四話 春の日差しの中で
お茶を飲もうと冷蔵庫を開けた。いつもの位置にバターが無い。
明日の朝、トーストに塗ろうと思っていたのに、すっかり忘れていた。私ひとりであればジャムでもよかったのだけれど、カリカリに焼いたベーコンと黄身が半熟の目玉焼きを乗せて、それを彼と食べたい気分だった。あとはサラダと、ヨーグルトにフルーツを入れたりして、ありきたりなきらきらした朝ごはんを一緒に楽しみたいと思っていたのだ。
彼は、私といるといろんな色が見えて新鮮だと言っていた。どういう事だろうと思ったけれど、恋をするとなんでも輝いて綺麗に見えるっていうあれだろうか。柄にもなく可愛いところあるんだなと思いながら昼寝中の彼の、まだ少年さが残る寝顔には不釣り合いな、髭の生えた柔らかい頬をつついた。
「消太さん、消太さん」
「ん、どうした」
「おはよう」
「おはよ」
日当たりの良い窓際にクッションを枕にして寝ていた彼は、のそりと起き上がりながら、くあっと大きな口を開けてあくびをした。まだ眠そうにぽやぽやと瞼を瞬かせている。癖っ毛の黒髪はあっちにこっちにと騒がしく跳ね回っていて、どうすればそんな寝癖がつくんだろうかと、一番高く跳ねている髪をよしよしと撫でて落ち着かせる。
「消太さん」
「なに、どうしたの」
「バター切らしてたの忘れてた」
「買いに行くか」
「うん」
彼は立ち上がって、部屋着を脱ぐとソファの背もたれに掛けた。ハンガーにかけてある黒いデニムを取って、長い脚を曲げて履く。
洗濯した彼の七分丈の黒いTシャツがベランダで私の服と一緒に揺れている。ダイニングのカウンターテーブルに置かれた、ころんとした形が可愛らしい色違いのマグカップ。ソファに置かれた彼の好きなミステリー小説には丁寧に栞が挟まっていて、猫のしっぽに見立てた黒いリボンが優雅に垂れている。その横にはいつもの目薬。広くもない部屋をくるりと見渡すだけでも彼の存在を感じる事ができて、そしてそれはなんだかこそばゆい。
「準備しないのか?」
もっさりした髪をかき上げ、無造作に後ろで一つに束ねた髪は寝癖を上手に嗜めている。それだけなのに色っぽくて様になるなんてちょっとずるい。
「するよ。ちょっと見惚れちゃったの」
はいはい、なんて言いながら玄関に向かう彼は、耳たぶを触っていて、照れてるんだなと顔が緩む。付き合い始めて二年が経とうとしていた。彼は一目惚れだって言っていたけれど、私もすっかり彼に惚れているんだと自覚する。だって、たまに見かけていた同じアングラヒーローがこんなにも穏やかで優しい人だなんて思ってなかったから。
彼の仕草ひとつひとつにドキドキして、こころが踊って、いつの間にかこんなにも好きになっていた。
春先の昼下がり、恋人と近所のスーパーへ買い物へ行く。なんて幸せなんだろう。
「顔、緩みっぱなし」
「しあわせだなあって思ったの」
靴を履いて、狭い玄関で目が合えば、彼の黒い瞳が金色に輝いて私を見つめる。彩虹が淡く変わっていくのを、とくとくと鼓動をはやめながらも安心するような申し訳ないような、そんな複雑な気持ちで見ている。夢の中で走っている感覚。それでも幸せだと思うあたり、私も浮かれているのかもしれない。
瞼を閉じれば、触れるだけのキスをして、玄関のドアを開けた。
スーパーで買い物を済ませた後、近所の公園を散歩することにした。
肩に落ちる日差しがあたたかい。頬を撫でる風はまだひんやりしているけれど、瑞々しいにおいがして甘酸っぱい。
繋いだ彼の手のひらはさらりとしていて、使い込まれた皮膚の厚い指が、私の手をくすぐる。
「不合理が多い世の中だが、
〇〇がいるのなら悪くないって思えるよ」
「それはどういうこと?」
彼は、わかってるくせに、と唇を尖らせて、ふいと反対を向いた。そのツンとした唇が見たくて同じ方を向く。
枝の先まで葉を茂らせた大きな木が等間隔に並ぶ広い芝生で子どもたちが元気に走り回っていた。何処からか飛んできているシャボン玉を追いかけているようだ。こちらにもふわりと飛んできて、頭の上を通り過ぎる。
ここが風の通り道かのように、また数個飛んできて、どこまで行くのかとそれを視線で追いかけた。揺れる私のからだを彼がぐっと惹き寄せて名前を呼んだ。そして今日の日差しと同じ穏やかな声がさらりと風に乗る。
「
〇〇の隣は息がしやすいってこと」
「ごはんが美味しかったり?」
そう、と彼は言って柔らかく微笑む。
髪を結んでいると表情が良く見える。優しく下がった眉と目じり。緩やかに上がった口角。薄く開かれた唇。正面は見れないので横顔をこれでもかと見つめる。
「うふふ、じゃあ今日は消太さんが好きな煮込みハンバーグにしよう。バターも買ったし」
「俺も作るよ」
「消太さんの大きな手で捏ねるとあっという間だものね」
「帰ろうか」
「帰ろうね」
公園をぐるりとまわって、家路につく。
飴色の遊歩道に伸びて重なる影が嬉しくて、嫉妬して、彼にくっついて歩いた。歩きづらいよ、と言っていたけれど彼も離れようとはしなかった。