六話 夏のにおいとひかりを知って
付き合って一年が経った。
彼女は俺のなにもない部屋によく来たがる。
キャリーバックに入るだけのモノと寝袋しかない、ただの入れ物のような部屋に、だ。
「こんばんは、消太さん。お疲れ様」
「ああ、
〇〇もお疲れ」
そろそろ無くなる頃かなと思って、と渡された紙袋には包帯やガーゼ、湿布などの応急処置に必要なものが入っていた。
「すまん、ありがとう」
「この間会った時、傷だらけでびっくりしたんだから。あと、これも。ごはん、一緒食べよ。コンビニのでごめんね」
仕事帰りにそのまま来たという彼女は、ハンカチで汗を拭きながら一気に喋っている。紙袋の他にも、仕事用のカバン、コンビニの袋を2袋、泊まるために必要なもの一式が入ったトートバッグを持っていた。結構な荷物だ。
「重かっただろ。今日も暑かったな、先シャワー浴びておいで」
「ありがとう、じゃあそうしようかな」
彼女は俺の部屋に私物を残さない。持ってきたものはきっちり持って帰る。モノがない部屋に遠慮してなのか、彼女がそういう性格なのか。後者な気もするし、好んで来るくらいだから前者な気もしなくもない。だが、残り香くらい置いていってほしくて、今日も脱衣所にタオルと俺のTシャツをそっと置く。
「シャワーありがとう。お待たせ、お腹空いたよね」
急いで出てきたのか、垂れた前髪からはぽたぽたと雫が落ち、ずるりとずれた襟口からは華奢な肩が見えている。
「いや、大丈夫だよ。俺のことは気にしなくていいから、ゆっくりしよう」
そう言うと彼女は、ふと肩の力を抜いて、ふにゃりと眉を下げた。鎖骨辺りの長さの髪をタオルで絞りながら、風呂上がりの所々濡れたからだを寄せ、「傷、痛みどう?病院行かなくていい?」と聞いてきた。俺の風呂場にある石鹸の匂いではない、いつもの彼女のシャンプーの匂いと、甘い花のような匂いが湿った生ぬるい熱とともに鼻腔にへばりつく。これは夏の夜のにおいだ。
「軽い打撲と擦り傷だけだったから、もう痛みはないよ。心配かけたな」
「ううん、よかった」
「メシ食うか」
「食べよう」
髪乾かさなくていいのか、と聞けば、「消太さんの家に来ると、消太さんになったみたい」と言って濡れた髪をぶんぶんと振った。さすがの俺でも下着は着てるぞ、と言うと、「脱衣所に持っていくの忘れてただけ」と顔を赤くして、「見ないで」と言っていたがそれは無理な話だった。視線が気になったのか、俺が彼女の買ってきたものを床に広げている間にパンツだけ履いたようで、座った時、少し開いた太ももの隙間から涼しげな水色のレースが見えた。
「床に並べて食べるのピクニックみたいで楽しいよね」
「そういえば仕事続きでどこも行けてないな」
そんなつもりで言ったわけではないよ、と彼女は言いながらハムとレタスのサンドイッチを一口齧った。
「私、消太さんの家好きだよ」
「なんもないのにか」
「それがいいの」
彼女は満足そうにそう言った。
8月も中頃を過ぎたというのにまだ夏らしいことをしていない。去年は付き合ってすぐに夏が来て、お互いぎこちないまま休みの時に近場に出かけたりしただけだった。季節を感じる余裕なんかなく、人らしい生活をしていなかった俺が、らしいことをしようと思うのはやはり彼女のおかげで、彼女を想えば、暗く重い中から容易く浮上できた。
「明日、どこか行く?」
「いいの?怪我は?」
「大丈夫。電車乗って海でも見に行くか」
「行く!」
楽しみだなあ、とにこにこしながら野菜スティックのにんじんをぽりぽりと食べている。俺も同じ容器からきゅうりを一本取って食べた。
夏の夜のにおいがするりと近づいて、背中と腕に柔いものが当たった。
次の日、ふたりとも寝過ごして、開き直って昼過ぎから出かけることにした。
海には最寄の駅から、錆びついた外装が味のある二両編成の在来線で行く。
駅を過ぎるたび風景が少しずつ変わるのを横並びに座った向いの窓から見ていた。三駅も過ぎれば、建物よりも自然が多くなって、何度目かのトンネルを抜けると、目の前は海だった。流れる黒を見続けた目には窓いっぱいに映る空と海の青が眩しかった。
「海の上を走ってるみたい」
「ああ」
海岸沿いの風景を二駅楽しんで、海水浴場近くの駅で降りた。
電車ですっかり冷えたからだは、遮るものがなくジリジリと照りつける日差しをぐんぐんと吸って、あっという間に汗がじわりと滲み出てきた。だがそれも、どこかで鳴いている蝉の声も、ベタつく潮のかおりも、絶え間なく聞こえる波の音も、どれもが心地よかった。
「気持ちいいね、海、綺麗だね」
「綺麗だな」
「消太さん、ありがとう」
「どうして」
「すごく楽しいから。一緒に綺麗なものを見れたから」
海を反射したような淡い碧を写す瞳をうっすらと潤ませ微笑む彼女は、なんと言い表せばいいのかわからないほどに美しかった。ツバの広い白い帽子が彼女の代わりに瞬きをする。
「それだったら、俺も礼言わないとだな。ありがとう」
「ふふ、消太さん大好き」
彼女はそう言って、腕に抱きついてきた。
「俺も好きだよ」
軋みながらも満たされていく、そんな感覚だった。
時期を過ぎた海は海水浴客もまばらだ。貸し出されていたビーチパラソルの下でしばらく海を眺めた。ちらちらと光る水面の残像が瞼を閉じても残る。それを彼女は、目を閉じても海が見えるね、と言っていた。彼女だとそういう考えになるのかと感心する。
眺めている間、海の家で買ったラムネを飲んだ。
たまに話をしたり、交互に横顔を見やったり、砂の上で指を絡ませたりして過ごしていると、空の色が柔らかくなってきた。
ビーチパラソルを返して、砂浜を歩く。波が寄って濡れた砂に足跡がつくのが気に入った彼女は、後ろ向きに歩いている。俺はその小さな足跡の横を歩いた。
歩幅が段々と短くなり、ゆっくりになって、やがて止まった。
他の音が遠く、波の音だけが近い。
今、この綺麗で平和なまま時間が続けばいいのにとあり得もしないことを願ってしまうくらいに俺は若かったし、現実味のない儚さに酔いしれるくらいの感情が自分にもあることに安堵した。
「まだ帰りたくないね」
眩しさに目を細めた時、彼女が小さくて平たい白い滑らかな貝殻を拾いながらぽつりと呟いた。いつもあっさりと帰る彼女が初めて言った言葉だった。
「今日も泊まるか?」
「いいの?」
「いいよ」
帰りの電車から夕陽が海に沈むのを見た。
「まだ
〇〇と一緒にいたい」と言えたのは、「やっぱり今日は私の家に来て」と言った彼女の荷物を取りに一度帰った俺の家の玄関だった。彼女は日中の熱を残した熱いからだをくっつけ、「私もだよ」と言って、背伸びをして触れるだけのキスをした。潮のかおりがする。海の光がちらちらと瞼の裏によぎって眩暈がする。蒸し風呂のような部屋の中では本当に溶けてしまいそうだった。
「こういうのをしあわせ、と言うんだろうな」
「溶けてしまいそうだね」
その日も夏の夜のにおいに包まれて眠った。同じ感覚に喜びを覚えながら。