて戦っているのに、待つだけの私が約束を破られたからと悲しんだり怒ったりできるはすがない。この涙は私の覚悟の足りなさだ。メッセージだけで済ますこともできただろうに、相澤さんは来てくれた。言い訳もせず、遅れたことに謝って、なんて誠実な人なんだろう。
誤解されたままは嫌、やっと会えたのに。無事だとわかったのに。
何も言わない私から振り返って帰ろうとする相澤さんの少し丈の短い袖口を掴んだ。
「待って、ください。謝らないでください。無事でよかったです。間に合わないというのはお店のことで、言葉が足りなくて、すみません。相澤さん、お怪我はないですか?」
「心配させてしまいました、よね。大丈夫です。怪我はしてないです」
「よかった。本当によかったです。あの、まだ約束続いてます、か? 家で、とかはだめ、ですか? あ、でもお疲れですよね、すみません気が回らなくて」
意外と大きく出た声は、自分の身勝手さにだんだんと弱まっていく。
「ええ。俺は平気ですけど、
◇◇さんそんな気分ではないんじゃ」
弱まった私の声と同じくらい、細い声で相澤さんが言った。
「全然! 相澤さんをお祝いしたい気持ちでいっぱいです!! さっきはちょっとよるさん見てホッとして気持ちがゆるんでしまったというか、よるさんあったかくて!」
「よかった。では着替えに戻るので、5分ほど待っててもらえますか? それと、コンビニにケーキくらいはあると思うので一緒に行ってくれると嬉しいのですが」
ホッとした表情に変わった相澤さんは、首に巻いた布で口元を隠して、さらにふにゃりと眉を下げた。
よかった、伝わった。
「は、はい! 待ってます! 行きます!」
「……あの、袖」
「あっ!」
掴んでいた袖口を慌ててパッと離す私に相澤さんは、ふふ、と笑いかけてくれた。
相澤さんと別れからは、急いで部屋を軽く整え、冷蔵庫の中を確認する。掃除は昨日していて助かったが、冷蔵庫の中は残念で、おもてなしできるほどの食材がなく、日頃そんなに料理をしない自分にため息をついた。私はあんなことを言ってしまったのに、負担をかけまいとさりげなく誘ってくれる相澤さんは本当に気遣いのできるひとだ。尊敬する。私もそういう人になりたいと意識しても、なかなか上手くいかない。
時間通り5分経って、インターホンが鳴った。相澤さんは上下黒のニットとジーンズだった。
「よるさんいってきます」
「いってきます、すぐ戻りますね」
動物にも敬語で話して、目線もなるべく合わせてくれようとしている。優しい。欠点なんてないんじゃないんだろうか。
私服姿を見るのは今回で2度目なのだけれど、長い髪を後ろで一つに結んだ姿は初めてだ。おでこかっこいい。前髪分けても似合うんだな。表情も見やすくて、嬉しい。耳、形いいな。首元がすっきりしていて今気づいた、相澤さんすごく猫背だ。広い背中が丸まっているのは可愛いかもしれない。ってどこ見てるの。
ゆっくり歩く相澤さんの姿をまじまじと観察してしまった。そうでなくて、早く家に何もないと伝えなくては。本当に自分が情けない。
「あの……誘っておいて申し訳ないんですけど、家に料理をお出しできるほどの食材がなくて」
「わかります、一人だとなかなか作らないですよね。飯も買いましょう」
「お気遣い、痛み入ります……」
「はは、大袈裟ですよ」
縮こまる私に、相澤さんはからりと笑って肩を揺らした。
「私、相澤さんの前ではよくないところばかり見せてしまってますよね。先ほども言葉足らずでしたし、考えも足りなくて、本当に申し訳なくて」
「そうですか? 俺は変にいい人ぶったり隠されたりするよりいいですけどね。素直に受け取れて気持ちがいいです。駆け引きとか苦手なんで」
そう言って相澤さんは、首を傾けて私の顔を覗き見た。暗いのにしっかり交わる視線。そんなこと言われたら自惚れてしまう、その視線に勘違いしてしまう。そらせない視線にむずむずして、下唇をきゅっと吸った。
コンビニでは相澤さんと相談しながら、丸いショートケーキと、ちょっと贅沢なチーズインハンバーグに、ポテトサラダ、ロールパンを二人分買った。あとは買い置きのスープに、冷凍のブロッコリーをチンしてミニトマトを添えればそれなりのごはんになりそうだ。
家に帰り着くと、私はごはんの準備に取り掛かって、相澤さんはソファ下のラグに座って、一生懸命よるさんに手を嗅がせていた。何度かスンスンと嗅いだよるさんは、相澤さんの膝の上に乗って、丸くなった。何度か遊びに来たことのある同期でもなかなか懐かず、しばらく遠くで様子見していたほどだったのに、驚きだ。
「お、わ。よるさん、人懐っこいですね」
真っ黒な相澤さんに真っ黒なよるさんが乗っかって、黒いかたまりの二人は見ていてほっこりする。
「こんなにすぐ慣れるなんて、私も驚いてます。きっとよるさんもお誕生日おめでとうって言ってるんだと思います」
「そうだったら嬉しいですね。ありがとう。よるさん」
相澤さんの大きな手がよるさんの背中を呼吸に合わせて優しく撫でる。あれこの感じ、どこかで見たような知っているような。突然のデジャヴに一瞬、頭がすうっとなった。
スープマグとマットはちぐはぐ、カトラリーを乗せたのは箸置きで、ちゃんとは出来なかったけれど、いつも一人で食べているダイニングテーブルへ丁寧に並べる。向かいに同じ数の食器が並んでいるのがこそばゆい。
「おくつろぎのところ申し訳ないんですが、ごはんの準備ができました」
よるさんは、ゴハンと聞いて、ピクピク耳を動かすと、するりと相澤さんの膝からおりていった。
「ふふ、よるさんも一緒に食べようね」
「よるさん本当に賢いですね」
「はい、同居人って感じでいつも助けてもらってます。探し物とか持ってきてくれるんですよ」
「それはすごいな」
向かい合って座ったこぢんまりとした二人掛けのダイニングテーブルは身体の大きな相澤さんとは少しばかり窮屈で、想像していたより近い。ハンバーグの匂いを嗅ぐ相澤さんの鼻息も聞こえてしまう距離に、ドキドキしてしまう。
「お誕生日、おめでとうございます」
ぎこちなくぺこりと頭を下げれば、相澤さんも頭を下げて、「ありがとうございます」と言った。いただきます、と食べ始めた相澤さんの豪快だけれど綺麗な食べ方は、見ていて気持ちが良くてしばらく見惚れてしまった。
「食わないんですか? うまいですよ」
「食べます! いただきます」
慌てて食べ始める私に、相澤さんは、ふふと笑ったあと、ふと真面目な顔になって「約束の時間に来れなくてすみませんでした」と謝った。
「それはもういいんです、相澤さんが無事だとわかったので」
「でも泣かせてしまった」
「あれは私の問題で……なのでお気になさらないでください」
「いや、配慮が足りませんでした。こういうことがあると、前もって話しておくべきでした」
「私は相澤さんを尊敬しています。ヒーローや先生をしている相澤さんはもちろんなのですが、相澤さんの誠実さや視野が広く気遣いがスマートなところ、本当に憧れています。そんな相澤さんだから信じていられるんです。確かに泣いてしまいましたけど、相澤さんの思われている涙とは全然違うものですよ」
「そうですか。ですが、
◇◇さんの涙を見るのは心苦しいので、ちゃんと話します。俺についてはかいかぶりな気もするのですが、ありがたく受け取っておきます」
照れくさくなった私たちは、顔を見合わせてはにかんだ後、黙々と食べ進めた。
ケーキとコーヒーを出した時、用意していたプレゼントを渡した。「今開けても?」と聞く相澤さんに、これ以上は恥ずかしく耐えられる気がしなかったので、家に帰ってから開けてくださいと頼んだ。
コンビニのショートケーキは甘くて、頬がむずがゆい。それにいちごの酸っぱさが際立ってキュンとする。三口ほどで食べてしまった彼も、同じような顔をしていた。好きがまた募っている、そんな柔らかい表情だった。
コーヒーの最後のひとくちを飲み干すと相澤さんは、「そろそろ帰ります」と言って私を見た。
「そんな寂しそうな顔しないでください。また会えますから」
「え、あ、顔に出てましたか? 恥ずかしい」
「そういう表情豊かなところ、魅力的ですよ」
お互いに〝好き〟と言わない告白のような、お互いに〝好き〟を言い合っているような、うずうずする会話は私たちの心の距離をぐっと縮めた気がする。
ではまた、と玄関で靴を履いたあと、振り返った相澤さんの眼差しはすごく優しくて熱くて、ドキドキして苦しくて思わず、好きだと溢してしまいそうだった。目は口ほどに物を言う、という言葉があるくらいだ、同じ瞳で彼を見ていた私の気持ちも伝わったと思う。
しっかりと戸締りをした私は、出窓へ急いで行き、両想いの予感に震えながら、相澤さんが見えなくなるまで眺めていた。