二話 喫茶店にて
早めに着いた喫茶店でブレンドを注文して、座っている真紅のソファベンチのベロア生地を撫でていた。
少し入り組んだところにひっそりとある、赤レンガに墨色のアイアンの窓枠がレトロな純喫茶。彼と付き合う前は一人でもよく来ていて、今では待ち合わせや休憩するのに訪れている。ロマンスグレーの髪と髭が魅力的なマスターの所作は本当にうっとりする。マスターと店と共に時を刻んできたであろう柱時計のカチコチと温かみのある音が心地よく、時間がゆっくりと流れているような不思議と懐かしさを感じる空間を彼も気に入っていた。
そうっとカップに唇を付けてみたけれどまだ熱くて、一口も飲まずソーサーに戻す。手持ち無沙汰に、またソファを撫でる。流れに沿えば毛並みが揃って艶々と店内を灯すスズランを模したシャンデリアの暖かい灯りを反射する。それを逆に撫でるとちくちくと逆立って影が落ち、濃ゆくなる。まるで私のこころのようだ、と撫でてしまえば消えてしまうそれを何度か繰り返した頃、もう一度カップに口を付けて、コーヒーを飲んだ。
カランコロンと店のドアベルが鳴って、少し髪が乱れた彼が入ってきた。今日は風が強かったのだ。マスターのお孫さんだという真っ直ぐな黒髪を後ろで一つに結んだ女性の店員に待ち合わせだと伝えると、その場で注文を済ませ、迷う事なく私の方へ歩いてくる。
「待たせたな」
「ううん、早く来すぎただけ。消太さん、時間ぴったりだもの」
鼻にかかる前髪を耳にかけながらすまなさそうに言う彼に、私は店内に優しく響く柱時計の音を知らせた。
「私、待ってる時間、好きなのよ」
「純粋に待つのが好きなのか、俺のことが好きなのかわかりにくい言い方だな」
「それはもちろん消太さんが好きだからだよ」
彼は、柔く口角を上げ、ふと鼻で笑った。
お待たせしました、とコーヒーを置く店員にお礼を言って、去るのを待つとまた私に話しかける。
「今日はどうした。改まって」
「消太さん、熱いのによく飲めるね」
私は、彼の行動に驚いたふりをして、話題をそらした。彼のカップからは、ゆらゆらとのぼる湯気がまだ見えている。それでも彼は、ふうと冷ます事なく、一口啜ったのだ。
「やけど、しないの?」
「しないね」
に、と薄く歯を見せて笑った彼は、「おまえ猫舌だからな」と言って、私のカップを指で撫でた。もう飲めるんじゃないのか、と言いながらもう一口啜って、私も彼と同じ味で口内を満たした。私のこころをも見透かすように、酸味を抑えたフルーティな苦味が二人の間に漂う。彼がカップから唇を離す前に、何か話さなくては。
「今日の消太さんの服、綺麗な緋色だね。黒のジャケットに良く映えてる」
「ん?ああ、デートの時くらい、らしい格好しろよってどっかのうるさいDJが言ってたからな。おまえもイチョウみたいな色のカーディガン似合ってるよ」
「ふふ、ありがとう」
落ち葉に寝転んでしまえば二人ともすっかり隠れてしまうんじゃないか、なんて冗談を言っていると、柱時計がボーンと一度鳴った。
ふと会話が止まって、先に口を開いたのは彼だった。
「もしかして視たのか?」
彼は、話をはぐらかす私の指先を手に取り、淡いベージュを塗った爪を親指の腹で往復する。皮膚が厚くなった指先からは優しさが伝わってくる。低く柔らかい琥珀色のような声がざらざらした私のこころをそっと包み込む。
「ごめんなさい」
「いや油断していた俺も悪かった」
目を逸らさず15秒見つめると、自分と相手の未来が視えてしまうという私の個性。愛し合う恋人同士が見つめ合うこともできないなんて、と嘆いていた私に、彼は「俺の個性で打ち消すよ」と黒い瞳を黄金に輝かせてくれた。ただ好きな人を見るだけなのに、お互い個性を使うだなんて変だね、って笑い合ったりもした。
良い事も悪い事も関係なく、今なのか、何年先かもわからない不確定な同じ季節の未来。それが視えてしまう。
と、彼には私の個性についてそう伝えている。隠し事の多い私を受け入れてくれる彼を私は騙し続けている。
「言いづらい、事なのか」
「大丈夫、直接命に関わることじゃないから安心して。ただ…」
「ただ…?」
「私たち、別れちゃう。救いなのは二人の服が今日のものと違ったってこと、だけ」
本当は全てわかっている。仕事だとどんなに酷い未来を視たとしても落ち着いて淡々と伝えることができるのに、こころに、頭に、残しておくことに耐えきれなくて、言うことを選んでしまった。彼を目の前にすると記憶がフラッシュバックして、何度も繰り返し頭の中で練習した二言、三言しか言えなかった。私を責めたりせず、むしろ防げなかったと自分を責めてしまう彼に罪悪感がどんどん募っていく。
彼は驚いた顔をした後、私を安心させるためか眉を下げ、ぎこちなく笑う。
お願い、そんな顔しないで。こんな選択しかできなくて、弱くてごめんなさい。
「……どうして…は、言えないか」
「悲しい別れではない、はずなの。上手く伝えられなくてごめんなさい」
「まだ何年先かもわからないんだろ?過去も未来も変えられるんだ。そんな気持ちでいたら視えたものと同じ結末になってしまうよ」
こんな言葉は無意味だと彼もわかっているのに、全く彼らしくない言葉が私の心を砂糖ひと匙分軽くする。
大丈夫、と握ってくれた手は大きくて温かくて、いつもの彼の手だった。でも少しだけ、震えていた。