14話 猫グッズの効果
夏に相澤さんに会えたのは、あの夜の一度きり。
もしかしたら、と思って朝早く起きてよるさんと一緒に窓の外を眺めたり、休みの日は公園へ意味もなく行ってみたり、相澤さんと歩いた道を往復してみたりもしたけれど、新しく知ったご近所さんかもしれないという情報だけでは会うことも、見かけることすら難しかった。
先生に加え、ヒーローのお仕事もしているのだから生活サイクルが違うのかもしれない。このアパートだって、斜め下の部屋に住んでいるお姉さんには良く会うけれど、隣に住んでいる人はいまだにどんな人なのか全然知らない。そういうものなのかもしれない。
酷い靴擦れは、相澤さんが手当てしてくれた時と同じように絆創膏を貼ると、通勤用のパンプスも不思議と痛む事なく履けた。流石はヒーロー。治りかけの薄い皮膚は痛痒くて、それを我慢するほうが辛かった。痒さに何度も手を伸ばしかけたが、瘡蓋が自然と消えるまでおまじないのように絆創膏を貼った。
あの時相澤さんは、潰れた水ぶくれと血で汚れた足を躊躇いなく手のひらに乗せ、丁寧に手当てをしてくれた。上手く話せず、ぽろぽろ溢した言葉も丁寧に掬って、優しく諭してくれた。今まで見上げたことしかなかった相澤さんの顔は、よく見れば端正な顔立ちだった。暗い中街灯に照らされた彼の、ヒーローをしている相澤さんの真剣な眼差しは今思い出しても心臓をぎゅっと鷲掴みされたかのように苦しくなる。
助けてもらっただけなのに、簡単に好きでいっぱいになる。
なにより、ぼそりと呟かれた、〝目が離せなくなる〟という〝言葉通りの意味〟の言葉がじわりじわりと私の心を占領していく。それと同時に、憧れも恋心の一つというけれど、ヒーローとしての振る舞いに恋愛感情を抱いて勘違いをしているだけではないのかという思いが時々、もやりと心を曇らせていた。
恋を抱えた心は、あの夏の夜の夢のような時間を反芻して、膨らんだり縮んだりを繰り返している。
最近は夏のような暑さがまだまだ残りつつも、吹く風はさらりとしていて、陽が沈むと肌寒く、秋の訪れを感じるようになってきた。あの日から私の足の爪は、よるさんの瞳のような、あの夜ちらっと見えた相澤さんのゴーグルのような深い黄色を塗り続けている。
朝、すっかり綺麗に治った足を眺めながら、しそ昆布おにぎりを食べていた。昨夜多めに作ったキャベツともやしのお味噌汁も一緒に。以前よりしっかり見るようになった朝の情報番組の〝今日の星座占い〟。お味噌汁を啜るお椀の先にあるテレビ画面を凝視する。今日は発表がやけに早い。ということは順位が悪いということだ。
……最下位か。まあそんな日もあるよね。昨日は確か3位だったけれど、相澤さんには会えなかったし、特に可もなく不可もなくといったいつも通りの日常だった。
『でもでもがっかりしないで~! 12位の牡羊座のあなたは、猫グッズを身につけると運気アップぅ!』
可愛らしいキャラクターが元気づけようとテンションの高い声で励ましてくれた。
「えーほんとに? 本物の猫身につけたらもっと運気アップしない? よるさん一緒に会社行こー?」
「にゃっ」
足元でゴハンを食べていたよるさんをちらりと覗けば、「しないわよ」と言いたげな返事をする。私も「冗談だよー」と笑って返した。
今日は月に一度の同期会の日。いつもお店を探してくれるグルメに詳しい同期が『今日の店』と送ってくれた、おしゃれな店内の雰囲気に合わせて、普段より少し気合いの入った服を選ぶ。華金というのもあり、そわついていた。
すごく信じているというわけではないけれど、運気アップするならばするに越したことはないだろうと身につけられそうな猫グッズを物色する。元々鍵には猫のキーホルダーが付いていて、猫グッズはすでに持っているのだが、〝身につける〟という点では不十分かと思い、ハンカチを猫柄にした。もうひと押し、と猫モチーフのネックレスを付けた。五ミリほどの猫のシルエットのチャームはシンプルで可愛く、オンオフ使えてお気に入りのものだ。これだけあれば大丈夫、だと思いたい。
「よるさん、いってきます。今日はいつもより遅くなるの、ごめんね」
「にゃあん」
お見送りしてくれたよるさんの頭を撫でて、星座占い最下位の私は、猫グッズを身につけて家を出た。
ラッキーアイテムの効果か、それとも、何も悪いことが起きませんように、と普段より集中して仕事をしていたおかげか、何事もなく平和に順調にいつも通りに終わった。
そもそも今までは流し見して、良い順位ならばラッキー、悪い順位ならば気にも留めず過ごしていた。意識するようになったのは、初めて相澤さんに会った日が1位だったからだ。2回目に会った日は休日で、星座占いはなかったのだけれど、平日欠かさず運勢をチェックしたところでこの2ヶ月、見かけることすらできなかった。
他にすがるものがないからって良いも悪いも星座占いのせいにしては失礼って話だ。私の行動力が足りないだけなのに。
おしゃれな店内、仲良い同期との楽しい会話、美味しい料理、明日は休みという気の緩み、少しばかりちくりと痛む恋心にすすむお酒。
「このカクテルあまくておいしーい! なにが入ってるんだろ?」
「梨だって。季節のオススメカクテルだってよ。なんかすっかり秋だね」
「ほんと、ほんとだよぉ! なんでもうあきなのぉ、このあいだまで、なつだったじゃない!」
秋というワードにアルコールの回った頭が敏感に反応した。
一つの季節に1、2回しか会えないなんてヒーローとの恋難しすぎない? 行動力ってなに? どうしたらセキュリティ万全の有名高校の先生でヒーローやってる人に会えるっていうの? でもさ、ご近所かもしれないからってウロウロしたら完全に怪しい人じゃない! なりかけていたような気がするけれども。
テーブルに突っ伏した頭の中では、口に出せない言葉がぐるぐると渦巻いている。
「誰よ、こんなに
◇◇にお酒飲ませたの」
「まだ2杯目だって」
「ほら、あんた弱いんだからもうお酒は終わり。これ飲んで」
向かいの人事部の香椎ちゃんが答え、隣の同じ経理部の柏木ちゃんが私の持っていたグラスと水の入ったグラスと入れ替えた。
「えー、あまくておいしかったのに~」
「帰れなくなっちゃうでしょ。前にも帰り道で寝ちゃって運ぶの大変だったんだから」
「んん~、ごめーん」
冷たいお水を飲んでもまだふわふわと気分がよく、会計後、店の横で帰る方向を確認していると、頭がぼうっとしてきて誰かに寄りかかってしまった。
「おっと、
◇◇、だいぶ酔ってるな」
「杉村くん、
◇◇送ってあげてくれない? 橘くんは香椎送ってくれるらしいし、私はこの辺りに住んでるから」
「ああ、いいよ。柏木も気をつけてな」
「ありがと、じゃ
◇◇のことよろしく」
話し声は聞こえるけれど、二重も三重も重なったカーテンの向こう側で話しているようで、上手く聞き取れない。ふわふわふわふわ、夢の中に現実の音がぼんやり入り込み、話し声も、車の走る音やどこかで鳴っている何かの電子音も、すべての音の境目が曖昧になって子守唄に聞こえる。
ふと肩に掛けていたバッグの重さがなくなり、肩を軽く突かれた。寄りかかってしまっていたのは杉村くんだった。
「荷物持つけど、歩けそうか? 家まで送るよ」
「ん、ありがと、杉村くん。だいじょぉぶ、歩ける」
「駅過ぎたら割と近かったよな」
「うん、そう」
とろとろ歩く私に合わせて、杉村くんが隣を歩く。眠気なのかアルコールのせいなのか足首がだるく、つま先同士が絡まる。
「っと、あぶな。今日飲み過ぎ。なんかあった?」
前のめりになった上半身を杉村くんが腕で受け止めてくれた。
「ええ? んーと、今日の星座占いが最下位だったんだけど、何もなくてよかったぁと思ったら嬉しくって」
「そんな理由かよ、酒弱いのに」
「何もないからすがりたくなるんだよねえ。また1位だったら会えるかも~とか思っちゃうんだよ。あれ美味しかったなあ、甘くて。んー、ああそっか、1位だったらまた会えるかもって無意識のうちに思ってたんだ、私。自分から動くんじゃなくて、占いにすがるとかバカだね」
押し込めていたものが溢れて止まらない私に、杉村くんは、うんうんと話を聞いてくれて、こんな話聞かされても困るだろうし甘えてはいけないのに、事情を知る彼は、「今俺しかいないんだし、吐き出せよ」と寄り添ってくれた。自分をフッた相手にこんなに優しくできるなんて杉村くんはいい人だな。
駅を過ぎて、普段は一つ向こうの道を通るのだけれど、話の途中ということもあり、真っ直ぐでも帰れるからいいか、と道なりに歩く。しばらく歩いて、あまり見慣れない景色に家が遠く感じる。彼との途切れない会話は楽しかったが、だんだんと瞼も口元も重くなって、どろりと眠気が襲う。
「……杉村くん、ごめん」
やっぱりいつもの道を歩けばよかった。
「どうした、吐きそうか?」
「違うの、すっごく眠い。急に」
「いやいや、寝ちゃダメだって。ほら肩貸すから、歩こう、な?」
杉村くんは立ち止まる私の腕を肩に回し、背中を支えてくれた。この道であってるか、この角曲がるのか、と何度か聞かれたことに返事をしていると、見慣れた景色になってホッとした。
「あのさ、今聞くのもアレなんだけど、さっきの話、相澤さんとはどうなの」
「相澤さん? んんと、夏に一回会った、よ。会ったというか助けてもらったというか。また助けてもらったの。これじゃあヒーローと一般市民だよね。全然頑張れてないね、へへへ」
「いやヒーローやっててさらに雄英の先生だろ。雄英のカリキュラムやべえって話聞くから先生も忙しいだろうし、会えただけラッキーなんじゃねえの?」
「そうなの、かな」
「そうだって。この夏の間納品行ったけどさ、みんな忙しそうでピリピリしてたぜ。だから星座占いとか気にしなくても、あ、
◇◇このまま真っ直ぐでいいんだよな?」
「……ん、ん」
「どっち? え、うそだろ、おーい起きろー」
あと少しでアパートという曲がり角で、眠気に勝てず困惑する杉村くんを他所に瞼を閉じてしまった。やっぱり先生でヒーローの相澤さんは忙しいよね。偶然会えるなんてそんなこと、何度も起こるわけない。
「起きてくれ」「せめて家を教えてくれ」と何度か言う杉村くんの声とは別な男の人の声が聞こえて、地面にのめり込みそうだった身体がふわりと浮く。あたたかくていい匂いがして、よるさんのお腹に全身を埋めているようだ。
「まさか相澤さんがこの辺りに住まわれているとは。助かりました。では
◇◇のことよろしくお願いします」
「はい、責任もって送り届けます」
あいざわさん……相澤さんって聞こえたような気がする。夢かな。夢だよね。さっきまで肌寒かったのに、今はこんなにもあたたかい。いつの間にか帰ってきてベッドの中なんだ。よるさんをぎゅうってしてみたけれど、こんなに大きかったっけ。まあ夢だから大きくもなるよね。大きいよるさんも気持ちいい。今のうちにたくさんすりすりしておこう。
「にゃあ」
ほらよるさんの声も聞こえる。やっぱりベッドの中だ。
あたたかい何かが私の頭を撫でて、ずっと聞いていたくなるような心地よい声が「おやすみ」と言った。
朝。二日酔いはなく、清々しい目覚めだった。
なんだかすっごくいい夢を見ていた気がする。
昨日着ていた服のまま眠っていて、バッグはベッド横に、ポケットに入れていた携帯とハンカチは枕元にあった。
携帯を確認すると、柏木ちゃんから『ちゃんと帰れた?』とメッセージが来ていた。それは昨夜届いたものだった。どうやって帰れたのか記憶になく、『私、一人で帰った?』と送った。すぐに既読がついて、通話の着信が鳴る。
「もしもし、おはよ」
『おはよ。もう、やっと返事来たと思ったら。昨日
◇◇すっごく眠そうで、杉村くんにお願いしたの』
「え、あ、そうだ、杉村くんと一緒だったの思い出した。でも家に入った記憶なくて。杉村くん私の家知らないし」
『寝ぼけながら教えたんじゃない? 杉村くんに連絡してみたら?』
「うーん、お礼も言いたいし、そうする。心配かけてごめんね。連絡もありがと」
『いいのいいの、無事なら。飲みたい時もあるわよね。でもすぐ寝ちゃうんだから、ほどほどにね』
柏木ちゃんは姉御肌できびきびしていて、つい甘えてしまうんだけれど、杉村くんと私をくっつけようとしてるように感じるときがある。いらないお世話だと思うのに勘違いだと恥ずかしいし、仲が良いからこそ同僚には言いづらい話題でのらりくらりとかわしていた。
通話を切って、杉村くんとのトーク画面を開く。休みだし、まだ寝ているかもしれない。とりあえずメッセージ送っておこう。
『昨日は送ってくれてありがとう。途中から全然記憶なくて、迷惑かけてごめんね』
意外とすぐに既読がついて、『気にすんな』のスタンプが送られてきた。そのあと、『
◇◇が道ばたで寝た時、相澤さんに偶然会ってさ、
◇◇を家まで送ってくれたのは相澤さんだよ。最下位でも会えたぜ、星座占いは気にしすぎな』と届いた。
最下位でも会えたのか、やっぱり気にしすぎだったよね、気をつけよ。へ、なに? 会えた、送った? どういう意味? 字面だけでは理解できず、送られてきた文字を一言一句ゆっくりと読んでみる。
「私を家まで送ってくれたのは相澤さん? もしかして、あのあたたかさも? よるさんだと思ってぎゅってしちゃったのも? うそ、え、あのいい匂いも?」
声に出してみれば、夢だと思っていた記憶が断片的に思い出され、余計に混乱した。
どうしよう、どうしよう。だってあまりにも心地よくって夢だって思ったんだもん! 柏木ちゃんには心配かけて、杉村くんには迷惑かけて、相澤さんにまで迷惑かけて、さらにまた助けてもらった上、失礼なこともしてしまった。しかも勝手にいい思いしちゃった。
杉村くんには改めてお礼とお詫びのメッセージを送った。
連絡先を知らない相澤さんには、どうやって伝えたらいいんだろう。というか、私本当にダメなところばっかり見せている。失言に、失態、怪我、そして酔って熟睡、寝ぼけていたとはいえ過度な密着まで。好きな人にはいいところを見せたいし知ってほしいのに、こんなことある? 優しい相澤さんも、今回のでさすがに呆れたに違いない。自分が情けない。
「にゃー」
「よるさん、おはよ。昨日はごめんね」
項垂れているとよるさんが寄ってきて、甘えた声で鳴いた。この鳴き声は私を呼んでいる時で、大体ゴハンの催促だ。
「はーい、ゴハンあげるね」
よるさんのお皿にフードを入れて、私はシャワーを浴びる。化粧を落とさず寝てしまった肌も元気がなく、髪を乾かしながらフェイスパックをした。髪も念入りに手入れをする。フルーティで爽やかなヘアオイルの匂いを纏えば、少しだけ気持ちが落ち着き、部屋へ戻った。
ゴハンを食べ終わったよるさんは、お気に入りの出窓にいた。私の姿を確認すると、「にゃー、にゃー」と何度も私を呼ぶ。そこで鳴くのは初めてのことで、なにかあったのかと急いで駆け寄った。
「どうしたの、よるさん」
「にゃぁん」
「ん? 外?」
窓へ向き直し鳴いたよるさんに、「外を見て」と言われた気がして、レースカーテンをめくる。
ガラス窓の向こう側、視線は下、アパート前の少し細い道、電柱の横。夏の間、ずっとここから見れたらいいなと思っていた人が立っていた。ずっとずっと会いたいと思っていた人。私に気づいたその人は、軽く手を振って、手招きをした。
信じられない光景に、私は何度も大きく頷いて、慌てて家を飛び出した。