後悔、桜、雪のあと
「消太くんはさ、私の話全然聞いてくれなかったよね、でも好きだったよ、ばいばい」
付き合って2年、半同棲のようにだらだらと住んでいた俺の家を、彼女はそう言って出て行った。
玄関の床が氷のように冷たい、冬の、雪が静かに降る朝のことだった。
うまくいっている、とも思ってはいなかったが、別れるほどではないと思っていた。
少し空いたドアの閉め忘れ、カーテンの隙間、キッチンに並ぶ空き缶、つけっぱなしの電気。
それらはいつの間にか閉まっていたし、無くなっていたし、消されていた。
「次から気をつけてね」
そう言う彼女にうるさいとさえ思っていたのに、聞けなくなると寂しいと思ってしまうのはなんて自分勝手なんだろう。そして、また聞きたいと思うのは、未練というものだろうか。
閉めて、捨てて、消せば彼女が戻ってくるわけでもないのに、今更それをやって、時折流す彼女の涙を思い出していた。
「次の春こそ、桜一緒に見ようね」
いつだったか彼女がひとりごとのように呟いた言葉が、輪郭のない風に乗って入ってくる。
足が、自然と川沿いの桜並木へと向かっていた。
幅の狭い小川の河川敷には菜の花が揺れ、その上には溢れんばかりの桜が垂れていた。
この景色を、俺と一緒に見たいと言ってくれたのかと、年甲斐にもなく目頭が熱くなった。
視界を歪ませた後悔が見せた幻影の隣はもう空いていなくて、そんなもんだよな、と人の流れを逆行した。
しばらく泣いたら、忘れることができるだろうか。
✽✽✽
忙しいのを分かった上で付き合った。
会えないのも、約束がだめになるのも、平気だと思った。彼の気持ちが私にあるなら、平気だと。
貰った合鍵は宝物だった。
これでいつでも彼に会える。待っていれば、彼が帰ってくる。嬉しかった。
でも一緒に過ごす時間が増えると、平気だと思っていたことが苦しくなっていった。
「次の春こそ、桜一緒に見ようね」
合鍵を貰ってすぐの春、薄暗い部屋で布団に包まる彼の背中に、窓の外の薄い水色の空を眺めながら言った。
くぐもった短い返事は聞こえたけれど、それは「わかった」でも「そうだな」でもなかった。
その証拠に叶うことはなかった。
いいよ、言ってみたかったひとりごとだし。
もしかしたらもう気持ちもないのかもって考えるようになって、疲れちゃった。勝手でごめんね、私、欲張りになったみたい。
追いかけてこない彼も、彼らしいなって、ひとりになって笑った。雪の日だった。きれいで冷たくて、笑った。
ねえちゃん、そこ、アヒルいる、という弟の声で横を向いた時だった。
ピンクや黄色、黄緑に水色と春の淡い景色の中、真っ黒の丸まった背中が見えた。
足が、自然とその黒を追いかけていた。
「消太くん……?」
あ、と振り返った彼の目は赤くて、涙のあとがあった。溶けかけた雪うさぎみたいだった。
「久しぶり、でもないか。珍しいところにいるね。お仕事?」
「いや、おまえが言ってたの思い出して、今更」
居心地悪そうにぼさぼさの髪を掻いて、ポケットに手を突っ込んだ。
彼は、私を思い出して桜を見に来た。そう思うと、たったそれだけで嬉しくなった。まだ好きだったから。
✽✽✽
「消太くん、私の話聞いてたんだ。ふふ、早く知りたかったな。じゃあ、人待たせてるから」
「今度は幸せになれよ、俺が言うのもおかしな話だが」
「私に気づいてたの?彼氏はいないよ、あれは弟。もしかして勘違いして、泣いてたの?」
「いや、ちが、その、違くない」
向き合う二人が、次こそは、と気持ちを確かめ合うのもそう遠くないと、桜は見ていた。
✽a/i/k/oのハ/ニー/メ/モ/リーを聴いて、未練のある相澤を書きたくて、書きたかったところだけ。
write 2024/2/2