10話 想いと返事
告白された日から一度も杉村くんに会うことはなく、彼が出張先から帰ってくる日となった。
午後には出社予定で、もうそろそろ着く頃だ。
出張に必要な書類などは、私が席を外した際に上司が渡したそうだ。
気の合う友人だと思っていた彼からの突然の告白は十分に驚いたし、「いない間くらいは俺の事を考えててよ」と言った彼は、私の気持ちに気づいている。あの日、帰りの車内が静かだったわけはお互いの気持ちが揺らいでいたからだった。
想いを伝えるというのは勇気がいる。関係性が壊れるかもしれないし、相手の中に別の誰かがいるとなれば想いは通じない可能性も高い。私ならばきっと言わずに終わってしまう。それなのに杉村くんは伝えてくれた。それは素直に嬉しかった。
けれど私の中には相澤さんが居続けている。今後気まずくならないようにするためにはどう断ればいいのだろう、と悩む私はなんて薄情なんだろうか。仲が良い友人と思っていたからこそ、彼の言った〝考える〟とは程遠くて苦しかった。
それなりに経験してきたつもりだったけれど、過去の経験は役に立たないというお決まりのやつ。それもそうだ、相手も年齢も環境も違うのだから当たり前だ。誰も傷つかない恋はおそらく、ない。若い頃の恋に恋してるような淡い片想いの時期でさえ胸は苦しいのだから。
梅雨入り前に見た、雄英生の夏服が脳裏に浮かんだ。
お昼休みが終わり、静かだった部屋にカチャカチャとキーボードを打つ音が戻ってきた頃、空気の入れ替えのため開いたままにしていたドアをノックする音がした。誰かが返事をすれば、お疲れ様です、とよく通る声で挨拶をした杉村くんが入ってきた。
「これ、出張のお土産です。みなさんで召し上がってください」
部長は席を外していたため、彼は課長へお土産の紙袋を渡し、領収書などが入ったクリアファイルを持って、私のデスクへ向かってくる。
みんなが貰ったお土産に夢中なのを確認すると、「今日、空いてる?」と聞いてきた。私は上手く声が出なくて、頭を縦に下ろす。それを見た彼は、「じゃ終わったら迎え来るわ」と耳打ちし、盛り上がっている方へ歩いて行った。一人、席に座っているのも不自然だと思い、彼の後に続く。全く心の準備ができていなかった私は、お土産の説明を聞き入っているみんなの少し後ろで、後輩が渡してくれた手のひらに乗った和紙の包み紙を眺めていた。水色の小花柄が綺麗だった。
18時。定時になると、ぽつりぽつり、同じ部署の人たちが帰っていく。同期の柏木ちゃんからは「帰らないの?」と声をかけられ、「杉村くん待ってる」と答えると「ほんと仲良いわねあなたたち」と言って帰っていった。迎えに来られるのは初めてではないが、今日はこれまでと状況が違う。どうも落ち着かない。退社時刻を入力し、手元の書類を片付ける。手持ちぶさたにデスクの引き出しを整理しだしたところで、背後から「よっ」と杉村くんが横に飛び出してきた。
「お疲れ、一緒帰ろうぜ」
「わっ、びっくりした」
「はははっ、いつも驚いてばっかだな」
驚きつつも告白する前と変わらない態度の彼にホッとした。
会社を出た後は、出張先の食べ物の話や、店、観光地などの話をしながら駅方面へ歩く。昼とは違って、いつも通り話せたことに安心していた。
「へぇ! 行ってみたくなったなあ、さすが営業マン、プレゼン上手いね」
「だろ? なかなか行かない県でさ、こんな良いところだったんだなーって」
「だよねえ、つい隣の県の観光地に行きがちだもんね」
「でさ、今度一緒行かね?」
「え?」
顔を覗き込まれて、「はっ、なんちゅう顔してんの」と笑われた。
そんな酷い顔してたかな。だって、いつも通り話せてるって安心したところだったんだから。急な旅行の誘いなんてびっくりするに決まってるじゃない。
「まー、初めて出かけんのに遠出ってのはハードル高いよな。じゃあさ、前話してたかき氷屋は? ふわふわ氷のフルーツソースんとこ」
「う、うん。まあ、そこなら」
「よしっ! じゃ、そこ決定な! 今週末行く?」
こちらが気を遣う前に気を遣われて、なんだかすごく上手く乗せられた気がする。一緒に出かけてもいいのかな、多分、今返事はしないでくれってことだよね。そのくらい私にだってわかる。
週末、かき氷屋ある街の最寄駅で待ち合わせすることになった。
今年の最高気温を更新した今日。まさに夏と言わんばかりの真っ青な空と、触れそうなくらいに垂れた大きな雲が作りだした絵葉書のような景色が、茹だるような暑さを僅かに、仕方ないかと思わせてくれた。
それでも暑いものは暑く、家から少し歩いたところにあるコンビニで水だけでも買おうかと悩んだが、お出掛け用の小さな黒いポシェットには入るスペースがなく、諦めた。
可愛いけれど機能的ではないそのポシェットには、淡色のデニムにパフスリーブのブラウスを合わせて、2センチ程のヒールがついた黒いサンダルを履いた。ペディキュアは、よるさんの瞳のような深い黄色を塗って、サンダルからのぞく艶々な爪に気分が上がる。
「お待たせ」
「おー、早いな」
時間前に着いたはずなのに、杉村くんは待ち合わせ場所にすでに居り、携帯を触っていた。声をかけると、イヤホンを耳から取ってケースに入れ、肩にかけているボディバッグにしまう。
「杉村くんこそ」
「楽しみだったって察してくれ」
そう言った彼は、へへへ、と少年のように笑い、「さ、先に昼飯行くか」と先に歩き出す。
目的のかき氷はおやつにしようと2日前の夜、電話で計画を立てた。待ち合わせた場所は大きな商業施設と併設された駅で、昼食後、予約をした16時までその施設内を見て回ろうという予定だった。
ランチが済んだ後、お互い気になる店をひと通り見て、エスカレーター横のソファで休憩をする。
「今日の服、可愛いな。夏って感じで」
「ありがと、会社にはジーンズ履いて行けないからね」
「服もだけどさ、最近可愛くなったよな。元々可愛いけど」
「え、急に何、どしたの? そんな褒めても何も出ないよ」
彼から初めて聞く褒め言葉に、どうしたらいいのかわからず軽口をたたいてしまう。
確かに食べる量が減って気づけばベストな体重になっていたし、ヘアケアやボディケアもなんだかんだ続いている。それが可愛いにつながっているのかはわからないけれど。
「前から思ってたんだよ。言えなかっただけ。今日くらい言ってもいいだろ?」
今日くらい、か。返事しないといけないんだよね。そのために誘われたようなものだもんね。どうしよう、なんて言ったらいいんだろう。
「え、なになに、今フラれるの? やめてよー」と戯けて笑う彼に、申し訳なくて「ごめんね」としか返せなかった。
駅を出て、5分程歩く。夕方に近づいたとはいえ、まだ外は暑く、少し歩いただけで汗が滲んでくる。ぬるい風にはためく〝氷〟のビビットな青と赤の暖簾が目に留まると、それだけで体感温度が二度ほど下がった気がした。店の中に入れば、家族連れやカップル、学生同士など、話題なだけあって若いお客さんで賑わっていた。皆、綺麗なかき氷に夢中で、外の暑さなんか忘れているようだった。
着いたばかりの私たちは肌に冷房の冷気を感じつつも、まだ体の中には熱が残っていて、噴き出す汗をハンカチで拭き、パタパタと扇ぎながらカラフルなかき氷を選ぶ。
「
◇◇何にする?」
「うーん、このブルーベリーソース気になる」
「いいねぇ、俺はモモかなあ」
しばらく経って、お待たせしました、と注文したものが運ばれてきた。ふわふわときめ細かい氷に、とろりと濃厚な自家製ソースがかかったかき氷が、深さのある平たいガラスの器に盛られている。器の下は銀の丸いレトロなトレーで細部までこだわりが詰め込んであった。
「すごい、可愛い! 美味しそう」
「ソースというかもうフルーツが乗ってんな」
いただきます、と一口入れると、しゅわっと溶けた氷が濃いソースと合わさって、搾りたてのジュースを飲んでいるような瑞々しさだった。
「美味しいー! ふわふわ氷がすぐ溶けるー!」
「はは、
◇◇のその顔やっぱいいわ。すんごくうまそうに見える」
食べ終わる頃にはすっかり体は冷えていて、食後に出された温かい緑茶とお店の優しさにほっこりする。
普通に楽しんでしまった。杉村くんが笑ってくれているのは嬉しい。けれどこれでいいんだろうか。正解がわからない。
外は店に入った頃と変わらず暑かったけれど、冷えた体にはちょうどよかった。
「もうちょい時間いい?」と聞いてきた彼に頷く。駅に併設された商業施設の屋上にある庭園へ行くことにした。屋上へ着けば、周りはビルの最上階付近と同じ目線なのに、目の前は背の高い木々と可愛らしい花のついた低木が植えてあり、さらに足元には芝生が広がっていて、この場所だけ空に浮いているような不思議な空間だった。ベンチの側には小川も流れている。チョロチョロと涼しげな水の音に癒された。
「今日、楽しかったよ。ありがとう」
「私も楽しかった」
杉村くんは、「あー、やっぱ諦められんな」と悔しそうな声を出し、下を向いてしまった。膝に肘をつき、背中を丸めている。
「……私の気持ち、知ってるの?」
「わかるよ、好きなやつの事くらい」
ゆっくりとおそるおそる話す私に、杉村くんは俯いたまま力強く話す。
「雄英の先生だろ? 相澤さんだっけ」
「うん」
「なんでよりによって手の届かなさそうなやつ好きになるんだよ」
「なんでだろ、自分でもわからない」
「その先生、ヒーローもやってるって知ってんの?」
「知ってる」
まじか、とまた一段と深く項垂れた。
「俺さ、
◇◇には笑ってて欲しいんだよ」と言うと、うまそうに食ったり可愛いもの見て喜んだりさ、と続けた。ふう、と短く息をこぼした彼が顔を上げ、私の方を向き、「俺じゃだめ?」と聞いた。真っ直ぐ見つめてくる彼へ返す言葉が見つからず、今度は私が俯いてしまった。
「ヒーローってさ、すげーけど、危険な仕事もするし、広告とかCMもヒーローばっかだしさ、芸能人みたいなこともするだろ? ヒーローの熱愛報道とか見ない日のほうが少ねえし。そんなので
◇◇が落ち込んだり、傷ついたりするの見たくねえよ」
「……相澤さんがヒーローしてるのも、テレビに出てるのも見た事ない」
「これからあるかもだろ。俺、
◇◇のこと大事にする自信あるよ」
彼の性格上、本当に私のことを心配して言っているのがわかるからこそ、言葉に詰まってしまった。私だって考えないわけではない。だから相澤さんのことを想うと、好きという思いと同じくらい苦しくなってしまう。それでも……。
「接点とか全然なくて無理だって思っちゃう時がほとんどだけど、それでも頑張れるうちは頑張りたいって思うんだ。杉村くんの気持ち嬉しいよ、ありがとう」
「……そっか、
◇◇がそう言うなら。応援するよ」
そう言った彼の顔は、悲しそうに微笑んでいた。
それでも、と彼に言った言葉に嘘はない。叶わない恋をしていることは最初から自覚はあった。杉村くんの言葉に、側から見てもそうなんだと現実を突きつけられた。だからといって、想いはそう簡単に消えてはくれない。
今日は楽しかったけれど、色々考えすぎて疲れてしまった。
最寄駅に着いた頃にはすっかり暗くなっていた。風はぬるく、葉も揺らさないほどで、電車の冷房で冷えた体に膜を張るように湿った空気が纏わりつく。
「いたた」
段差を降りた時に感じた鋭い痛みに、足元を見てみれば、サンダルの摩擦でできた水ぶくれが潰れてじわりと血が滲んでいた。
ついさっきまで歩けていた。なんともなかったはず。気づいた途端、靴擦れもこの胸の苦しさもズクズクと激しく脈を打つ。進むしかないとわかっているのに痛くて涙が出てきた。
数歩歩いては立ち止まるのを続け、何とか家の近くの公園まで着くと、やっとの思いで街灯の側の石でできたベンチに座った。
よく見てみれば踵も擦れて赤くなっていて、歩く気力をさらに奪っていく。忌々しく見えてきたお気に入りのサンダルを脱ぐと、日が沈んでもなお、日中の暑さの残るアスファルトに素足を置く。ボロボロの足は、これ以上進むのは無理だと言っているようで、また涙が滲んだ。
どうしよう、と呟いた時、「大丈夫ですか」と声が降ってきた。
男の人だ。声がするまで気づかなかった。こんな時に声をかけられるなんて、怖くて顔が上げられない。無防備すぎて、答えることも逃げることもできない。暑いのに、ひやりとした汗が背中に、つうっと流れた。
動けず俯くだけの私の視線の先に、一枚のカードが差し出され、「怖がらせてすみません、プロヒーローのイレイザーヘッドです」とその人は言った。
カードには、見覚えのある黒い髪に、黒い服、そして、ぐるぐると巻いた布を首に巻いた人が小さく右側にいた。写真の中の人は無愛想で、ヒーローと言うには首を捻ってしまいそうなほどだったけれど、その人が柔らかく笑うのを知っている私は安心して、初めて聞く彼のヒーロー名を口にした。
「イレイザー、ヘッド……あ、いざわ、さん?」
「え?」
ゆっくり顔を上げると、やっぱり相澤さんの顔は思った以上に上にあって、喉がきゅっと締まる。
「……
◇◇さん?」
私の名前を呼ぶと、長い身体が、すとんと目の前に降りてくる。屈んだ彼の顔を確認すると「相澤さん、だ。本物?」と訳のわからないことを言ってしまって「偽物がいたら嫌ですね」と彼は小さく笑った。どうしてここに? と聞くと、「近くで出動要請があったので、その帰りです」と首に巻いた長い布を整えながら答えた。隙間からゴーグルのようなものが見えて、それは、よるさんの瞳の色と同じだった。
「足、大丈夫ですか? 応急処置になりますが、手当しますね」
「……はい。ありがとうございます」
相澤さんは腰辺りのポーチらしきものから小さなスプレーボトルと絆創膏を取り出し、ベンチの上に置く。アスファルトの熱で熱くなった私の足の裏に大きな手を添え、「少し滲みます」と言って、足の甲にシュッと吹きかける。ピリッとした痛さと消毒液の冷たさに、ぴくりと足が動いた。
「痛かったでしょう。何故こんなに酷くなるまで歩いたんですか?」
消毒液が乾き、優しい手が丁寧に、そっと絆創膏を貼っていく。
「気づくまで痛くなくて、気づいたらこんな風になっていて、近くにお店もなくて、でも歩かなきゃって」
せっかく会えたのに、なんでこんな姿ばかり見せてしまうんだろう。いくら日々頑張ったって、相澤さんの前でちゃんとできなければ意味がないのに。今度は情けなくて涙が溢れた。
「すみません、責めたわけではなくて。……こうも会う度違う顔を見せられると目が離せなくなる」
そう言うと彼は立ち上がって「もう遅いから送ります。歩けますか?」と聞く。
ボロボロだった私の両足は絆創膏だらけになっていた。あんなに痛さと苦しさしか与えなかったサンダルも、彼の優しさに守られているような気がして、すんなりと履けた。
絆創膏が捲れないようゆっくり歩く私の歩調に合わせ、彼も長い脚を持て余しながらゆっくりと歩く。歩くのに必死で、さっき呟くように言った彼の言葉を思い出すのに時間がかかってしまった。
次いつ会えるかわからない。もしかしたらもう会えないかもしれない。確かめてもいいだろうか。
「あの、目が離せなくなるって、どう言う意味ですか?」
「言葉通りの意味です」
そう言うと相澤さんは口を閉じた。私も弱まった臆病な心ではそれ以上聞けなかった。けれど、苦しさはなくなっていた。相澤さんの声がすごく優しかったからだ。
しばらく沈黙が続いて「家に救急セットはありますか?」と彼が前を向いたまま話す。確か消毒液と絆創膏くらいはあったはず、と思い出し、「はい」と答えた。
ここ数日の晴天のおかげでツルがよく伸びて花を咲かせるのが待ち遠しい、朝顔のカーテンのある見慣れた一軒家の角を曲がればアパートはもうすぐそこ、というところで相澤さんが、この通りって、と呟いた。
「知ってる道なんですか?」
「通勤中に通る道です」
うそ。本当に?
好きな人が同じ道を歩いていたという、たったそれだけのことなのに胸がキュンとする。
「朝通ると、この通りにあるアパートの出窓に黒猫がいて、すごく綺麗でつい見てしまうんです」
それって……。
「それ、たぶん、よるさんです。……ここ、ですよね?」
私たちはアパートの前で止まった。
「そう、ここです」
彼はポケットに手を入れたまま、目を丸くしている。
「相澤さん、よるさんのこと見てたんですね、なんだか嬉しいです」
自分とは遠い存在だと思っていた彼は、同じ道を歩いて、同じ景色を見て、そして、驚くことによるさんのことも見ていた。信じられないことが一気に押し寄せて、さっきまで弱々しくうつ伏せで寝転んでいた心が顔を上げた。固まっていた表情が自然と緩んでいく。
「やっと笑いましたね。よかった。階段、気をつけて上がってくださいね」
柔く微笑んだ彼の目元はすごく優しくて、おそるおそる立ち上がった心をじんわりあたためた。
「はい。送ってくださって……えと、手当ても、ありがとうございました。……あの」
「ん?」
「いえ、遅くまでお仕事お疲れ様でした」
「
◇◇さん、またね」
相澤さんはそう言うと、暗闇の中へ消えていった。
思い切って連絡先を聞いてみようかと思ったけれど、今日はダメな気がしてやめた。またね、と言ってくれたのだから、また会えるはず。
相澤さんはご近所さんかもしれない。偶然知ることのできた共通点に心を膨らませ、やっぱり頑張ってみよう、と痛さを我慢しながらゆっくり階段を登った。