ずっと
早朝のキンとした透き通るような、どこまでも遠く見通せる空気の中、踏切のカンカンという警報音がけたたましく響き渡る。
電車通学の生徒が通っていた、雄英までの通学路。今は生徒をはじめ教職員も全寮制で、ここを通るのは地元の人だけ。休日だった今日、午後から予定されている教職員の花見の準備のため、人通りの少ない時間に駅近くの24時間営業のスーパーへ行った帰りだった。
さっきまで話をしていたのに、この耳を刺す音の側では何を言っても聞こえないと諦めたわたしたちは、手を繋いで待っている。耳元でキャッキャと囁き合っていたのは付き合ったばかりの頃だったか。いや、キャッキャしてたのはわたしだ。彼、消太は他の男子とは違っていつもクールで、騒がしい教室の中、空き時間は文庫本片手に静かに座っていた。わたしは友人たちと話をしながらその横顔を視界の端に映したりして。凛とした雰囲気がかっこいいなんて思っていたっけ。
ダメ元で告白をした高1の文化祭前。まさかオッケーをもらえるとは思わなくて、驚いて固まるわたしに「変なの」と笑ったことを彼は覚えているだろうか。
電車は、まだ来ない。
この踏切はつかまると長いから、と違う道を通るようになったのは高2の冬。人生を左右されるような知らせは、若いわたしたちにはあまりにも凄惨だった。皮肉にも彼の目指す道をはっきりとさせ、痛々しい決意にわたしも未来へ進むため必死になった。回り道でも止まることを許されない、そんな毎日に、別れなかったけれど近くもなかった学生時代。
卒業後、転々としたあと地元へと帰った彼とは事務所が近く、また長く一緒にいるようになった。「意外と続くね」「まだ付き合ってるの」と言われもしたけれど、わたしたちは一緒にいた。答えは簡単だ、お互いがお互いを必要としていたから。説明しなくても「何故」を知っているのは楽だ。惰性と言ってしまえばそうなのかもしれないが。今だって縁は続いていて、学び舎だった雄英で共に教師として立っている。わたしの人生の半分は消太と一緒なのだ。
彼は、消太は何を考えているのだろう。ほんの数分前、警報音が鳴り始める前まで笑い合っていたのに、彼と何度も通った懐かしい道に少し感傷的になってしまった。
──カンカン、カンカン、カンカン
案の定、電車はなかなか来なくて、一体彼はどんな顔をしているのだろうかと覗き見ると、キスをされた。
早朝5時半、誰もいない路上で。
「あれ、これ前にもこんなこと、あったよね?」
わたしの言葉はかき消され、彼は何事もなかったかのように前を向いた。感傷的になっていたわたしが馬鹿みたいだ。
今、何言っても聞こえない。それならば、「ちゅーするとか信じられない。先生なのに」と文句を一つ言ってやった。ゴウと音を立てて横切る始発電車が連れてきた風に、目を瞑りながらやり過ごす。やっと来た電車が過ぎ去るのは一瞬で、記憶を揺さぶるような音も鳴り止めば、辺りに静寂が訪れ、キンとした空気と僅かな胸の苦しさが残る。
乱れた髪を整えるわたしの横で、髪を掻き上げる彼。あらわになった横顔に昇りかけた朝日が透けて綺麗だった。儚いと思っていた横顔は、いつの間にか色気を纏うようになっていて、なんだか彼だけが大人になったみたいに思えて、20代の頃は焦ったりもした。
振動の余韻でシャンシャンと鳴る、所々錆びて雑草か何かの蔦が絡んだコバルトグリーンのフェンスを背に、向こう側へ渡った。
「先生は関係ないだろ。学外で、それに今日は休日だ」
「聞こえてたの? その前のは?」
黄色に塗られた歩道ブロックの上を歩く。消太は「さてね」と笑って、わたしはブロックの高さ分近づいた距離に思い出す。まだ彼が背も低く身体も薄かった頃。
「付き合ってすぐじゃない? 消太とこのくらいの身長差だったから」
ちゅーしやすかったよね、とわたしが笑えば「そうだな」とまた軽く唇が触れた。これは絶対聞こえてたし、覚えてるやつだ。惰性だ、なんて言ったけど、わたしは消太が好き。告白する前から、ちゃんとずっと好きだ。絡めるように繋がれる手も、不意打ちのキスも、いまだにドキドキする。消太はどうだろう。好きじゃないのにキスなんかしないか。それに早朝の買い出しに付き合ってくれたりもしない。
「そういやここ通るの久しぶりだな」
「ね、ほんと。毎日毎日、電車通学がんばってたよね」
彼の脳裏にも楽しかった頃の記憶が映っているのか、「だな」と柔らかく微笑む。
雄英へ再び立てたことが彼の心の平穏を取り戻せたのか、全てが腑に落ちたかのようで穏やかに笑うことも増えた。とうとうわたしが居る意味はなくなったのかと寂しくなり、真剣な顔で「話がある」と声をかけてきた彼に覚悟した時もあったが、それはただの勝手な思い違いで。言葉は少ないけれど、端々に感じる彼なりの愛の仕草に、消太もわたしの事が好きなのだと伝わって、その都度安心したりもした。たまには言って欲しいけど。
なんだか今日は心がぐらぐらだ。
「ねえねえ、わたし消太が好きだよ」
「……っ」
彼は、長い前髪の隙間から覗く三白眼を見開いて、ぽかんとしている。道わきの枝垂れた桜から花びらが舞って、口に入りそう。
「言ってくれないの? たまには聞きたいなあ」
「そっかあ、ちゅーはするのに言ってくれないんだあ」
わたしがそう言うと彼は、「すまん、照れた」と買い物袋を肘にかけ、てのひらで口元を隠した。彼の太い指にツンと高い鼻が乗って、みるみるうちに不健康そうな顔色が薄く桃色に染まっていく。これは本当に照れてるときの顔だ。いつものポーカーフェイスでキスはするのに、こういうのには照れるなんてまだまだ可愛いところもある。ぷは、と吹き出したわたしに、彼も「笑うことないだろ」と声を出して笑った。「好き」とわたしがもう一度言うと、「俺も。好きだよ」と言って、せっかく整え直したわたしの頭をわしゃわしゃと撫でた。
踏切につかまる前のふたりに戻っていた。いや、勝手にセンチメンタルな気分になっていたのはわたしだ。
「ちゃんとずっと、あの頃から好きだから。もうそんな顔すんな」
ぐしゃぐしゃになった髪を整えないまま隠れているわたしの顔は、どんな顔をしていたのだろう。
「消太、好き。大好き。なんで今日は欲しい言葉を全部言ってくれるの?」
「なんでって、おまえが言えって言ったんだろ」
小さく「そうだけど」と返事をすると、彼の大きな手が、わたしの髪を慣れた手つきで元の場所へと戻していく。最後に頬にかかったひと束を左耳に優しくかけ直し、
「何を考えているか大体想像はつくが、今更、離れられるわけがないんだ。おまえがいないとダメなんだよ」
と、言った。
朝日で白んだ先の朧げに映る景色がチラチラと眩しかった。さっきみたいな穏やかな顔でいてくれてたなら格好もつくだろうに、彼は首の後ろに手を回し、ガシガシと掻きながら居心地悪そうな照れくさそうな顔をしていた。けれども、それがとてつもなく消太らしくて、わたしは心底安心したのだ。
「桜、今年も綺麗だね」
「ああ、ほんとに。さ、帰ろう」
「うん、帰ろ」
write 2024/4/23 イベントにて展示