三話 何もない部屋にて
初夏の新緑が眩しく、透き通るような瑞々しい空気が心地良い日。
ヒーローとして駆け出しだった俺は、非番の日の朝、そろそろ夏用のコスチュームに替えなければと確認したところサイズが合わず、デザイン事務所に連絡した。
その日のうちに届けるとのことで、待機していると、11時頃インターホンが鳴った。連絡してからまだ数時間しか経っていない。さすがに違うだろと思いながらも玄関のドアを開けると、俺よりも少し年上くらいのスーツ姿の女性が立っていた。
開けたドアと同時に入りこむ、きらきらとした光。差し込む日差しなのか、彼女自体が輝いているのかわからない。眩しかった。
大事そうに抱えるアタッシュケースのわきにはなぜか大きな花束。大小の白い花に、所々散りばめられた黄色い小さい花、そして様々な形の葉の花束は、とても彼女に似合っていた。
「初めまして、イレイザーヘッドさん。夏用のコスチュームをお持ちしました」
彼女は、目を合わせたかと思うと、ふいに視線を下げ、柔らかく微笑んだ。茶色い虹彩がほのかに碧みがかった瞳だった。淡く揺れる睫毛は長く、目を奪われた。これが一目惚れというやつか、と柄にもない事を思った時、俺の何もない部屋に爽やかな風が吹き抜けた。
「あの、イレイザーヘッドさん?」
「あ、はい。ご苦労様です。早くて助かりました。確認するので、上がって待っていてもらえますか」
「わかりました。それでは、お邪魔します」
丁寧に靴を揃える彼女に、その花束は、と聞くと、「3年越しの人助けです」と的を得ない言葉が返ってきた。
ケースを受け取り、脱衣所でコスチュームを確認する。仕様書を見ると、サイズだけでなく細かく色々なところが変更されているようだった。布の強度を上げ、通気性も改善した、と大まかにはそんなところだ。サイズも問題ない。
「お待たせしました。サイズ大丈夫でした。細かな変更もありがとうございます」
「イレイザーヘッドさんはこだわりがないようで、その実あるとお聞きしたので、大幅な変更はせず、よく生地が薄くなったりお怪我をされるところの強度を上げさせていただきました」
すっと背筋を伸ばし正座をした彼女が、にこりと笑いながら淡々と業務的な内容を言う。
「では、私はこれで、…い、イレイザーヘッドさん?」
まだ彼女を見ていたい、声を聞いていたい。気づけば、立ちあがろうと床に着いた彼女の手を掴んでしまっていた。俺は何をやってるんだ。彼女だって困って俯いているだろ。俺の手にすっぽりと覆われていた華奢な手を慌ててすぐに離す。
「す、すみません。突然触れてしまって」
「いいえ、大丈夫です」
あの、と俺と彼女の声が重なり、同時に視線が絡まる。また、ふいと視線を下げた彼女が、「すみません、イレイザーヘッドさんからどうぞ」と言った。怖がらせてしまったかと思ったが、柔らかそうな白い頬は薄らと赤く染まっていて、少しだけ安堵し、心臓が跳ねた。
「俺、あなたに一目惚れしたようです」
「………え?」
「あなたが言いかけた事お聞きしてもいいですか?」
「あ……はい。お会いできて嬉しかったです、とお伝えしたかったんです」
「そうですか。付き合いませんか、俺たち」
また目が合う。やはり綺麗な瞳だった。だがすぐに逸らされる。それでも、ふわりと上下する睫毛を見るのは好きだと思ったし、凛とした立ち振る舞いや、春の木漏れ日のような柔らかい空気感、彼女の存在を美しいと思ってしまったのだ。
綺麗、美しいとは程遠い環境に身を置いている俺のないものねだりのようなものかもしれない。
「…え、と、初対面ですよ」
「だから一目惚れだって言ってるじゃないですか。ダメですか」
「ダメって…何も知らなさすぎませんか、お互いに」
「これから知っていけばいいだろ」
長い睫毛の下で、碧みがかった瞳が泳いで、困ったようにぱたぱたと数度瞬きした後、彼女は小さな声で「よろしくお願いします」と言った。
その日の夜、彼女の仕事が終わるのを待って、またこの部屋に招き入れた。彼女は俺のコスチュームを担当しているだけあって、ヒーローとして公表している程度の事は知っているようだった。
たわいもない話が続き、しばらく口を結んだ後、彼女は「目を見て話せなくて、ごめんなさい。印象悪いですよね」と言った。気にしているという事は、理由があるという事だ。彼女が気にしているのならばどう向き合えばいいのか知っておきたい。
「俺は気になりませんでしたけど。事情があるんですね」
こくりと頷いた彼女が自身と個性の話を始める。
見つめた相手の未来が視えるという個性で人の役に立ちたいと、警察と秘密裏に動く捜査系のヒーローとして活動していたものの、心の限界が先にきてしまい、それ以来は要請の回数を制限し、自身のコスチュームを担当してくれているデザイン事務所で主に働いているとのことだった。
未来が視える個性。日中の『3年越しの人助け』という言葉にも合点がいく。
警察に出入りする俺を見たこともあったようで、自分と同じ『みる』個性の俺の事が気になっていたらしい。
彼女もまた俺と同じアングラヒーローだったのだ。
だったらこの気持ちは、ないものねだりではなく、憧れか。それほどに彼女の纏う空気は凛としていて汚れがない。息がしやすい。
「そういう理由があったのか。俺の個性は知ってますよね」
「はい」
「消すので、俺と話す時は目、見ても大丈夫ですよ」
伏せられていた睫毛が上がり、大きな瞳がくるりと動く。不安そうにからだを縮める彼女に近づき、爪が食い込むほど固く握られた手に、そっと手を重ねる。震えるからだに、それほどまでにこころを擦り減らしてしまうものかと彼女の計り知れぬ苦しさに眉間に力が入る。
個性を発動させ、彼女を見つめると、ぴくりとわずかに動いて、握られた拳が少しだけ緩んだ。
「視えない、です。未来を視てしまうと思うとひとの目を見るのがいつも怖くて……。嬉しい。安心して見れます。イレイザーヘッドさんが初めてです」
にこりと微笑み、細められた目からは涙が溢れる。
今までの彼女の痛みを思うと、ぐっと喉が締まった。俺の頬に細い指が伸びて、自分が泣いていることに気づいた。
「イレイザーヘッドさんの涙、あったかい」
「相澤消太です。名前」
「自己紹介すらまだでしたね。私、
◇◇〇〇と言います。ふふ、色々と順番がバラバラですね、私たち」
「敬語もなしにしよう。俺は
〇〇の近くにいたい」
「うん、私も……消太さん」
「ん、そっちのほうがいい」
彼女と話すたび、知るたびに惹かれていく。
瞬きをすれば淡く揺れる睫毛を、儚いものを愛しむように何度も見ていた。