何気ない日々の中で
六歳になる娘が、ひとりで寝たいと言った。
来年四月には小学生になるから、とおもちゃでいっぱいだった部屋を整え始めた夏。あまり早いと後からお友達の話を聞いて一緒がいいと言ったり、お店で他に魅力的な机やランドセルに出会ってしまう場合があるのでゆるく始めた一年生の準備。
そんな夏休みの週末、今まで寝室で川の字で寝ていたのに、「もうお姉さんだから」「ひとりで眠れるから」と言った。園から貰ってきていたランドセルのフライヤーや冊子を広げ、色とりどりのおしゃれなランドセルを眺めていた時だった。寝つくまで私か夫が隣にいないとだめな甘えん坊な子が、と心配した私は「本当にひとりで眠れるの?」と口から出そうになるのを慌てて飲み込んだ。なぜなら娘の瞳は凛々しくキラキラと眩しいほどに輝いていたからだ。隣にいた夫、消太さんも驚いたような今にも泣き出してしまいそうな複雑な顔をしていた。
ついこの間まで赤ちゃんで、ふにゃふにゃのほわほわで小さかった娘は、こんなにも自信に満ち溢れた表情ができるほどに成長していた。まさに今、ひとつ彼女の成長を目の当たりにしたそんな日だった。
ベッドや机が届き、娘にとって理想の部屋が完成した二週間後。
「今日お部屋で寝てみたいの。でもね、やっぱりちょっと怖いから電気つけたままでもいーい?」
自分だけの机やベッドに喜んだのも束の間。少し不安になったのか、けれどひとりで寝ると言った手前言いづらいようで、お父さん似の並行な眉の端を下げ、ぽそりと細い声で娘は言った。
「もちろん。隣の部屋にはお母さんたちいるからね」
うん、と小さく頷いたが、まだ言いたいことがあるようだ。いまだ下がった眉はそのままに私を見つめている。どうした? と聞いてしまうのは簡単かもしれない。先回りと手を差し伸べるべきタイミングの見極めが難しく、夫と違って私はこの辺りの駆け引きがどうも苦手だ。けれど、今回は娘のプライドを守るためにも自ら話してくれるのを待ったほうがいいように思う。
何度かもじもじと指先を揉んだ後、「お母さん?」と控えめに私を呼んだ。
「あのさあのさ、初めてだしどきどきするからさ、最初はお父さんと寝てもいいかなあ」
「ん、お父さんに聞いてみよっか」
「うん! わたし聞いてくる!」
僅かにホッとしたような顔をして大きな声で「おとーさーん!」と叫びつつ廊下を走って行った。小鳥の鳴くような可愛らしい弾んだ声と、穏やかで優しい木漏れ日のような声が廊下の先の夫の部屋から聞こえて、厳しいけれどなんだかんだ甘い消太さんは娘のお願いを二つ返事で承諾したのだろうと私も頬が緩んだ。
「じゃあお母さんにおやすみしようか」
「うん! お母さん、おやすみ!」
「おやすみなさい」
普段の就寝時間より三十分早く、二人は子供部屋へ向かった。夫の小脇には娘お気に入りの絵本が五冊、娘の腕には大事にしているぬいぐるみが三体、ぎゅっと抱えられていた。赤ちゃんの時から一緒のどことなく消太さんに似ている黒猫さんと、誕生日に買ってもらった最近ハマっているキャラクターと、大好きな山田くんから貰ったプレゼント・マイクのぬいぐるみ。「マイクもか?」と聞く消太さんに娘は「ひぃくんいつも面白いから」と答え、「まあ、そうだな。そうだよな」と、うーんと目を瞑り自分を納得させていた消太さんの姿に、申し訳ないが少し笑ってしまった。
「眠るまで隣にいてね、約束だよ」と囁かれていた夫は、「もちろん」と娘の頭を撫でた。
ぽそぽそと聞こえる絵本を読む声は、きっと教科書を読み上げるそれよりもゆったりで、隣の寝室で本を読んでいた私の眠気も誘った。読み終わったであろう何度かの間と、娘のくすくす笑う声や話し声が聞こえ、やがて静かになった頃、消太さんが寝室へやってきた。
「眠ったよ」
「ありがと、どうだった?」
「ああ、大好きがいっぱいだから大丈夫、だってさ。狭いベッドって揺らさず出るの難しいな」
そう言って私の隣に座った。私ものそりと座り直す。
「ふふ、そっか。もう赤ちゃんじゃないから寝入っちゃえば朝まで起きないよ」
「それもそうか。置いたら泣いてたのにな」
「高性能背中スイッチだったのにね、懐かしい」
重かった瞼をとじ、羽のように軽かった娘のあの日を映す。
「ついこの間、産まれたのに」
「ついこの間、歯が生えたのに」
「ついこの間、お話始めたのに」
「ついこの間、歩いたのに」
六年も経つのに、たくさんの〝ついこの間〟で埋め尽くされ、目頭が熱くなる。もちろん可愛らしい初めてだけではなく、拒否られる毎日に、追いかけられる毎日、言葉が通じずお互い泣いた日だってあったし、ところ構わず転がっては泣き叫び意思を通そうとする娘を抱えて帰った日だってある。私たちの中ではまだどこかからだもこころも幼い彼女が居て、訪れたひとつの親離れに心の準備ができていなかったようだ。
「俺たちもまたひとつ、成長したってことかな」
ズズッと鼻を啜った消太さんがぽつりと溢した。
「だね、娘に育ててもらってるね、私たち」
「ああ、本当に。そろそろ風呂も一緒に入れなくなるんだろうな。それが過ぎればお父さんのパンツと一緒に洗濯しないでとか臭いとか言い出すんだろうな」
「消太さんもそんなこと考えるんだね」
「そりゃあね。構えていてもショックは受けるな、確実に。抱っこって来てくれるのも今のうち、か」
ぼふんと横たわった消太さんは感慨深げにぼんやりと天井を眺める。私もまた横になった。娘一人分空いただけなのに、ベッドはやけに広く感じた。次の親離れはなんだろうか。友達だけで遊びに行くとか、一人でお買い物をするとか? その前にひとりで登下校をするのか。手を繋いでしか歩いたことのない道を、大きなランドセルを背負って。小学生になれば娘の世界は今よりももっと大きくなるだろう。また新たな反抗期を迎えるんだろうな。その心構えもしておかなければ。
「ね、ちょっと先になるとは思うけど、娘が彼氏連れてきたら?」
「気にはなる、が、健全に付き合ってるなら目を瞑る。あれだけ可愛くていい子なんだ。モテないはずがないだろう」
まあ確かに小さい頃から遊び相手は山田くんや消太さんの教え子であるプロヒーローたちで、たくさんの優しさや強さに触れてきた子だし、なにより娘が好きになった人なのだから信じられる、というのは私も消太さんと同意見だ。同意見だけれども、消太さんは意外や意外、〝大事な娘をおまえにはやらん〟な厳格な父親タイプかと思いきや、だった。
「消太さんは親バカタイプでしたか」
「信じているんだから当たり前だろ」
「そうね、うん。うん、消太さんらしいや」
私たちが眠る前、そっと娘の部屋を覗いてみたが、大好きに囲まれてすやすやと眠っていた。手脚が伸び、すらっとしてきたが寝顔はまだまだあどけない。私はちらりと見えていたおへそをしまって、消太さんは薄手の毛布をお腹へ掛け直す。消太さんがしっかりと向き合い話をしてくれたようで、ライトは柔らかいオレンジの絵本が読めるほどの薄暗い明るさになっていて、瞼をとじても透ける光は優しかった。
寝室へ戻り布団に潜り込んだが、やはりベッドは広く感じて寂しく、なかなか寝付けなかった。それは消太さんも同じだったようで、私たちはまたこそこそと話始めた。
「さっきの話だけどさ、お父さんっ子だから多分言わないんじゃないかな」
「んー、いや、俺にじゃなくてもおまえには言うかもしれんだろ。それに結婚したいって初めて言ったのも相手山田だぞ」
「消太さん、あの時ショック受けてたもんね。予防線を張るには十分だね」
「だろ。傷ついた顔見せたくないんだよ」
「あんなにポーカーフェイス得意だったのにね」
「誰かさんと長く一緒にいるおかげで俺も表情筋が鍛えられたよ」
その誰かさんは私だ、と言いたげに消太さんはこちらを向いて緩やかに口角を上げた。しばらくぽつぽつと話しているうちに眠気がやってきて眠った。
次の日、早起きした娘の「お父さん、お母さんおはよう!」と言う元気な声で目が覚めた。眉間に皺を寄せて、うーんと唸っている消太さんを娘がお父さんお父さんと言いながら揺すって無理やり起こしている。いつもの日曜の朝の光景だ。
「お父さんおはよ! ねえ、私決めたの。ランドセル、お父さんと同じ黒にする!」
「……くろ……。いいのか?」
寝起きでまだぼんやりしている消太さんは、重そうな瞼をしぱしぱと瞬かせながら「本当に?」「夢か?」と呟いて、そのたびに娘も「ほんと」「もう朝だよ」と律儀に返事をしている。
「もう! あんまり言うと黄色にしちゃうよ、いいの?」
「参った。だんだんお母さんに似てきたね。黒いいよな、お父さんと一緒だ」
「でしょ!」
やっと頭も冴え、でろでろに緩みつつも微笑む消太さんと、ぎゅうっと抱きしめられた娘の笑顔はそっくりで、私はそのなんとも言えない幸せな光景をこっそり写真におさめた。
「朝ごはん、お父さんのシュガーバターパンがいい!」
「いいよ。甘いスクランブルエッグも作ろう」
「やったぁ!」
「朝から甘いね、甘くてほっぺた溶けそう」
「そんな日もあっていいだろ」
「ねー!」
また近いうち、〝ついこの間〟と思い返す日が来るだろう。そして思い出すのだろう、この数日の出来事を、甘い匂いとあたたかい体温と共に。
write 2024/9/17