五話 出口のない迷路の中で
撫でた彼女の上気した頬は、じんわりと汗ばんでいる。
とろりととけた瞳に、息をするたびに上下するしっとりとした胸。俺を受け入れる華奢なからだ、繊細でしなやかなこころ。甘い声も、滑らかな髪も、彼女の全てが愛おしい。愛を囁けば、細い腕を絡ませ、余すことなく愛を返してくる。
彼女といると幸せだと思う反面、水分を多く含んだ果実をじわじわと握りつぶすような不安感と切なさの温度差に眩暈がする。これは付き合い始めてからずっと肋骨の裏側に張り付いている。俺の心はこんなに触りづらい場所にあるのかと歯痒い。
彼女が視て、それを告げてから2年が経った。俺たちは変わらず愛を育んでいる。
すうすうと子猫のように小さく寝息を立てて眠る彼女の横で、俺は彼女のことを想う。
付き合い始めた頃、未来を変えようとしたことはないのか、誤差はあったりするのか、と聞いた事がある。彼女は、どちらの質問にも弱々しく首を横に振った。彼女の個性は自分と対象の相手の二人の未来が見える。それを変えようと動いたところで、どこかで辻褄が合うだけで結末は変わらないという。そして動いたことで関係のない人や場所に皺寄せが来るのが怖いとも言っていた。青い顔をして声を震わせ話す姿に、悪いことをしたと抱きしめることしかできなかった。結末を無視するのも同じ理由で試したことはないらしい。
個性発動時は、見間違いもないほど鮮明に映像として脳に焼き付くと言っていた。音声はないものの、口唇術で何を言っているのかを読み取るそうだ。弱々しくぽつりぽつりと話す姿に、これは本当のことなのだろうと心の内で納得した。
今でもデザイン事務所に勤めながらもヒーローとして警察と一緒に事件を追ったりしているという。俺とはまた違う、アングラヒーロー。
美しい彼女の中には、凄惨な事件や、本当ならば知りたくも聞きたくもない記憶が残っているのだろう。捜査するには視たものを警察に事細かに伝えなければならない。それは残るというより、強固に記憶に刻まれているのかもしれない。抱きしめることしかできなかったあの日の言葉も、実は…。任務中、視た未来が良くないものだったらどうする。彼女が伝えた事を回避しようとするはずだ。だとすれば、彼女が怖がっていたものはもっと大きな…。
「ひどいことばかりじゃないのよ、それは消太さんも知ってるでしょ」と言う彼女は尊敬するほどに強い。
それでも彼女は、自分のことを弱いと言う。それは初め、ヒーロー活動を制限していることに引け目を感じているからだと思っていた。全て俺の憶測でしかないが、彼女が背負うものは思っている以上に重い。それでも市民を、社会を守ろうとする彼女は弱くない。弱いはずがない。自分を守ったっていい、そう伝えたいのに、全てを知るわけではない俺が、守られている俺が彼女に言える言葉なんて。
閉じられた瞼の長い睫毛が影を落とす。その下のクマをそうっと撫でた。
彼女はあの日、直接命には関わらないと言っていた。憶測が当たっていれば、変えようとしたり無視をすれば、どちらかまたはどちらともの命に関わるということなのだろう。それでも彼女との別れを受け入れなければならないという事実に呼吸の仕方を忘れそうになる。
彼女は別れの日も原因も会話も何もかも知っている。知っているのに言えない。耐えきれず伝えられる範囲で言ったのがあの一言。それ以上聞くことはできない。無理矢理聞き出したところで不合理な事ばかりを考え、彼女が隠していた優しささえも無駄にしてしまう。残りを知る彼女にとってそれはつらいことだろう。それならば、今までと変わらず、最後まで幸せで満たしていくことにしよう。
笑っていてほしい。生きていてほしい。
肋骨が軋み、息が浅くなる。
「……消太さんは、泣き虫さんだね」
緩やかに開かれた瞼に、睫毛が淡く揺れた。赤子をあやすような柔らかい声と温かい手が頬に触れる。あまりにも優しくて、苦しくて、溢れるものを止めることができなかった。