チョコレートケーキ
温度を感じる近さはどのくらいだろう。
濡れたグラスでじんわり冷えていく指先に、億劫がらずにもう少し手を伸ばしてタンブラーを掴めば良かったと少々の後悔をしたところで、まあ飲むだけだし、と水滴のついた手を揉む。
アイスティーに合うのはクッキーか、チョコレートか、はしばらく悩むのに。
これといって重要ではないのだけれど、日々過ごす中、大なり小なり選択をし続けている。普段気にしない程度のことでも、「選択をしている」と気づいてしまえば、それすらも煩わしく思う。そして失敗するとそれなりに凹む。どっと疲れる。
人付き合いとなれば尚のこと。どちらかといえば苦手な方の私は、穏便に済ませたいがために当たり障りのない、相手が気持ちよく話してくれればいいか、の相槌に笑顔を繰り返している。曝け出したところで得はないし、気持ちを擦り合わせる必要もない。
何にでもはいはい言って、うんうん頷いているわけではなく、上手い話には乗らないし、面倒事は御免だし、押し売りも買わないし、連絡先も教えない。
だからか、私と話終わったとき、相手は不思議そうな顔をしている。「あれ、話が思った通りに運ばなかったぞ」と。その顔にいつもならば何も感じないのに、下腹部のだる重さのせいか、あとからじわりじわりと、どこかで間違ったかもと過去の会話の波が押し寄せてくる。
私は、相手に自分を知ってもらうのが嫌なのだ。分析され、カテゴライズされるのが嫌だから私でない私を演じているのかもしれない。されたところでそれは私ではないのだから幾分気が楽だ。
だがこんな私にも恋人は、いる。
唯一、心を開いている相手だと思っている。
それなのに『次はいつ会えるか?』という彼からのメッセージに返せないでいた。三日も既読をつけたまま静かな画面は、開いたところで代わりに言い感じの返事をしてくれるわけでも、彼から催促のメッセージが来るわけでもない。
まず、彼、消太がそういう事を言うこと自体、変なのだ。消太はほぼ毎週金曜の仕事終わりに私の家に来てそのまま泊まり、日曜の夕方に帰っていくという通い妻のような週末を過ごしているのに、『次はいつ会えるか?』は、なんて浮いたひと文なのだろうと思うと同時に、もやもやと心が曇っていく。
私宛ならば、次も何もまた今週金曜の夕方には合鍵を使って勝手に入ってくるのだから無意味。仮に、送り先を間違ったのであれば、消太なら間違ったというだろう。別れを言うのも面倒くさく、匂わせて察してくれ状態だとすれば、もう終わりという事か。
知らないうちに伸びた爪の距離感に違和感を覚えるような気持ち悪さを三日抱えている。
お互い疲れているから外にも出ずだらだらと映画を観たからか、その時に出した作り置きのマリネが口に合わなかったとか、炭酸水ではなくアルコールの気分だったとか、キスのあと触れた腰に生理だからと断ったからか、爪の色やヘアオイルの匂いが気に入らなかったとか、そもそももう私の事なんか。考えればいくらでも出てくる。
良くない思考に落ちていることはわかっている。けれど止められない。
小さな違和感はのちに大きなものになるし、後から後悔するとわかっているのに。あの日の全てが流れ落ちるように思考を支配していく。私は何か、選択を間違ってしまったのだろうか。
やっぱり面倒がらず、タンブラーを選べばよかった、となかなか乾かない水滴に、冷えた手に、ため息を吐く。吐いたところで胸のつかえは取れない。
低い声が降ってきたのは、座っていたソファへ横になり、重く怠い下腹部に手を当てて瞼を閉じた時だった。
「返事なかったから来た」
「匂わせて自然消滅狙ってるのかと」
「またおかしな事言ってるな。俺は何も嗅がせてないよ」
優しい手が頭を撫でる。
「冷たい物飲んで、からだ冷やしたらだめだろう。薄着も良くない」
私より私を労る消太に、確かにあたたかさを感じる。声にも言葉にも、温度を感じる。
普段、他人には知られたくないと思っているくせに、消太には知っていてほしいし、私より私を知っていることに安心する。なんて面倒くさいやつなんだろう。
「この間適当に観た映画のせいかなって」
「あれは面白かっただろ」
「水菜嫌いだったかな」
「いや、好きだし美味かったよ、なんて言ったか。ああ、マリネか」
「お酒飲みたかったよね」
「お前、生理中は飲まないだろ。ひとりで飲んでも美味くないし」
「触ったの嫌がったから」
「それは、我慢できなかった俺が悪い」
「新しく塗った爪とか、ヘアオイルとか、嫌いだったかなって」
「いや、似合ってるし、いい匂いだよ。あの日、言わなかったか?」
「聞いてない。……私の事、好き?」
「好きだよ」
面倒くさい言葉にちゃんと言葉が返ってくる。
「チョコレートケーキ買って来た。コンビニのだが。食べるか?」
「もう夜遅いのに」
「とか言って、チョコ爆食いしてるやつは誰だよ」
消太は笑いながらサイドテーブルに山のように置かれたチョコの包装紙をゴミ箱へ捨てて、ホットミルク作るから待ってろ、と言ってキッチンへ向かった。
「ねえ、私めんどくさい?」
キッチンのさまざまな扉を自分の家のように開け閉めし、私のためにホットミルクを作ってくれている消太の後ろ姿に、話しかける。
「いや、それも含め可愛いと思うよ」
無造作に集めた髪を腕に付けていたヘアゴムで大雑把に結いながら、消太は言った。
「お前が外でどんな風に顔をつくってるか、なんて俺が一番知ってるからな。俺はまあこんな見た目のせいか人も寄ってこないし、楽だが、お前の場合は違うだろ。仕事もあるし。大事なものを取っ払って見せてくれるのは俺は嬉しいよ。周期的なものとは言え、面倒くさいのはいつもと然程変わらんしな」
小さなミルクパンからマグカップに移し、湯気立つそれを濡れたグラスと取り替えて、「どうぞ」と言って置いた。私はずっと消太を見ていた。先ほどまでシンとしていた部屋の空気が消太の声で震える。ありがとう、と言うと、「可愛い、可愛い」と子どもをあやすように頭を撫でた。柔らかく下がった眉がとても優しかった。
「今日は帰っちゃうの?」
「泊まるつもりで来たよ」
耳ざわりの良い低い声が、私を肯定する。
浮き沈みする波状の心が勝手に遠ざけた温度は、変わらずそこにあって、当たり前のようにチョコレートケーキのフィルムを丁寧に剥がしていた。
write 2024/5/10