#はなぱれ/ワンドロワンライ/お題『ひまわり』より
愛されていた記憶というのはからだのどこかに残っていて、それを実感するのはやはり愛に触れた時だと、隣で笑う彼女を見て思う。
諸用で数日実家に帰っていた彼女が大量の荷物と共に駅前で待っていたのは昨日。今にもちぎれそうな紙袋と、真っ赤な指先を心配すれば、「ほらお母さんのいつものやつ。消太さんと食べてねって」と困った顔で笑っていた。彼女の料理も美味い。実家にいる時は全然料理しなかったんだよ、と言っていたが自然と同じような味付けになるのか、どことなく似ている。彼女の母が作る料理も美味い。これを食べて育ってきたのかと知れるのは純粋に嬉しい。母親が持たせるものは子どもの好物ばかりなのだから。
「もう私だってごはん作れるし、子ども扱いやめてほしいよ」
「まあ、いくつになっても子は子だし親は親なんだろ」
「そういうもんかなあ」
「親になればわかるさ」
「あー、消太くん、先生だからって知った風に言う〜」
「ははは、手のかかる子ほどかわいいって言うだろ」
そんな事を話しながら、紙袋から取り出した彼女の好物たちを冷蔵庫へしまった。
今は一緒に夕飯を食べている。デザートはよく冷えた水羊羹。どれも昨日、彼女が実家からもらってきたものだった。
彼女はおいしいおいしいとしあわせそうに食べた。
「あ、見て見て! 昨日忘れてたの」
そう言って俺の方に寄せた携帯にはカメラロールが映し出されていた。小さい頃のアルバム撮ってきたんだ、と言う彼女がゆっくりと一枚一枚スワイプする。2、3歳頃の写真だというそれらは、しあわせな瞬間を切り取ったものだった。派手な雨ガッパを着て全力で水溜りで遊ぶ姿、モコモコに着膨れた丸い生き物が頬を赤くしながらもにっこりと笑う姿、やわらかそうな頬が垂れた寝姿。可愛らしさに顔が緩む。
「かわいいな」
「えへ、厳選してきたからね。これもかわいいでしょ」
「自分で言うか。確かにかわいいが」
自分の倍以上の高さのひまわりに囲まれ不満気な写真と、彼女の父に肩車され、ひまわりの背を越し満足そうに微笑む写真。
「私は覚えてないんだけどさ、両親が言うには、ひまわりがおっきくて悔しかったんだって。綺麗だね、って見てたのに突然ご機嫌斜めになるからどうしたのって聞いたら、ひまわりこーんなにおっきいのわたしもおねえさんなのにって怒っちゃって、って笑ってた」
その証拠にお父さんに肩車してもらった時の顔見てよ、すんごいドヤ顔、と彼女の幼きエピソードを写真付きで聞いて思わず声を出して笑う。
「そのひまわり畑ってまだあるのか?」
「ん、今も名所みたいだよ」
「一緒に行かないか」
「行きたい! 消太くん肩車して!」
「いいよ」
冗談だってば、と嬉しそうに笑う彼女に、俺も幼い頃、ひまわり畑に連れていってもらっていたことを思い出した。カメラを向ける親が一生懸命「笑って〜」と言っていた記憶。あまりの必死さにぎこちなくピースしたな。今度親に聞いてみるか。場所も聞いて、まだあるのであればそこも彼女と訪れたい。まあその時も言われるのだろうな「消太くんも笑って」と。
彼女を通して、自身に蓄積された愛を知る。それを思い出せば、色々なことが許されたような気になってくるから不思議だ。温かい湯に浮かんでいるようで心地よい。
こんな感覚は初めてで、俺はもう、おまえしか見えないんだろうな、と隣で笑う彼女を見て、そう思った。
write 2024/7/20 #はなぱれ/ワンドロワンライ/お題『ひまわり』より