8月、テイクアフター
「消太、水出しっぱなし」
そう言って彼女が左側に立ち、手を伸ばして蛇口のレバーを下げた。
さっき出した気もするが彼女が出しっぱなしというくらいなのだから暫く出ていたのだと思う。「考え事?」と鏡越しに顔を覗いてくる丸い目は僅かに愁いを帯びていた。確かに数えきれないほどの心配はかけたが、色々と落ち着いて籍も入れたし、彼女が気掛かりだったこともこの数年の間に一つずつ一緒に解決したと思っている。何をそんなに気にやむ必要がある、と問いたところでこれはもう彼女の性分なのだから仕方がない。それにそういうのは嫌いではない。俺の妻は心配性だが、後ろ向きなものではないからだ。
「いや、髭そろそろ剃ろうかとか、髪切るかとか考えてただけだよ」
「ほんと?」
「本当」
髭がない姿、数回しか見たことないよ、と彼女は少しだけ笑った。
「……髪、切ってくれないか」
「え、結ぶじゃなくて? 自分の前髪しか切ったことないよ、ちゃんと美容室行こうよ」
「どうも苦手なんだよ。頼む」
うーん、と唸ったあと、しょうがないなあ、と言った。苦手なのは事実だったが、彼女に切ってもらったほうが互いの為になる気がしたからだ。
髪については薄々考えていた。
今まで多少邪魔だと感じれば自分で適当に切っていた髪は、とうに伸び過ぎていたし右側を隠すには不自然だった。見えてしまえば、誰かの何かしらの傷が開いてしまうかもしれない。思い出すことも背負うこともしてほしくない。これは俺の傷だ。見えない方がいい。元々個性柄目元を覆うものとしても使ってはいたが、俺が出るような事件は今ではそう起こりはしない。だから余計に。
「私の前では隠さなくていいんだよ」と言った彼女は、それを気にする俺の髪を結んでくれていた。ほらこうすればとりあえずは不自然じゃないでしょ、と。努めて明るく、消太は優しいね、と。俺からすればどっちがと言いたいところだったが、その度に彼女の言葉に甘えた。
それを、鏡越しの、何も隠していない自分を見て、ふと思い出していたんだ。やはり水は出しっぱなしだったな、すまん。
「もし失敗したら美容室行ってね」
「大丈夫だよ。すぐ伸びる」
切り方の動画を何度も一緒に確認した。
彼女が自身の前髪を切るのに使っている散髪用のハサミが、ショキと軽い音を立てて摘んだ一束の髪を切った。5センチほどの髪が、パサ、と下に敷いた新聞紙やチラシの上に落ちる。二人ともそれを目で追った。俺は、なんとなくだった。
「やっぱり毛先、傷んでるね、ここ絡まってほどけないかも」
「いいよ、好きに切って」
「ん、でも全部今まで耐えてきた消太の一部だし。これじゃ結構短く、」
次に落ちたのは、彼女の涙だった。
「いいさ、髪なんかすぐ伸びる」
「それさっきも、言った。でもさ、そんなすぐには伸びないよ」
ぽろぽろ溢れた涙は、パタ、パタ、と落ち、俺の膝にも幾つか落ちた。ぬるかったが、すぐに冷たくなって気過熱で、すうっとした。
「重いな」
「それは、そう。重いの。いまさらだね」
「ああ、いまさら」
「知っててさせるんだもん、消太は優しいね」
彼女は腕で、ぐい、と涙を拭って、イシシと笑った。可愛いと思った。
「おまえほどではないよ」
髪は髪であって、伸ばしている意味も、切る意味も特にないと思っていたが、軽い音が、彼女の思いが、俺の心を軽くしていく。あの日、何の為にここに居て、何の為にヒーローをやっているのかの答えが、やっと、分かった気がしたんだ。長く影を落としていた。目の前にあるようでずっと見つからなかった、俺の、俺たちの原点。さよなら、と、ありがとうが言えた。
だから彼女に触れてほしかった。そう思う俺も相当な重さだな、と自身を鼻で笑えば、「消太が笑ってる」と彼女もくすくすと笑った。覗き込んだ彼女と目が合い、やわく下がった眉尻に、微笑む。
「ありがとう。終わったらメシ食いに行こう」
「え、やっぱり私、すっごく責任重大じゃない」
「ははは、信頼してる」
軽い音と笑い声が優しく響く部屋。8月の澄んだ青がいっぱいに広がっている。
未来は、明るい。
さあ、変わらず、前を向いて行こう。
write 2024/8/11