お疲れ水曜日
西の空がわずかに橙を残し、群青が溶け込む十九時半。
「日が長くなったなあ」
つい最近、一年の始まりに粛々と頭を下げあったような気がするのに、などと沈んでゆくグラデーションを眺めながら家路につく。
見る見るうちに暗くなった歩き慣れた道を、「帰り道、イヤホンして歩くなよ」と口酸っぱく言う彼の言いつけを守り、脳内で再生された好きなロックバンドの132BPMに合わせて歩けば、マンションのエレベーターに乗る頃には息が上がっていた。
「ふう、ただいま〜」
数秒遅れて右の扉の奥から「おかえり」と低い声が聞こえた。先に帰ってきていた彼はまだ仕事中らしい。私も今日中に片付けたい仕事がある。お互い忙しいですね、と心の中で声をかけ、向かい合う左の扉を開けた。
夕飯は残りの仕事を片付けつつ、ゼリー飲料。体力のない私はお気持ち程度に鉄分が含まれたものをぢゅっとする予定だ。彼はおそらく安定の10秒チャージをしたことだろう。しっかりしたご飯を食べた方がいいとわかってはいるが、胃が受け付けない時だってある。箸を持つのも、咀嚼すら億劫なのだ。
バッグと携帯、身につけていたアクセサリー類を所定の位置へ置く。外にいた時はなんともないのに、玄関の敷居を跨いだ途端、化粧が重たく感じるのはなぜだろう。『外での自分』がべちゃりとその上から張り付いている感じがするからだろうか。一刻も早く、何層にも重なったこれを流し落としたい。
いつもならば洗面台で丁寧に落として、それからお風呂へ入るのに、今日はそれもめんどくさい。つい早歩きをしてしまって、ぬるっとかいた汗のせい、というのもある。こういう汗は臭うし、ぺたりとくっついたインナーとパンツが気持ち悪い。
日曜は休日出勤、そして連日残業。当たり前のように帰宅後も仕事。金曜並みの疲労感に、もうずっと木曜日が続いているような感覚で、なのに今日はまだ水曜日だという現実が私を絶望させていた。それを自覚した途端、キーボードを押す指が重く感じ、残りは家でやろうと切り上げてきたのだ。
早くリセットしなければ、押し潰されてしまいそう。
コンタクトレンズを外し、服と下着を脱ぎ捨てると、クレンジングとシャンプーブラシを持って、いざお風呂場へ。溜められていない湯船に、彼もシャワーで済ませたのか、と思いつつハンドルをシャワーのマークへ切り替える。
シャワーで済ませたのか、まで頭は回っていたのに、やはり疲れていたのだろう。いつもの流れがすっぽり抜け落ちてしまっていた。
「あっつ……!!」
そう、温度調節。彼が先に入った時は真っ赤なラインにぐるんと思いっきり回された何度かなんて知りたくもない温度から、38度ほどの黄色いラインまで回し直さなければいけなかった。
ちょっとやる事が普段より多いからってすぐにキャパ超えちゃうポンコツな脳みそが嫌になる。上にも下にもにこにこ対応しておきながら、腹の中ではどす黒い自分が嫌になる。
シャワーに当たらないようハンドルを戻して、ふん、と鼻から短いため息を吐いた。
「どうした? 大丈夫か」
「ひゃあ!!」
突然かけられた声と、浴室ドアのすりガラスの向こう側に現れた真っ黒い影に、ドッキンと心臓が跳ねる。
そこまで声を出したわけでもないのに。あ、脱衣所のドア閉めるの忘れてたかも。それでも消太くんの部屋まで聞こえる? そんなに壁薄くもないと思うけど。お風呂だから響いたのかな。
「開けていいか」
ドアノブに手が置かれているのが見える。早く返事しないと開けられる。別に恥ずかしがって隠すような関係でもないのだけれど、外で取り繕って汚れてしまったどろどろの顔と、内側からじとっと滲んだような汗でべとべとな裸は、いくら付き合いが長くても見せたくない、見られたくないと思ってしまう。
「や、やだ! 温度下げるの忘れてただけ!」
「どこに触れた」
「ちょっと肩に当たっただけ、大丈夫! というかこんなにあっついの浴びてる消太くん、身体大丈夫?」
「いや、俺はあれくらい熱いのでないと浴びた気が、」
「や、話振っといてごめん! 見られてるの恥ずかしい!」
「見えてないんだが」
「わかってる! わかってるけど、もう大丈夫だから! 消太くんのえっち」
「えっ……ち」
いくら彼の視力が良くたって、すりガラス越しではこちらは見えない。わかっているのに、視線が痛い。無理矢理追い払ったこと、怒ってしまっただろうか。黒い影がゆっくり振り返って、のそのそ遠ざかっていった。
またじっとりと汗をかいてしまった。
今度は目盛りを確認し、温度調節のハンドルを回す。クレンジングを馴染ませ、豪快に頭の上から私にとって適温なシャワーを浴びる。彼に合わせたシャワーヘッドの高さは満遍なくお湯が降り注いで気持ちがいい。洗い流しつつ髪も濡らし、そのままシャンプー。ちょうど良いコシのブラシでくるくるマッサージするように洗えば、凝り固まった頭皮が緩んでいくのがわかる。そう、これこれ。首から上がスッキリしただけでも肩こりが楽になった気がする。
が、やはり気がしただけだった。身体を拭くのも髪を拭くのも面倒で、自室へ戻り、やっとパジャマを着た頃には、帰ってきた時よりサッパリした分だけ幾らかマシという状態で。お風呂って疲れる。けれど、その後もやる事が多すぎて疲れる。彼のように濡れた髪を自然乾燥で済ませられるのならいいのだろうけれど、やはりそうもいかず、ヘアミルクやヘアオイルを用意して渋々乾かす。その間に、『忙しい貴方に、夜のオールインワン』とまさに、なフェイスパックを貼って、少しでも時短。
「だぁ! やっと終わったあ!」
達成感で床に寝転んでいると、今度は律儀なノック音が聞こえた。返事をすれば扉が開き、随分と上にある顔が床に転がる私を見つける。コンタクトを外した裸眼では彼の表情が読めず瞼を細め、それでも見えなくて眉間に力が入る。シワで密着していたパックが額から浮いて、ぬるくなったフェイスパックに、火照りが冷めたことを知った。
「お疲れ。アイス買ってあるんだが」
私が顰めっ面だったからか、彼はそのまま私の頭上にしゃがみ込み、表面が少し乾燥したフェイスパックをぺらりと剥がした。大きな手のひらが表面に残った美容液を肌へ押し込んでいく。と、聞こえはいいが、ただ頬を手のひらで挟まれ、むぎゅっとされただけ。
「アイス! 食べたい!」
近頃忙しくて会話もろくにできてなかったし、連日私の帰りが遅いのを心配してくれていたのかもしれないし、さっきのこともあるから今日はおそらく諸々を含めた彼なりの気遣い。だって、食べたい、と言った後の彼の表情が少しだけホッとしたように見えたから。ちゃんと消太くんの顔を見たのも久しぶりな気がする。
「うんと甘いやつだったらいいなー。例えば、」
「「クッキーアンドクリーム」」
だろ、と言って、軽々と私の身体を起こす。
「すごーい! 特別にお風呂覗いたの許してあげる」
くるりと向き直し、しゃがんだ彼に抱きつく。ハグだって、すっごく久しぶりだ。受け止めつつ「覗いてない」と反論するびくともしない分厚い身体は、そのままヒョイと私を抱き上げ、「心配しただけだって」と言って、「今度から温度戻しておくよ」と謝った。
綺麗になった私は、ここぞとばかりに消太くんに擦り寄った。抱っこされるのも悪くない。肩口に顔を埋めて、胸いっぱいに消太くんのにおいを吸い込めば、あんなにもだる重くのしかかっていた絶望の水曜日も、なんだか普通の水曜日くらいになって、明日が木曜ならば、もう少しがんばれそうかもという気になってくる。タスクの順をちょっと変えてみればなんとかなるかも、とこんな簡単な事を思いつかないくらいにいっぱいいっぱいだった頭にも余裕も出てくる。
今度は気のせいではない。ぎゅっと縮こまっていた脳も、身体もほぐれていく。
彼の匂いは、ゆるゆると眠りを誘う夜の香りだ。帰りに見た、橙と群青のグラデーションの微睡み具合に似ている。
「ぼーっとしてた私が、」
「触れたのは肩か」と私の言葉を遮って、深爪気味に切り揃えられた皮膚の厚い指先が薄い布の上からそうっと触れた。どちらとも言っていないのに、左肩に触れた。
「なんともなってないよ、んふ、くすぐったい」
「よかった。この後も仕事するんだろ?」
「うん、昨日ほどではないけど。11時くらいかな」
「終わるの待ってる。今日は一緒に寝たい」
「ん、私も」
七秒間のハグは心の栄養とかなんとかどこかで聞いた気がする。触れ合った瞬間にそれはじわりと広がって、七秒後にはふっくらもっちりの、彼といる時の私になる。
さて、うんと甘いアイスを食べて、もう一踏ん張りしますか。
write 2024/5/1