アイスの溶けぬ距離
彼女の家とは、さほど離れていない。
味噌汁が冷めぬ距離、と彼女に対して言うのは変な話だが、それほどの距離だ。アイスが溶けぬ距離と言えばそれっぽいか。まあ夜でもこの暑さだ、急がなければすぐ溶けてしまうが。
『しょたくん、はやくきて、てれびこわいのみちゃた』
慌てて打ったのか誤字に漢字変換無しのメッセージが届いたのは21時すぎ。元々彼女の家へ行く予定で、もう少しで家を出るところだった。買ったまま冷凍庫へ突っ込んだカップアイスの入った袋を引っ張り出し、家を出た。
彼女は、パニック系やゾンビ、ミステリー映画は観るのに、ホラーだけはダメらしい。特に邦画のホラーは無理らしく、夏によくある特集番組も、フィクション物も全部ダメで、その避けっぷりは徹底されており、動画のサムネイルですら察知すれば高速スクロールか薄目でやるほどだった。
それなのに何故、とも思うが、まあ彼女のことだ何かうっかりしてしまったのであろう。まったく。
日中の暑さが滞った重苦しい夜風に、じっとりと汗が滲む。数分歩いただけでこめかみから汗が伝った。いつもならばインターホンを押して彼女が出迎えてくれるのを待つのだが、早くと言われたため合鍵を使った。ジャギ、と鍵穴で擦れる音のあとに、ドアの向こうで何かが落ちた鈍い音。鍵を回し、ガチャン、と解錠の音がすれば、「きゃぁぁぁ!!」と彼女の悲鳴。相当ビビっているらしい。
「大丈夫か、俺だ」
「もぉ、消太くん驚かせないでよ! いつもピンポン鳴らすのに! もはや今ではピンポンすら怖い、物音怖すぎ」
「これ、アイス。溶けるから冷凍庫入れるか食べるかしてくれ」
その間にシャワー借りる、と勝手知った間取りを歩く。
「やだやだやだやだ、ひとりにしないでよ!」
「おまえねぇ、なんで見たんだよ」
「違うの、ちょっと気になるとこだけって思ってたら、いつの間にか怖いやつになってたの」
どうせあれだろ、妖怪話に釣られて見ていたらってヤツだろ、と言えば、ごにょごにょと口篭らせた。ホラーはダメで妖怪は大丈夫な意味がわからん。あれも結構怖いだろうに。
「……マヌケ」
「ああ! 可愛い彼女にマヌケとか言う!」
もう絶対離れないから、と汗で張り付いたTシャツの上から抱きついてきた。甘えられ頼られ、嬉しくないわけではないんだが、さすがの俺もベタつく体は気持ち悪い。
「ほら、汗かいてるし、臭うだろ」
「大丈夫、消太くんいい匂いだもん」
「んなわけないだろ。まったく。いい子だからアイス食べて待ってなさい」
胸元に刺さった鼻先がふるふると俺をくすぐる。
「3秒で入ってくるから」
また。
「おまえも頑固だね。じゃあ風呂場の前で待ってていいから」
ぴたりと止まって、背中に回した腕に力が入る。尻辺りにアイスの入った袋が当たって冷たかった。
「うん」と、くぐもった弱々しい声が聞こえて、腕が緩み、体が離れた。
「消太くん、3秒だからね、アイス溶けちゃうからね」
「わかってるよ、大丈夫」
3秒でお湯が出るはずもなく、水を浴びて出てきた俺にタオルを渡してホッとしたように微笑む彼女を見れば、まあこういう日もあっていいかと思うことにした。アイスは柔らかくなっていたが、このくらいがちょうどいいんだよ、と端からカップに沿ってスプーンで円を描くよう溶けたアイスを掬ってはせっせと口へ運び、たまに俺の口にも入れた。
何を見たのかと聞いてしまえば、このしあわせそうに食べる顔が曇るだろうから、言わないでおく。
消太くん聞いて、と言われた時のため、彼女に残る怖さが薄まることでも考えていようと思う。
write 2024/8/2