コーヒーにミルクは入れない
朝だ。
休みの日の朝くらい、ゆっくり寝ていればいいものを、2ヶ月前から一緒に暮らし始めた年上の彼女はすでに起きていて、隣の空間はひんやりとしていた。
まだ完全に覚醒していない思考を少しずつうつつへと引っ張る。洗濯機が脱水でカタカタ揺れる音がする。食器を出し入れする音がしたかと思えば、収納から重いものを運び出す「んしょ」という小さな声。水の補充は俺が週末にやるって言った事、忘れたのだろうか。
洗濯機の終了音が鳴って、廊下をパタパタ歩く音が聞こえる。誰かと一緒に住むなんて考えもしなかった俺が、この生活音を心地良いとさえ思っているから驚きだ。
「あ、消太おはよ。ごめんね、うるさくした?」
「おはよ。いや、いい目覚めだよ」
「そう?よかった。で!消太また袖ひっくり返したままカゴに入れたでしょ!一枚ずつ袖戻すの面倒なんだから、脱ぐ時気をつけてってこの間も言ったのに」
「……急にうるさい」
「言わせてるのは消太でしょ!」
「すまん、気をつける」
怒った彼女は一度怒ると機嫌を直すまでに時間がいる。
怒らせてしまうのは大抵俺なのだが、その場で一度は謝ったんだし、そのうち機嫌も戻っていつも通りになるだろうと思って、正直面倒くさいのもあり放置していた。それが逆効果だというのに気づいたのは、それから2日経ってからだった。合わない目線と触れられない距離に耐えられなかった俺は、あの手この手で機嫌をとるというのをひたすらに試した。どれも失敗に終わり、最終的には「気安く触らないで」と言われる始末。動揺した。
物には頼りたくなかったが、ごめんと謝りながら取り出す、普段買わないような可愛らしい包みの菓子や、好きだと言っていたアイス、花、いちごタルト、前に可愛いと言っていた猫の小さなぬいぐるみ。
次々と並べられていく赤やピンクや黄色や白を前に、
「消太のばか」
と言いながら笑う彼女にほっとしたのを今でも覚えている。並べた物が正解ではないことくらい俺にもわかっていて、根本的な解決でなくても、久しぶりに目を見れたことに安堵したのだ。それからしっかり謝って、話し合い、「食べさせてくれたら許す」という彼女の口へいちごタルトを運んだ。
それなのにまた怒らせてしまう俺は、情けないほどに彼女に甘えてしまっているのだろう。
「ごめんな、本当今度から気をつけるよ」
寝室を出て行った彼女を追いかけて、抱き寄せる。触るなと言われないのでそんなに怒ってないようだ。なんとなくそういうのもわかるようになってきた、ような気がする。
「もうそれ何度目?私、消太のお母さんじゃないんだけど」
「ああ、もちろん、俺の可愛い彼女だよ。
〇〇さんはしっかりしててなんでも一人でやろうとするからつい甘えてしまうんだ。だからって全部やらなくていいんだよ、俺もいるんだから」
「消太いつの間にか口が上手くなってる」
「本当のことを言ってるだけだよ」
「消太に甘えられるのは悪くないけど、ほんと気をつけてね」
「それは、…はい」
彼女が怒ったときは、大丈夫話ちゃんと聞いてるよ、というのを誠心誠意伝えるのが大事なのだ。今までの俺なら、怒って無視を決め込むような面倒な女は別れて終わりだったのに、そうならず捨てられないよう必死になるほど彼女に心底惚れている。
ぎゅっと背中に腕を回す仕草に、「許すよ」と言われたようで、背中をそっと撫でる。
「洗濯、干すの忘れてた」
腕の中で顔を上げて話す彼女。少し抜けているところも、意思の強そうなきりりとした瞳も好きだ。
「いいよ、俺がやる」
「消太は朝ごはん食べて。テーブルに用意してるから。コーヒーもまだあったかいよ」
「ありがとう。
〇〇さんは?」
「私は先に食べちゃった。消太いつ起きるかわからなかったし」
「ん、そうか。じゃいただくよ」
変に待ったり期待したりしない。彼女は、そういうところでは怒らない。彼女が怒る時は筋が通っている。だから俺も嫌になったりしない。そして俺が悪かったのだと気づかされるのだ。
機嫌が直って、にこっと微笑む彼女に安堵して、せめても、と濡れた洗濯物が入ったカゴをベランダまで運ぶ。寒いよ、と言われたが彼女の姿を見ていたくて窓を開けたままにしてもらった。
手際よく丁寧に干す彼女を見ながら、彼女の作った朝食を食べる。
今日の昼食は彼女が食べたいと言っていた店に行こうか。それとも前に作って美味しいと褒めてくれたやつをもう一度作ってみようか。
あと服の袖は脱ぐ時に気をつけるとして、やると言った時にやらないともう遅い。明日は
〇〇さんが起きそうな時に一声かけて何もなければ、もう少しゆっくり寝ていようと誘う。よし。
キンと冷たい風が吹いて、柔軟剤のあまい匂いが部屋にうっすらと広がる。
それは、少々怒りっぽくて強がりな彼女の柔らかいところのようで、緩む口元をコーヒーカップで隠した。
write 2024/1/17