1話 黒猫みたいな
朝パジャマを脱いでトイレに行き、手を洗ってそのまま体重計に乗る。
表示された体重に、ふう、とため息をつく。〇.三キログラムなんて水分量とかの誤差だとわかってはいても、増えているという数字に落胆するのだ。別に、毎日運動をしているだとか、カロリーを気にしているだとか、そんなことはしていないのに。
動画を見ながらのストレッチや数分の筋トレ、食べすぎた次の日の食事の調整などのゆるい体型維持は、恋人や気になる人がいるわけでもなく、自分のための体調管理的なものでやっている。アラサーにもなれば自分の身体の機嫌の取り方くらいなんとなくわかってくる、そういうあれだ。
「今日は調子良さそう」
洗面台の鏡に映る自分の肌を確認する。ヘアバンドをつけて水を出した時、うにゃあん、と猫のよるさんが足元に擦り寄ってきた。
「よるさん、おはよう。ゴハン食べようね」
はよはよ、と言わんばかりに頭をぐりぐりと押しつけ急かされながら顔を洗う。
よるさんは、職場の駐車場に迷い込んでいた仔猫で、うちに来てもう二度目の春を迎えた。青みがかった黒の艶やかな毛並みに、琥珀のような金色の瞳が満月みたいで、本当に夜のような猫だ。
「お待たせ、ゴハンとお水をどうぞ」
にゃうにゃう、と喋りながら食べるよるさんを眺めつつ、コーヒー片手にトーストを齧る。猫は食事を見られるのが嫌だとどこかで聞いたが、よるさんはそんなことはなく、いっしょにごはんたのしみましょうよ、とでも言っているかのように、優雅に美味しそうに食べている。
テレビ画面の隅っこに映し出された天気予報は晴れ。いつもの時間に流れる〝今日の星座占い〟は、ポップで明るい色合いに可愛らしいキャラクターが順位に合わせてしょんぼりしたり、にこにこしたりしている。昨日は何位だったっけ。覚えてないということは良くも悪くもなくそこそこの順位だったのだろう。
『今日のベリベリハッピーさんは~! 牡羊座のあなた! トーストにイチゴジャムを塗ると、もぉっといい事あるかもよっ!』
あと一口分のトーストを口に入れる前、可愛らしいキャラクターがぴょんぴょん跳ねながら一位の星座を発表した。
「よるさん、私、今日一位だって! でもトースト、バターにしちゃった。いい事くらいは起こるかな」
「にゃあ」
昨日は全く気にしなかった順位に、一位になったからといって、なんでジャムにしなかったんだろうと少し後悔する辺り、単純だなあと思いながらコーヒーを啜った。
朝のルーティンをこなし、「いってきます」とよるさんに挨拶をして職場へ向かい、仕事をして、「ただいま」と帰ってくる。そんなふうに黒猫のよるさんと穏やかに緩やかに暮らしている。
仕事は、事務用品を取り扱っている会社で総務経理部の経理課に所属していて、基本デスクワークの普通のOL。
今日も淡々と仕事を進めるつもりで席に着くと、
「おはよう。来て早々に悪いんだけど営業みんな出払っていてね、免許持ってるのきみしかいなくて」
と上司がすまなさそうに手を合わせて頭を下げてきた。
「おはようございます。はい、備品の補充ですね」
うちの会社では他の部や課の手伝いをすることが多々ある。このくらいの手伝いは何度もあって、銀行とはまた別の場所へ就業中にドライブできるのは気分がよく、楽しんでいたりする。さっそく一位の効果かな、と心の中でガッツポーズした。
助かるよ~、と言う上司の言葉に返事をし、駐車場へ向かった。本来担当するはずだった営業の社員が用意まで済ませてくれているとのことで、社用車に積まれた荷物と、クリップボードに挟まれた書類で届け先を確認した。
「雄英高校、ね」
雄英高校は小高い山の上に建っている有名国立高校。うちのお得意様だ。ちなみに会社はその麓の駅近くにある。
何度行っても厳重なセキュリティと広大な敷地に驚く。来客用の駐車場も広く、最初は迷子になるかと焦ったほどだ。
「おはようございます、事務用品の補充に参りました。福猫堂の
◇◇です」
事務室兼職員室の入り口で挨拶をすると、いつもなら華やかな女性、誰もが知っているヒーロー、ミッドナイトが「はあい」と駆け寄ってきてくれるのだが、現れたのは初めて見かける男性だった。
黒髪でウェーブがかったようなぼさぼさの長髪に無精髭、ヒーローのコスチュームなのか、黒いツナギを着ていて黒いブーツを履いている。特徴的なものといえば、首元から肩にかけて灰色の細長い布のようなものがぐるぐると巻かれてあるくらいで全体的に黒かった。身長は頭ひとつ分以上も高く、顔も髪と首に巻かれた布で隠れているため、表情が読みづらい。そのせいか、少し怖く近寄り難い印象を受けた。
「ありがとうございます、運ぶの手伝います」
コピー紙やトナー、ファイルなど、その他諸々の備品で山積みになった、私がふうふうと一生懸命押してきた重い台車を、軽々と運ぶ。
両手の塞がった彼に代わり引き戸を開ければ、備品室には窓はないようで薄暗った。先に入った彼が入り口横のスイッチをカチリと押す。紙やインクのひやりとした清潔そうな匂いと、湿っぽい段ボールの匂いがした。
「事務用品はここです」と案内された一画で発注書と台車に乗っている備品を確認しながらしまっていく。天井近くまである棚は、私の身長では脚立を使ってもギリギリで困っていると、「俺がやりますよ」と補充まで手伝ってくれた。
頭からつま先まで真っ黒な彼が、しゃがんでは立ってを繰り返し、長い腕を伸ばす姿は、よるさんがおもちゃで遊ぶ姿と重なって、なんだか大きな猫のようで可愛いと思った。不覚にも口が緩んでしまい、ふふ、と声が漏れてしまった。口元をクリップボードで隠した時には既に手を止めた彼が私の方を向いていて、どうしようもない状況だった。
「どうかしました?」
「あ、いえ、すみません」
これでは失礼すぎる。
まず謝って説明して、説明ってどこから? いや、猫みたいとか可愛いとか言われても困るだけだ。刺さる視線と、シンとした備品室に焦り、考えがまとまらない。無言はだめだ、何か、何か言わなければ。
「え、っとですね、うちに黒猫がいまして」
「……猫、ですか」
突然始まった猫話に強面の彼は、きょと、と鋭い三白眼を見開いた。
「はい。その、猫に似ていて、伸びる姿とか。つい思い出してしまいまして」
まとまらないまま出てきた言葉は案の定しどろもどろで、話せば話すほど墓穴を掘っていく。最初にしっかり謝るべきだった、と自分の情けなさに泣きそうになる。
「初対面の方に……失礼いたしました……本当に、申し訳ございません」
膝に額が着くほど身体を折りたたんで謝罪をした。
「いえ、俺、猫好きなので。頭上げてください。そう言えばおたくも猫つきますよね、社名」
彼は最初こそ近寄りがたい印象だったが、怖い見た目とは裏腹に、声色も物腰も柔らかく威圧感なんてものは一切なかった。面倒そうな雰囲気や空気も感じさせず、重いものも高いところのものもテキパキ無駄なく動く姿に感心していた。たまに聞こえる「よいしょ」や、「これですか」「はい」などの短い受け答えを聞くたび、緊張が緩んでいったのだ。だからといって、失礼な思いをさせてしまうのは社会人として、というより人として未熟すぎる。
「は、はい。私も猫が好きで、就活の時ここだ、と思って決めました」
縮こまっていく心と一緒に丸まっていく背中に降ってくる声は、とても柔らかくてすこし焦っているようにも感じ、申し訳ない気持ちを残しながらも急いで顔を上げて返事をした。首に巻いた布のようなもので口元は見えなかったが「ははは」と小さく笑う彼の、薄く伏せられた目と下がる眉尻に、どきりとしてしまった。
その後の事はあまり記憶になく、いつの間にか作業が終わっていた。
「手伝ってくださり、ありがとうございました」
「いえ、ご苦労様でした」
「先程は、大変失礼いたしました」
「いや、気にしてないので、もう謝らなくて結構ですよ」
納品書と受領書にサインをもらい、お礼を言うと、空になった軽い台車を自分の方に少し寄せる。「それでは失礼いたします」とお辞儀をし、顔を上げた。それでも彼の顔は随分と上にあって見上げた時、「そういえば、黒猫の名前、なんて言うんですか?」と彼が聞いてきた。一瞬驚いたが、気まずくならないための心遣いかと、最後まで気を遣わせてしまったことに、ちくりと胸が傷んだ。
「よるです。朝昼夜のよる、から付けました。私はよるさん、と呼んでます」と答えると、「黒猫だから夜か。いい名前ですね」と言って、猫背気味の背中を軽く曲げ、「では」と職員室の方へと戻っていった。
社用車に戻って荷台に台車をしまい、受領書を挟んだクリップボードを助手席に置く。鍵を挿し、シートベルトを締める。手元近くにあった受領書のサイン欄に目線が引き寄せられた。真っ直ぐに押された印鑑が浮かんで見える。
三十分程の時間だった。色んな感情で忙しくてあっという間で、濃い三十分だった。
「あいざわ、さん」
あの真っ黒で、猫みたいな、よるさんみたいな男性は、相澤という名前らしい。
「相澤さん。相澤さんは猫好き」
『相澤さん』
心の中でもう一度彼の名前を呼ぶ。すると、ふわ、と胸が浮くような感覚がした。
会社に戻れば上司が、「助かったよ~」と行く前と同じ口調で出迎え、一気に現実に引き戻された。
「今日は相澤さんだったのか、珍しいね」
受領書に目を通した上司がぽつりと呟く。
「相澤さん、ご存知なんですか?」
僕もあまり詳しくはないんだけどね、と上司が教えてくれたのは、相澤さんはあの高校の教師でプロヒーローだということ。私は、へえ、と相槌を打ちながらあの気遣いや物腰の柔らかさに納得していた。
「よるさん、ただいま~」
アパートの内階段を登り、ガチャリと玄関を開ける。定位置に座り、お出迎えしてくれていたよるさんの頭を撫でると、にゃうにゃう、と擦り寄る身体に癒され、帰ってきたことを実感する。無意識に強張っていた全身がほろほろととけていくようだ。
今日はいつもの淡々とした一日とは違って波のある一日だった。
お風呂に入って軽く夕飯。カフェオレとお菓子をつまんだら、よるさんとの触れ合いタイム。よるさんの好きなネズミを模したおもちゃがついた紐をぷらぷら揺らせば、眼をまんまるにさせて猫パンチを繰り出す。ちょいちょいと動くもふもふの愛らしい手に顔が緩んでしまう。
「よるさん、かわいいねえ、美人さんですねえ」
ひと通り遊ぶとよるさんは膝の上に乗ってくる。ふわふわなお腹を撫でながら一日の話を聞いてもらうのも日課の一つだ。
「今日ね、よるさんみたいに真っ黒な人に会ったんだー。屈んで伸びる姿がよるさんみたいでかわいくてつい笑ってしまってね……失礼なことしちゃった」
しっぽをぱたりと動かし、ふすう、と鼻息を出す。
「最初怖い人かと思ったけど、全然そんなことなくて、笑った時の目が柔らかくてね、猫が好きなんだって。あと先生で、ヒーローなんだって」
お腹をひと撫で。
「空気感がホッとするというか、気遣いとか丁寧でね。さすがヒーローだよね。それでね、相澤さん、って名前なんだって」
よるさんは返事をしているみたいに、ふすう、と鼻息を鳴らす。
「相澤さん、かあ……もう少しお話してみたかった気もする。いやいや最後のあれは気遣いだってば。やっぱりトースト、イチゴジャム塗ればよかったな」
また、ふすう、と鼻息を出すよるさんのお腹に顔を埋める。
思い出すとやっぱり、ふわ、と胸が浮く感覚がした。