七話 あたたかい部屋にて
真っ直ぐで滑らかな細い髪が動くたびに、さらりと揺れる。
伸びた彼女の髪を見ていた。
出会った頃はあご辺りで切り揃えられていた。それが今では胸下で、伸びた髪に、共に過ごした年月を重ねる。
「消太さん」
彼女が俺の名前を呼ぶ。たったそれだけなのに胸が苦しくて泣きそうになるのは何故だろう。
朝、寝袋の横で鳴る携帯に手を伸ばす。乾燥した空気がささくれた指先をひりつかせた。
『今日時間があったら会いたいです』
彼女が視た季節が巡るたびにあの時の「私たち別れてしまう」という言葉がよぎる。過ぎては安堵し、まだ彼女と一緒に過ごせることに幸せを噛みしめる。
もしかしたら、なんて無駄な期待までしてしまうほどに、なにもなかった。俺たちの間に、なにもなくても別れるのだろう。どことなく悲しげな彼女を見ると残された時間は少ないのだと気づかされる。
来春には雄英高校で教師をすることを決めた。ここを離れるつもりだ。これも別れてしまう原因のひとつなのだろうか。考えても仕方がない。
『俺も話したいことがある。仕事が終わったら連絡する』
『ではまた後で』と簡潔なメッセージが届いてそれに既読をつけた後、寝袋を出た。少し埃っぽい床は、ひんやりと冷たかった。
その日は拠点にしている街のパトロールと懇意にしている情報屋兼、骨董品店に顔を出して何事もなく1日が終わった。比較的平和な街だし、ここには優秀なヒーローがいるため俺がいなくなっても秩序は変わらないだろう。
最近はすっかり日の入りが早くなって、まだ17時だというのに薄らと暗く、ひと気のない住宅街はどことなく寂しげだ。ぽつぽつと灯り始めた街灯は帰路に着くための道標のようにも見え、薄紫色の空に頼りなさげに浮かんでいく。
一度家に帰り、着替えてから会うことにした。もう一度外に出る頃にはすっかり暗くなっていた。
彼女の家に着き、インターフォンを鳴らせば「はーい」と明るい声が聞こえてドアが開いた。今日は元気そうだ。よかった。
「消太さん、お仕事お疲れ様」
「
〇〇も。お疲れ」
会えてよかった、意外と早かったね、と話しながら彼女は廊下を進み、部屋へ繋がるドアを開けた。彼女の部屋はしっかりと生活をしている部屋で、あたたかい。モノひとつひとつがそこに在るのを喜んでいるかのようにいる。ベランダに面した窓の横は陽当たりがよく、昼寝をすると彼女の部屋の一部になったようで心地よかった。彼女が俺の部屋になにも残していかないのに対して、俺は彼女の部屋に少しずつモノを置いていった。それは気持ちやこころをこの空間に残していくようだった。彼女は何も言わず、残していったモノに居場所を与えてくれる。ここに居てもいいのだと許されている気がした。
「ごはん、食べてないよね、一緒に食べよう」
「うん、腹へった」
「今日は冷えたね、昨日は少し暖かかったのにね。何作ろうか迷ったんだけど、寒い日はやっぱりシチューかなあって」
バゲット焼くね、とエプロンをつけてキッチンへ向かった。細長いクラフト紙の紙袋に入ったバゲットを取り出し、厚めに切って、トースターに入れる。その様子を見ながら、何かすることはあるかと聞くと、あとはシチューを温めるだけだから座って待ってて、と言われた。
ホワイトソースの香ばしくもまろやかな香りが部屋中に漂っている。料理はあまり得意ではないと言っていたが、俺が来る日は作ってくれる。時間が合えば一緒に作る日もあった。
「いい匂い」
彼女は、焦げつかないよう真剣に鍋をかき回しながら、ね、と短い返事をした。
チンとトースターのタイマーが切れる音がして、部屋に甘い香りも混ざる。縦縞模様のナフキンを敷いた浅めのカゴにバゲットを入れて、半円型のテーブルの中央に置く。それぞれのマットの上に木製のスプーン。ゴトリと置かれた深めの皿には、これでもかといろんな野菜がごろごろと入ったホワイトシチュー。お揃いのマグカップには、あたたかい紅茶。丸い形のポットにはニット帽子みたいなものがかぶせてある。
サラダや副菜はどうしようか迷ったけれど、シチューにたくさん野菜入ってるから、と諦めたらしい。彼女のホワイトシチューには胡椒の効いた鶏団子が入っている。今日のは特にふわふわで美味しく出来たと思うの、と言いながら隣に座った。ふわふわの鶏団子はとろりとしたルゥのまろやかさに包まれ、想像以上に美味しかった。大きめに切られた野菜も柔らかく煮込まれていて、優しいものと温かいもので腹の中が満たされていった。
彼女が会いたがっていた理由も、俺の話もどうでもよくなるくらい、ゆったりとした時間が流れていた。
電気を消して、外の灯りがほのかに輪郭を捉えるこの部屋の景色が好きだ。大きめの一人掛けソファに、彼女を抱き込むようにして一緒に座る。車のライトが反射して天井を走る。走行音が通り過ぎて夜の静けさが戻ってくる。滑らかな長い髪を、掬っては落とし、掬っては落とし、何度もその流れる様をぼんやりと眺めていた。
「消太さん、くすぐったい」
「ん?ああ、つい」
彼女がくすくす笑いながら首をすくめる。
「俺、雄英の先生になるよ」
掬った髪がさらりと落ちると同時に、言った。
「消太さんにぴったりだね」
「そうか?」
「うん、消太さんはたくさんのことに気づくひとだから」
膝を抱えた彼女が、薄暗い部屋に溶け込むような、限りなく透明な声で、言った。
そして、声色を変えずに、「別れてください」と、言った。