12話 夏と夜
今日は土曜日で学校は休みだが、持ち帰った仕事を家にこもってやっていた。
厳密言えば、昨夜雄英から帰宅後、風呂に入り、軽く夕飯を済ませた後、仕事をしていて今に至る。気づけば窓の外は薄ら明るくて、徐々に蝉が鳴き始めていた。2時頃に入れた眠気覚ましのコーヒーも飲み干す前に温くなり、エアコンのタイマーが切れた部屋では飲む気も失せてしまった。
くあ、と欠伸をして、椅子にくっついてしまった尻を引き剥がし、立ち上がる。日が昇ったばかりだというのにこの暑さ。エアコンの冷房のボタンを押しながら、急用以外は外に出るまいと決め、毛布に包まった。
日が昇りきった頃にはもう蝉の大合唱が始まっていた。
「うるさ」
ベランダに続く窓向こうの近くの木に止まっている蝉が一際煩くて目が覚めた。カーテンを勢いよく開けると、ジッと鳴いて飛んでいく。入れ替わるようにまた別の蝉がやってきて、二度寝は叶わなかった。
「嫌になるくらい、いい天気だな」
正に夏の空と言うのに相応しい暑天だった。外に出ないと決めた日に限って、冷蔵庫の中も空、買い置きの食パンやカップ麺すらなくて、帰りにコンビニに寄らなかった昨日の自分を恨む。そういや、とゼリー飲料の入っているダンボールを覗いたがこちらも空で、昨日全部学校に持って行ったんだった、と一つでかいため息をついた。
仕方無しにキャップとゴミ出し用に使っている薄っぺらいビーサンを身につけ、重たいドアを開ける。
「あつ……」
想像通りの暑さに引き返したくなる。午前中だというのにアスファルトは揺らめいており、ビーサンで来た事を後悔した。地面から足を離せば、遅れてペッタンペッタンと鳴る音がもどかしく、暑さを倍増させる。
コンビニに近い一本隣の通りに入ると、一気にノスタルジーにかられた。個人宅の前に撒かれた打ち水の乾いた跡、時期を過ぎ色褪せた紫陽花に、それに代わるように咲き誇るひまわり、もう少しで蕾をつけるであろう朝顔。
「小学生の夏休みみてえだな」
先まで足の裏が焦げそうだと早足で歩いていたのがこの景色を見るためかのごとく、ゆっくりと歩く。黒猫のいるアパートの前で視線を上げるが、さすがにこの暑さでは出窓にはいなかった。涼しい時間ならいただろうか、朝方寝る前に行けばよかったな、とここでも少し後悔した。
コンビニへ着くと、流れる汗に冷気が心地よく、Tシャツの胸元を掴み、服内の空気を入れ替えた。入り口横に置いてあるカゴを取る。買う物は大体決まっているのだが、涼みがてら店内を見て回る。購入意欲を唆らせるためのパッケージが眩しかった。水を4本、カップ麺を4個、食パンを2袋。食パンは足が早いが、冷凍保存すればいいと山田に教えてもらって、それ以来まとめて買うようにしている。食べる時に電子レンジのトースト機能で焼けばいいから便利だ。
やっと体が冷えてきた頃、またジリジリと照りつける太陽が待ち受ける扉の前に立つ。自動ドアが開閉する度にピコピコと鳴る音がまた別世界感を醸し出していた。
「あっつ……」
黒のTシャツとパンツが熱を吸収して、あっという間にじわっと汗が滲んでくる。家に着き、キャップと鍵と財布を適当に下駄箱の上に置く。温くなった水を冷蔵庫に入れ、他は袋に入れたままキッチン棚の取手に引っ掛けた。じっとりした服を脱ぎ、シャワーを浴びる。上がった後、まだ温いままの水を飲んだところで腹が減って出かけたことを思い出した。タオルで髪を拭きつつ食パンを一枚そのまま齧る。
あのアパートの出窓に猫がいればまだこの外出も有意義なものだっただろうと携帯のロック画面に写し出された雄英近くの猫を見ながらスタンドへ置き、パソコンのスリープ状態を解除した。
朝方までやっていた仕事の続きに取り掛かる。夏休み前は当然の事ながら期末試験もあるし、夏休み中には林間合宿もあるため、通常の業務に加え仕事量が増す。更に自身のヒーロー業もあり、多忙を極める。
まあ、自身に休みがないのはいつものことだが、ヒーロー科の生徒たちにとっても夏休みとは名ばかりで、落胆する生徒たちには悪いが、ヒーローになるためには致し方ない。
幾つ目かの仕事が片付いた夕方頃、緊急の出動要請の連絡が入った。
「場所は……割と近いな」
急いでコスチュームに着替え、装備を装着し、現場へ向かう。現場近くの事務所のヒーローと合流し、敵を制圧していく。警察との連携もあって、幸いな事に被害も損壊も少なく、怪我人も出なかった事に一安心し、帰路に着いた。
仕事中は感じなかったが、日が落ちても蒸し暑く、近道がてら少しでも涼を感じようと水場のある公園を突っ切ることにした。夜の公園は静かで、たまに池の鯉がちゃぷんと跳ねる音がする。
木々の多かった通りを抜けると、街灯近くのベンチに人が俯いて座っていた。遠目から見た時は酔っ払いかと思ったが、数歩近づけば鼻を啜る音が聞こえ、良く見るとその女性は裸足だった。横にはサンダルが置かれてあり、怪我をして動けないのではないかと思い声をかけたが、夜に、しかも一人でいる女性には恐怖でしかなかっただろう。俯いて固まったまま微動だにしなかった。腰のポーチからヒーローライセンスを取り出し、女性の視界へ入れた。
「怖がらせてすみません、プロヒーローのイレイザーヘッドです」
そう名乗ると女性はヒーロー名を復唱し、「相澤さん」と俺の名前を呼ぶ。まさか名前を呼ばれるとは思わず間抜けな声を出してしまった。俯いた女性がゆっくり顔を上げると、涙目の顔が街灯に照らされ、輪郭がぼんやりと光る。
「……
◇◇さん?」
目の前にいたのは少し前に、恋だと自覚した相手だった。
過去会った時に見た、さらりと垂らしたままの髪は後ろで一つに結ばれていた。服装もジーンズで仕事中の彼女とは違う雰囲気だったため気づかなかった。会ったといってもたった二回だ。それも仕事中。俺は普段の
◇◇さんを知らない。
どうしてひとりこんなところに? 涙のわけは? 怪我以外にもつらいことが? 聞きたいことは山ほど頭に浮かんだが、彼女は怪我をしていて、今はヒーローとして名乗った以上、救助を優先しなければならなかった。
指と足の側面の水ぶくれは、潰れた後も歩き続けたせいで浸出液に血が多く混じっていた。踵も皮が捲れている。酷い靴擦れだ。見ているだけで痛々しい。どれだけ我慢して歩いたのか。ぽたぽたと溢れ落ちる涙も痛みのせいなのだろうか。そうであってもなくても彼女の涙に胸が締め付けられた。手当てすることを確認すると「ありがとうございます」と少し鼻声な、か細い声で返事をした。
手のひらに乗せた彼女の傷だらけの小さい足は熱くて、さらに苦しくなる。
「痛かったでしょう。何故こんなに酷くなるまで歩いたんですか?」
もし俺がここを通らなければ、彼女はどうなっていたのだろうか。助けを呼んだようにはみえなかったし、靴を脱いだ彼女は歩くのを諦めたかのように思えた。ここは雄英管轄下で比較的平和だとしても理不尽はいつ襲いかかるかわからない。もう少し危機感を持ってほしい、そう思うとつい口が滑ってしまった。
「気づくまで痛くなくて、気づいたらこんな風になっていて、近くにお店もなくて、でも歩かなきゃって」
「すみません、責めたわけではなくて」
子どもの言い訳のように、ぽつりぽつりと鼻を啜りながら話す彼女に慌てて弁解する。心配するあまり、ヒーローに個人的感情を上乗せしてしまった。どうも
◇◇さんの前では冷静でいられないようだ。こうも会う度違う顔を見せられると目が離せなくなる。
手当ても済み、送ることを告げれば、彼女はこくんと頷いて、そっとサンダルを履いた。薄い絆創膏では心許ないだろうと手を貸そうと思ったが、邪な気持ちが出てまたつい何かを口走ってしまう気がして、やめた。その代わり、すぐ支えられるよう隣をゆっくり歩いた。
涙は止まったようだが、まだ鼻声の彼女が、あの、と口を開き「目が離せなくなるってどういう意味ですか?」と聞いた。
は、嘘だろ。声に出てたのか。一体どこまで出てた? あれだけ色々考えたのに全くもってヒーローできてねえじゃねえか。くそ。
内心慌てながらも「言葉通りの意味です」とだけ答えた。そっけなく聞こえたのか、
◇◇さんは黙ってしまった。それに続く言葉も見つからず、家に救急セットはあるかと聞けば、はい、と先ほどよりは幾分張りのある声で答えたので二つの意味で安心した。
公園からの道のりは何となく知っている道で、しばらく歩くと、そこの角を左です、と彼女が言い、今朝通った道へ出たことに驚く。「知ってる道なんですか?」という彼女の問いに、「通勤中に通る道です」と僅かに濁して答えた。コンビニへ行くのにも通るとか、がっつり生活圏内だとわかれば彼女も気不味いだろう。
だが、猫好きの
◇◇さんならば話しても構わないだろうと思った俺は、「朝通ると、この通りにあるアパートの出窓に黒猫がいて」と世間話のつもりで言った。すると、泣きあとのある少し赤い目を丸くした彼女が「それ、たぶん、よるさんです」と言って、「ここですよね?」とアパートの前で止まった。朝見かける黒猫によるさんを重ねては、彼女のことも思い出していた俺もドライアイで充血した目を丸くし「そう、ここです」と吃驚しながら答えた。
こんな偶然あるだろうか。気持ち悪がられていないか気になったが、彼女はとても嬉しそうで、小さく「そっかあ、えへへ」と何度か呟いて、今は足の痛さも忘れているようだった。こんなに喜んでくれたのなら正直に言えばよかったと思ったが、やっと見れた笑顔に、ほっと胸を撫で下ろす。
会う度違う顔を見せる
◇◇さんだが、彼女にはやはり笑った顔が似合うと、在り来たりな事を考えた。
「
◇◇さん、またね」
曖昧な別れの言葉は、俺との関係性は続いていくことを知っていてほしいという思いを込めた。もっと他にあっただろうが、怪我をした彼女と、それを助けたヒーローとではこれ以上踏み込める方法を俺は持ち合わせていなかった。
これは意気地がないわけではなく、俺の意地だった。