奇跡でも
彼の背中越しに見えた女の人が流した涙はきっと私と同じ味なのだろうと、勝手に唇を噛む。
アングラのくせに、いやアングラだからか、コアなファンがつく。路地裏のやや奥まった薄暗い場所で可愛らしい手紙を渡されているのを見たのは、これで何度目だっけ。道端で適切な距離を取ったファンから黄色い声を浴びているヒーローのデレッとした顔の方がよっぽど健全的に見える。いや、その対比を遠巻きに見ている私が言えた義理ではない。
「イレイザー、また女の子泣かせてたでしょ。ファンは大事にしなよ」
「ファンだったら泣かないだろ」
相澤は、優しい。見た目とのギャップもあってか、助けてもらった人の落ちた先が恋だった、というのが相澤には多いのだ、多分。私もファンじゃないから相澤の優しさに、ひっそりと泣いたことがある。ぬるくて、しょっぱくて、まずい。もう今度こそ、やめようと思うほどに。
「それにしても、どうやったら毎回泣かせることになるの」
「真実を告げてるだけだが。変に嘘をついても拗れるだけだしな」
ほら、昔ヒーロー基礎学で習っただろ、いかなる時も市民には誠実であれって、と至って真っ当で根は真面目な彼らしい言葉が返ってくる。見てしまった後のすさんだ私には嫌味のように聞こえてしまうのだけれど。
「だからってねえ。いつか書かれても知らないから」
「あれでか? 根も葉もない記事書かれたところで痛くも痒くもねえよ」
その前に俺なんかを追う奇特な記者居ねえだろ、と彼は興味なさげに、ため息混じりに呟いた。
ヴィランの引き渡しも済み、安全が確保され規制も解除されれば後は警察へとバトンタッチ。ヒーローの速やかな退散こそ混雑を避けるために必要な場合もある。ファンレターを大事そうに抱えサインを書いている、この辺りで事務所を構えるヒーローを横目に現場から去る。お人好しな彼は、去り際を見失ってしまったようだが、これこそが真っ当なヒーローのファンサービスというものだ。
「付き合ってる人がいるとか、結婚してるとか?」
「そう見えるか?」
「違う、断るときの」
「……ああ。それだと嘘になるだろ」
「嘘をつかないなんて、相澤は優しいね」
相澤が可愛らしい手紙を渡す女の人たちにどんな真実を告げたのかはわからないが、これ以上深入りすると墓穴を掘ってしまいそうで、やめた。
こんな私でも一度だけ相澤に告白しようとした時がある。一年の体育祭が終わった頃から徐々に人気が出てきて焦ったからだ。
断らなかった手紙の束を見るたびに、告白だとわかるだろうに誘われれば行ってしまう後ろ姿を見るたびに、ずっと胸がざらざらと気持ちが悪かった。私も、彼女たちのように気持ちを伝えることができれば、この苦しさも気持ち悪さもなくなるのだろうか。そう思って彼女たちと同じことをしようとした。けれど、ポケットに入れた手紙はスカートの上から握り潰した。
私は相澤の気持ちを知らないからこの距離でいられる。そう気付いてしまったから、やめた。
それは今に至るまで。
「へっくしょんっ!」
午後全てのコマを使って行っていた授業の休憩中。
今日は街を模したグラウンドβを使い、各班に分かれ連携を取りつつ要救護者を捜し、適切な処置を施すという災害やヴィラン襲撃による損壊を想定しての訓練をしている。座学後は必ず実践させるというのが雄英のやり方。結構抜き打ちもあったりするけれど、まあそれも将来を見越してという第一線で活躍している先輩方の有難い教えだ。知識は必要だが、実践となれば判断力や応用力が試される。それはやはり場数を踏むしかない。教科書通りにはいかないのが現場というもので、苦戦している生徒たちもちらほらいた。
評価をするべく駆り出された私は、北風が強く吹き抜ける寒空の下、モニターのある高台で他の先生方と意見を交わしていた。
「豪快なくしゃみだな」
「座ってるだけだからね、寒い寒い」
相澤が腕を組んだまま、こちらを覗き込んだ。
割り切ってしまえそうなところまできたからか、若い頃ほど動揺しなくなった。
細い路地で可愛らしい手紙を渡される背中を幾度か見たあの頃から時は経ち、私たちは教師として再び雄英の地に立っている。ひとはそれを腐れ縁だと笑うが、何が嬉しくて何が悲しいのか私にはわからない。あれを見なくて済むのかと少しだけ胸がすく思いをしたのも、雄英生に代々伝わる有名な告白スポットの前をうっかり通って、忘れかけていた十代の苦くて甘くてざらりとした気持ちを砂利と共に蹴ったのも、もう何年も前。
雄英に来てからも女性ヒーローに誘われているのを見かけることはあったし、やはり距離の近いファンもいて、モテないわけではないのに、今やるべき事だけで手一杯だとか言って更にそのガードも堅く、色んな意味で教師の鑑みたいなやつになった。
それに安心したのか、慣れてしまったからなのか、「どうして」と聞くこともなくなってしまった。いや、相澤が居てくれるだけでいいと思うようになったからかもしれない。語り尽くせないほど長い年月を共に過ごした中には、相澤に会えなくなってしまうのではと過ったことが何度もあったからだ。
「休憩中これ預けとく」
一瞬視界が遮られ、次に肩へ程良い重みと温かさを感じた。
「え、これ捕縛布……? 意外とあったかい」
「だろ、冬仕様だ」
軽口叩く時の、ニヤリとした顔にいまさらドキッとしたりはしない。けれど、じんわりとくる優しさはたまらなく嬉しいと思う。
以前にも捕縛布を借りたことがある。その時は寒さではなく、私のコスチュームが裂けてしまったからだった。よくあることだし腰回りだけだったのに、その格好では歩きづらいだろ、と一部を切って巻きつけてくれた。お礼を言いつつも、捕縛布って結構な長さなんだね、と笑って話をした、いつかの遠い冬。
「ありがと、ちょっとだけ借りるね」
どうぞ、と言いながら風に靡くコスチュームの襟を整える姿を見て、あの時の捕縛布はどうしたんだっけ、と更にその冬の記憶をたどる。
物思いにふけていると五分休憩はあっという間で、次の班がスタート地点へ着く合図の前に捕縛布は返した。ありがとう、ともう一度お礼を言うと、少しは風凌げたか、と言いつつ捕縛布の位置を調整して口元を隠す。少しだけ甘酸っぱい記憶に触れたからか、私の髪から僅かに相澤の匂いがしたからか、その仕草に久しく胸が高鳴ってしまった。
下校時間も過ぎ、薄暗くなってきた頃。残った仕事をもう一段落つけたくて眠気覚ましに中庭のベンチで風に当たっていた。
仕事中だからと慌てて蓋をした気持ちはどんな感じだったかとふと思い出し、髪をひと束掴んで嗅いでみる。相澤の匂いはしなかったが、蓋は簡単に開いてしまった。
もうまずい涙を流すのは嫌だったのになあ。私はこの気持ちを一体どうしようと思っているのだろう。諦める気も更々ないくせに。
「へ、へくしゅん! うー、日が落ちると寒さが増すなあ」
「おい、風邪引くぞ」
「ん? 相澤」
何処かで仮眠をとっていたのか、私が座っていたベンチ横の渡り廊下に寝袋を持った相澤がいた。
「午後の訓練で冷えただろ、何でまたこんなところに」
「ちょっと眠気覚ましにね。終わらせたい仕事がひとつあったから」
「まったく。寒がりなくせに」
だからだよ、と言うと、冷えすぎても眠くなるだろ、と返された。
あーあ、こんな些細なことを覚えてくれてただけで嬉しいと思っちゃうなんて。上手く押し込んでいたのになあ。やだやだ。
「それは対策済みです」
珍しく時間を気にすることなく隣に座った相澤へ、横に置いていた水筒を持ち、見せつける。と言ってもなんの変哲もない普通の、ボタンを押せば蓋がパカッと開くタイプのステンレスの水筒だ。
「水筒?」
「そう、あったかい緑茶入ってるの。いる?」
「いる。じゃあ代わりにこれ」
相澤は捕縛布を脱ぎ取って、雑に私の頭へズボッと通した。え、と驚く私を他所に水筒を奪い、蓋を開けて水でも飲むかのようにごくごくと温かい緑茶を飲んでいる。
一日に二回も借りてしまった。風が凌げて温かいのはもちろんなのだけれど、残っている相澤の体温の方が温かいから困る。
「熱くない? 美味しい?」
「ん、んまいよ」
「冬仕様の捕縛布、あったかいね」
「合理的だろ。……ふっくしっ!」
「相澤のくしゃみ可愛い」
「うるせ」
生徒のいない学校は静かだ。そびえ立つ校舎で切り取られた空を見上げれば、薄紫の雲がゆっくりと橙色の方へ流れていく。
「ふふふ、その喋り方昔の相澤みたい。そういや、うんと前にもさ、捕縛布借りたときあったじゃん、私のコス破れたとき。覚えてないか」
「覚えてるよ」
「え、ほんと? あの時、事務所に帰って着替えた後、捕縛布どうしよって思ってさ。相澤に連絡したでしょ?」
「ああ」
「返す前にちょっと投げてみたりしたんだよね」
「はは、何してんだよ」
「この布がさ、シューッて飛んでくのよく見てたから、やってみたくなったの」
「できた?」
「ぜーんぜん」
「だろうね。……なあ」
「ん? なあに」
「いや、なんでもない」
「えー、何、気になるじゃん」
「一緒に帰ろうって言おうとしただけだ」
「そんなこと言わなくてもいつも一緒に帰ってるでしょ」
「だから言うのやめたんだよ」
流石に寒い、戻るぞ、と立ち上がって腰を伸ばす。私は、うん、と言って捕縛布に触れる。
何だろう、この息苦しくて泣きたくなるような、胸の内側を撫でたくなる感じは。キンと冷えた空気は何も揺らさなくて軽く耳鳴りがする。夜になる手前の、物悲しい時間。会話が弾んだからかな、もう少しだけこのまま相澤とここに居たい。
捕縛布に埋まって動かない私の手を相澤が掴んだ。
「ほら、手、冷たくなってる」
「……うん。捕縛布、ありがと」
何も変わりたくないのに、このままでいたいのに、無防備なこころに触れられてしまったからだろうか、何かが変わってしまう予感がした。溢れない程度に滲んだ涙にはどうか気付かないで。きっと、まずいから。
元々人通りの少ない雄英周りは夜になるとさらに静かで、等間隔に灯る街灯がよく見える。ひとつ、またひとつとそれを横切るたびに白い息が不規則に、けれど心地よく流れていく。
「意外と遅くなっちゃったね、ごめん」
「いいよ、俺も片付けたい仕事あったし」
駅まで続く歩道は真っ直ぐで、会話をするにはちょうど良い。無言で歩くこともあるけれど、今更それを気を遣う距離感でもない。
それに今日の夜空は綺麗だ。月明かりが眩しい。
「相澤ってさ、ほんと優しいよねえ」
私の左側を歩く、私服に捕縛布というどっちつかずな格好をしている相澤を歩きながら見上げる。
慣れない頃は「右側に立ってくれるな」と言われもしたが、「おまえはそういうやつだよな」と相澤は笑った。私が怒っていたからだ。
「あのなあ、」
鼻先まで覆っていた捕縛布を指先で下げ、ほうと白い息を吐いた。寒さに顰めていた眉が、ふと緩み、呆れ顔がこちらを向く。
「俺のこと優しい優しいって言うけどな。そのおまえが見てる俺の優しさってのは、誰かにとって都合の良いようになるための行動であって、それを向けられた誰かにとっては優しさではないんだよ」
「え、どういうこと?」
どちらともなく歩みを止めた。それなのに、鼓動は速まっていく。
「……ポケットの中の手紙を俺にくれよ、ってこと」
会話が途切れる。隠そうと微塵も思ってもいない真剣な、見たこともないほどに深みを増した三白眼が私を見ている。
「何で、知ってるの……?」
素直に聞くにはたくさんの言葉を飲み込み過ぎてきた。
聞くのがこわかったから。
側にいられなくなるのがこわかったから。
長く心の準備も出来ないほどに、大事で、大切で、特別で。
「渡せないほどのもんを持ってて隠されちゃ、待つしかねえだろ。俺だって嫌だったんだよ。おまえが近くにいないのは」
「そんなの、わかんないよ」
「そろそろ何で俺がおまえの側に居続けているか気付いてもいい頃なんじゃないか。俺は器用な方じゃないんでね、誰もは優しくできないよ」
「そんなの、わかるわけ、」
「わかって欲しくて、言った。もうおまえの気持ちが俺と同じでなくても、これだけ一緒に居たんだ、それは今更変わりないだろ?」
「……一緒。私も相澤と同じだよ。同じ気持ちだし、これからもずっと一緒に居たい」
相澤は、「よかった」と一言言って、またゆっくり歩き出した。
残りの帰り道を惜しむかのように緩やかに進む脚は、お互いの言葉を反芻する。一歩ずつ噛み締めて、実感する。
夜になる手前、あの時、触れた手から、変わりたくないと願う気持ちのどこかでどうしようもないと思っていた私と、どうしたって変わらないのだからと思っていた相澤の何かが繋がってしまったのだろうか。奇跡でも起きたのかと頬を抓りたくなる。腐れ縁、と言われた時より上手く笑えそうだ。
「えっと、今日からよろしくお願いしますってことでいいのかな」
「ああ、こちらこそ」
「友達期間が長いからかな、どうしたらいいのやら」
「俺は早く次に進みたいね、もう待つのはごめんだ」
相澤の冗談に笑えば、溢れんばかりに溜まっていた涙が頬を伝った。ぬるくて、しょっぱかったけれど、まずくはなかった。そのまずくない涙を相澤の袖が雑に拭う。
「じゃあ、」
私たちはとりあえず、手を繋いで帰ることにした。
手紙は明日、渡すことにしようと思う。
write 2024/12/14 イベントにて展示