アプリコットの香りの間で
あ、と言って立ち上がり何処かへ行った彼女が帰ってこない。
ふと思い出した用事のようだったからすぐに戻ってくるだろうと思っていたが、気に留めてから十分ほど経っている。
「……ふう」
「ここに居たのか」
「あれ、消太くん」
「なかなか戻ってこないからどうしたのかと」
「シャンプーの詰め替えがね、苦手で」
細い切り口から粘度の高いシャンプーをね、これまた細い口に差し込んで入れるのが難しくて。というか切るのが下手なのかな〜でも手で簡単に切れるって書いてあるし。もー、全然出ないからここをこう良い感じに指でスライドさせて軽く押してやると出るっていうのをさっき発見して、と半分も満たしていない容器の中に細くゆっくりと垂れていくシャンプーを真剣に眺めつつ彼女が言う。
「届いてたのにすっかり忘れてて。これいい匂いだよね〜髪質に合ってて朝もパサついてないし」
詰め替えに時間が掛かっているからか、洗面所にはふわりと甘い果実のような匂いが漂っている。
「俺もこの匂い好きだよ」
「ね〜いい匂い」
「そういえば昨日、生徒にシャンプー何使ってるのか聞かれたな。そんなに匂うか、これ」
長かった時ならまだしも、短く切った今の髪では確かめようがない。特にこだわりもないが。
「ふふ、消太くんも同じの使ってるもんね。すれ違った時とかいい匂いしたんじゃない?」
彼女が絶妙な力加減でパウチを押すと、水飴のように、とろりとろりと流れ落ちていく。やっと半分といったところか。
「そんなもんかね」
「そんなもん、そんなもん。ヒーロー志望だし、身だしなみはこだわる子多いんじゃない? で、教えてあげたの?」
「いや、それがついうっかり嫁と同じやつって言っちまって、うるさいのなんの」
「え〜、今年の生徒さんたちに言ってなかったんだ」
「わざわざ言う機会もねえしな」
「それでもついうっかり口を滑らせちゃう消太くん可愛い」
「可愛かねえよ。染み付いてるだけだ」
くすくすと小さく笑う彼女の頭に擦り寄れば、頬を掠めた自分の髪と同じ匂いがする。確かめよう、あったな。いや、彼女の方が頭皮に近い分体温でより甘い匂いがした。
「そういうのをね、可愛いって言うんだよ〜。あ、やだ、押したら溢れちゃう」
慌てて切り口を指で摘んだ彼女と鏡越しに目が合う。お互いずっと手元を見ていたからか、妙に気恥ずかしかった。
「時間かかりすぎやしないか?」
「だから苦手なんだってば。入れ終わるまで一緒にいてくれる?」
「ん、いいよ。代わろうか?」
「んーん、一緒にいてくれるだけで大丈夫」
広くもない洗面所で、相変わらずゆっくり、とろりとシャンプーが容器に満たされていくのをふたり眺めている。
散歩がてら近所のパン屋にでも行こうと話をしながら。
write 2024/12/9