16話 帰り道
夏の間帰らなかった家は、物が少ないとはいえ埃っぽく、こもった空気はじっとりとしていた。
その後もしばらくは忙しさにかまけて部屋の汚れも見てみぬふりをした。予備の寝袋もあり、寝るのにも困らなかった。だが、僅かに余裕の出来た金曜の夜、まさに今、突如脳内の香山さんと山田が「不衛生なのは論外!」と叫び始めたため、掃除を始める。換気しつつ静かに床や水回りの掃除をし、ベッドのシーツも全部剥ぎ取って、新しいものに変えた。広くもなく家具も少ない部屋はあっという間に綺麗になった。洗濯は明日するとしよう。
冷蔵庫の中はいつもの如く何も入っていない。都度買いに行くのは非合理的、と買い置きできるものはネットで買っていたくらいだったが、散歩がてら買いに行くのも悪くない、とそう思えるようになったのは彼女が近くに住んでいるとわかったからだろうか。
もしかしたら会えるかもしれない。心のどこかで期待していたのだと思う。
彼女のことを考えながら、鍵と携帯、財布を持って家を出る。
コンビニへ行く途中見上げてみたが、よるさんもおらず、この間のように明かりも漏れていなかった。帰宅はまだか。金曜の夜だ、予定もあるだろうし、っていやいや、これじゃまるでストーカーじゃないか。深くため息をついた。
会えないまま夏も終わってしまった。あの夜、別れ際に見た彼女を同じ場所で瞼の裏に映した。
明日の食料ついでにビールやつまみを買ったコンビニからの帰り、
◇◇さんの家の近くで揉めているような声が聞こえた。気づかれないよう慎重に近づくと、いつも事務用品を納品に来てくれている営業の男性と、
◇◇さんだった。嫌な考えが頭をよぎったが、冷静に声をかければ、同期たちとの飲み会後送っていたが彼女が途中で酔って眠ってしまったと彼は説明した。
「俺、こいつの家知らなくて起こしてるんですけど、一回寝たら起きないやつで」
◇◇さんは酔うと寝てしまうのか。寝たら起きないと知っているのに、家は知らない。へえ。
「そうですか。俺、知ってるので送りますよ。彼女、倒れそうですね、抱えます」
彼女の背中に腕を回し、掴まれていた腕を離してもらう。膝裏へもう片方の腕を入れ、
◇◇さんを抱えた。眠っているのに軽くて、驚いた。俺が言えた義理じゃないがちゃんと食べてるのだろうか。
「あ、……はい。さすがですね」
「いえ、これくらい。荷物はこれだけですか?」
「そうです。
◇◇、ついさっきまで相澤さんに会いたいって言ってたんですよ。寝ちゃいましたけど」
「俺も彼女に会いたいと思っていたところです」
「そう、ですか。じゃあよかった。まさか相澤さんがこの辺りに住まわれているとは。助かりました。では
◇◇のことよろしくお願いします」
「はい、責任もって送り届けます」
意外とあっさりしているな。話の内容からすると付き合ってはいないようだ。彼も
◇◇さんへ好意を寄せていると思っていたが、違ったか。
丁寧に頭を下げる彼へ、そう思っていた時だった。
「俺、
◇◇に告白したんです。フラれましたけど」
「は?」
「今まで通り友人、と
◇◇は思ってるみたいですが、隙があれば、と俺は思ってます」
底の読めない笑顔に、一瞬動揺した。
「今後、隙なんか与えませんよ」
そう返すと、彼はもう一度頭を下げ、帰っていった。
出来るか出来ないかは別として、本心だった。連絡先も知らず、2ヶ月ぶりに会えた俺と、同じ職場で、一緒に食事もする仲の彼とは、先ず以て立つ土俵が違う。彼からすれば隙だらけだろう。それでもああ言った彼の本心は初めの話の流れからして牽制ではなく、お節介か。まったく、いい大人たちがどいつもこいつも。
それにしても夜道に酔った状態で男と二人帰るなんて、
◇◇さんは警戒心がなさすぎる。連絡先を聞こうにも眠っているし、起きる気配もない。次会った時と言ったものの、まさか眠っている状態とはさすがに俺も予想できなかった。それにこれは人助けの範疇か。ならばどちらにせよ聞けないな。
良い夢でも見ているのだろうか、しあわせそうに微笑んで頬を擦り付けてくる。その仕草に喉の窪みがぐっと締めつけられた。鍵を取り出す際、抱え直したがその時もぎゅっと首に腕を回し、首元に顔を埋めてきた。喉の窪みから胸の上までを内側から握られているような苦しさに、これが愛しさかと考えながら、彼女の家の鍵を開けた。
最初こそ威嚇していたよるさんも、話しかければ
◇◇さんを心配そうに俺の後をついてきて、とても賢い猫だと思った。
猫のキーホルダーがついた鍵に、猫柄のハンカチ、さらに猫のネックレス。本当に猫が好きなんだな。彼女の荷物の位置をよるさんへ伝えると不思議なことに、わかった、と答えるように鳴いた。「おやすみ」と顔を覗いた時、
◇◇さんがあまりにも可愛く寝ていたため無意識に手が伸び、彼女の頭を撫でてしまった。離れがたかったのだ。
次の日の朝。
昨夜のことであまり眠れなかった俺は、あれこれ考えていても時間の無駄だ、と家を出た。
その理由は色々とあるが、第一に締めた鍵をドアポストへ入れて帰ったからだ。もし彼女が鍵を探していたら、と気になった。だがどうしたものか、連絡先を知らない俺は彼女のアパートの前で立ち尽くしていた。インターホンを鳴らせばいいのだろうが、いくら部屋を知っているからって突然訪ねるのは気が引ける。どちらにせよここで立っていても十分怪しいし、長くいればいるだけ不審者だ。ヒーローが通報されるなんて洒落にならん。驚かれたとしても鍵のことを伝えて、連絡先を聞けばいいだけ、よし。
決意を胸に、ふと2階の出窓を見上げれば、いつの間にかよるさんが丸くなってそこにいた。目が合ったかと思うと、よるさんは、すくっと座り直して鳴いているようだった。しばらくしてレースカーテンが揺れ、
◇◇さんが顔を出した。よるさんは俺を見て、彼女を呼んでくれたのか。本当に賢い猫だ。
慌てる
◇◇さんに手を振って、下に降りて来れるかと手招きをする。声が聞こえてきそうなほどに大きく口がぱくぱく動いて、小鳥が軽やかに羽ばたくよう俺の元へ来た。嬉しそうなにこやかな顔。いくら好意を寄せているからといって数度会った程度の男に家へ入られて嫌がっていないかと考えていたが、これはそう思っていないと受け取ってもいいよな。
彼女はパーカー付きのワンピース姿だった。こんなラフな格好もするのか。風呂上がりなのか、いい匂いがするし、肌はしっとりしている。顔もいつもより少し幼い。
「お、おはようございます!」
「おはようございます。鍵、かけてきました?」
あっ、と口元を手で隠し、「急いでて、でもあれ、鍵どこやったっけ? いつものとこに無かったかも」と呟いた。
「不用心ですね。昨夜締めた後、ドアポストに入れたんです。それを伝えたくて」
「昨夜は本当にご迷惑をおかけしました。相澤さんが送ってくださったと、さっき同僚の杉村から聞いて。なにから何までありがとうございます。あの、お洋服汚れていませんでしたか? クリーニング代を……私、相澤さんに、その、結構、えと、あの……」
「いえ、困っていたようだったので。服は大丈夫ですよ。
◇◇さん可愛かったですし。ですが、夜道に気心知れた同僚とはいえ、男と二人で帰るとか、眠ってしまうとか、鍵をかけ忘れるとか、まあ他にも色々ありますが、俺はあなたが心配です。何かあった時は俺を呼んでほしいので連絡先をお聞きしてもいいですか?」
「えっ? かわ? え、よぶ、あ、連絡先、もちろんです! あれ、携帯忘れてきちゃった、取ってきます!」
「気をつけてくださいね、ゆっくりでいいですから」
ゆっくりで、と伝えたのに
◇◇さんは頬を赤く染めた顔でアパートへ小走りで帰り、再びぱたぱたと走って戻ってきた。可愛らしさに愛しさが増す。気持ちは俺に向いていると思ってもいいよな。
「今度は鍵かけてきましたか?」
「はい! この通り!」
鍵を顔の高さまで掲げて、チャリと軽い音が鳴る。猫のキャラクターだろうか、デフォルメされた黒猫がこちらを向いて楽しげに揺れている。
「その猫のやつ可愛いですね。ハンカチも猫だったし、本当に
◇◇さんは猫好きだ」
えへへ、と彼女ははにかんで、前ポケットへ鍵をしまった。ネックレスも猫だったことに気づいていたが、首元で揺れていたそれは言わないでおいた。俺でもそのくらいのデリカシーはある。
「連絡先、どうぞ」
「はいっ」
携帯を重ねて、お互いの画面上に連絡先を映し出す。名前は
〇〇さんというのか。
「普段はこっちのIDでメッセージアプリをよく使ってます」
「あ、私もです。送ってみてもいいですか?」
「もちろんです」
ブブッと手の中の携帯が震えて、今知ったばかりの彼女の名前が表示された。
「ちゃんと来ました」
「うふふ、よかったです。お名前、しょうたさんって言うんですね、知れて嬉しいです」
俺を見上げて、ふわりと笑う。
ああ、やっぱりその笑顔が好きだ。初めて会った日の、彼女が着ていた桜色のジャケットを思い出す。彼女の笑顔を見ると、春の訪れを感じるような、柔らかくて生命力溢れる、そんな色で胸がいっぱいになって、じわりとあたたかくなる。
あれこれ不確定な気持ちを理由づけして集めてこれが恋なのかと自分の中で納得させたが、出会った時にはもう惹かれていたのだと今更気づく。向き合うのを諦めないでよかった。
『よろしくお願いします。』
『こちらこそ、よろしくお願いします。』
初めに届いた彼女からのメッセージから、数日途切れたりしつつも、どちらかが挨拶を送ったり、写真を送り合ったりそういうゆるい連絡を取り合っていた。繋がっているものがあるというのは安心する。特に、おやすみだとかこれが美味しかっただとか、
◇◇さんが平和に過ごしているとわかる連絡は癒された。たまにだが、朝、窓越しに手を振ることもあった。
今も今朝来た『おはようございます。最近すっかり寒くなりましたね。』というメッセージに返信をしているところだ。勤務開始時間もまもなくといったところでミッドナイトさんがやってきた。
「おはよう、相澤くん。真剣に携帯なんか見て、何かあった?」
「おはようございます。いや、ただ返事をしていただけです」
「こんな朝から? 携帯で? ……あっ! もしかして
◇◇ちゃんかしら」
「はい。先日色々あって連絡先聞けました」
「やるじゃない、相澤くん。ところで先日っていつよ、もう秋も終わろうとしてるんだけど」
嬉しそうな顔でバンッと肩を叩いた後、怪訝そうな顔つきになり俺の顔を覗き込む。
「1ヶ月……半くらい前ですかね」
「全然先日じゃないわ。前言撤回よ、もしかしてその1ヶ月半の間会ってないんじゃないの?」
「ええ、そうですけど。忙しくて」
「忙しくてって。相澤くん、あなたねえ、連絡先交換したくらいで安心しない! 時間は作るものよ。現に今だって
◇◇ちゃんへの返事のために時間作ってるじゃない」
確かにそうだ。忙しいのは勤務時間で、その後持ち帰った仕事を家でやってはいるが全く休まないわけではない。こうやって連絡が続いているだけ俺にしては十分進展した方だと言ったらきっとこの先輩は怒るだろう。
「まあ確かに。なんでそんなに世話焼くんですか」
「だってあなたたちお似合いだし。それに今まで相澤くん、女の趣味の悪いなと思っていたからホッとしてるのよ」
「香山さんどこまで知ってんですか」
「さあね、どうかしら」
会いたいなら会えばいいし、会いたいと言えばいいのよ、その携帯でね、と言って自分のデスクへと戻っていった。
送信待ちだった当たり障りのない文章を急いで消し、『おはようございます。暗くなるのも早くなりましたね。もし良ければ一緒に帰りませんか』と打ち直して送った。
12時頃、
◇◇さんから連絡が来ていて、何度かやりとりし、18時半に駅で待ち合わせることが決まった。その時の彼女から届いたメッセージは思わず、ふふと笑ってしまうほど感嘆符が並んでいた。
「こんばんは! お仕事、お疲れさまです」
携帯を見ながら駅の明るいところで待っていると、疲れも吹き飛ぶような弾んだ声が聞こえた。
「こんばんは。
◇◇さんもお疲れさまです。さ、帰りましょうか」
「はいっ!」
駅横の高架下を通って、俺たちが住んでる駅裏へと歩いていく。ガタンガタンと駅から離れていく電車の走行音が通り過ぎ、静かな住宅街に聞こえる音は、足音二つだけになった。歩く速度はどうだろうか。どんなにゆっくり歩いたとしても、10分以内には着いてしまう距離だ。できることなら長く一緒にいたい。
「歩くの速くないですか? もし速かったら遠慮なく言ってください」
「え、いえ! 全然! ちょうど良いです、というのもなんか変ですね。むしろ合わせてもらって申し訳ないです」
「はは、よかった。すぐ着いてしまうのは勿体無いと思っていたので、嬉しいです」
「あ、い、ざわさんからお誘いいただけて、私も嬉しかったです。いつものやりとりも嬉しいです」
肌寒い中、彼女の照れたようなゆっくりとした声が心地いい。
「俺も
◇◇さんから届くよるさんの写真や、美味しかったものの写真に癒されてます。この間のは、近くのコンビニのでしたよね」
「そうです! 新商品で、この時期お芋のフェアあるからつい買っちゃうんですよね」
「うまそうと思って、俺もこの間同じの食べたんです」
「え、相澤さん甘いもの好きなんですか?」
等間隔に立っている街灯が、彼女の驚いた顔を照らした。
「人並みには食べます」
「わあ、甘いもの食べてる相澤さん想像できないです」
「和菓子も好きですよ」
「ふふ、お団子とか羊羹とかですか?」
「ええ。まんじゅうとかも。お土産でよく貰いますし」
「わかります! この時期、あったかいほうじ茶と食べたくなりますよねぇ。って、あっという間に着いてしまいましたね」
彼女のアパートの前にある掲示板が見えて、少し寂しそうに
◇◇さんが言った。結局甘いものの話で終わってしまった。だが、文字でのやりとりでは得られない幸福感が腹の中に溜まっていく。
「ほんとですね。でも今日会えて嬉しかったです、誕生日だったので」
空腹を知ってしまった腹を満たすように欲が出てしまった。
「え! なんでそれを早く言ってくれないんですか。お誕生日おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「もしよかったらなんですが、改めてお祝い、させてくれませんか?」
「嬉しいです。なんだか言わせたみたいで申し訳ないです」
◇◇さんは、ふるふる首を振って、うふふと可愛らしく笑った。
「一緒に帰れてよかったです。顔を見れるのは嬉しいですね。また連絡してもいいですか?」
「私も、です。はい、私もメッセージ送ります」
心の底から嬉しいと思っているのが伝わる笑顔で、にこりと笑うと小さく手を振って、アパートの敷地内へ入っていった。
部屋の明かりがつくのを見届けて、俺も家へ帰る。
やはり会ってしまうと気持ちが急いてしまう。
香山さんはあの時、彼女の赤くなった顔は俺と同じ気持ちのはず、と言った。自惚れや願望も込みかもしれないが、今では俺もそう思う。だが彼女からは薄い膜のような、丁寧に触れれば破れそうだが、誤れば弾かれてしまいそうな壁を時折感じる。
大切にゆっくりとお互いを知って、同じ気持ちか擦り合わせていくことが最善だと思いつつも、こんなに好きだと思うならば一度くらい弾かれたとしても気持ちを知ってもらった方が逆に合理的なんじゃないかという矛盾に悩みながら眠った夜だった。