最終話 隠し事の先には
店を出ると、甘さを含んだ肌を撫でるような冷たい風が吹いた。吹き抜ければ、低くなった太陽からの暖かい日差しがからだを包み込む。
場所を変えようと言ったのは、彼女だった。ハンカチを下げた後、「少し歩いて、外の空気を吸いたいな」と言った。
人の波を通り過ぎ、ビル街を抜けると広場のようなところに出た。平日はここで昼食をとる会社勤めの人で賑わうのだろうが、今日は家族連れが多く、シートを敷いて思い思いに団欒をしていた。ひとの笑顔が、笑い声が溢れている。ヒーローとして、いち市民として、この平和が続くようにと願わずにはいられない。そんな穏やかで和やかな時間が流れる場所だった。
広場を見渡せる、少し段を上がった所に置かれた木製のベンチに座った。木漏れ日が花崗岩のタイルにちらちらと揺れる。それに合わせて聞こえる木々の乾いた音が落ち着く。ひらりと落ち葉が舞う。
「ここの時間、ゆっくりだね」
「そうだな」
「相澤くんの言葉に、簡単って言ってごめんね」
そう言って、「時間も権利もあるよ。そのために生きてきたから」と続けた。にこりと一度微笑んで、俺からの返事を待つかのように、前を向いた。
「どんな英雄だって、全ての命が救えるわけではないんだ。もちろん俺も」
彼女は、小さく、うん、と頷いた。
手の届く範囲を見誤れば、救える命も、自分の命も危うくなる。だからと言って割り切れることではない。それは誰だってそうだ。この手からこぼれ落ちた命に後悔しない日はない。彼女の場合は原因が自分にあると思っているからこそより辛いのだ。
「
〇〇は正しいことをしていたよ。だが、奪ってしまうことに耐えられなかったんだよな。
〇〇が自分を許せないと思っているなら、俺が許すよ。俺は、
〇〇が生きていてくれて嬉しい。今日、会いに来てくれてありがとう」
「……消太さん……」
「気づいていたならこう言うべきだったんだ。遅くなってすまない」
彼女は、茶色い虹彩がほのかに碧みがかった瞳が歪んで見えるほど涙を溜めて、「ありがとう」と言った。
「私、あなたの優しさに甘えていたの。何も言わず、抱きしめてくれた。隠して…騙しているのに、それに気づいていても必要以上に聞かない、聞かれないことに安心して……こんなにずるくて弱い私なのに、優しいあなたの側にいたいと思ったの」
「俺はそれでもよかったんだ。
〇〇は弱くない。言っただろ。柔軟でしなやかなんだって。そこには芯があるから絶対に折れたりしないんだ。とても強いと俺は思うよ。俺こそ
〇〇の背負うものを気づいていたのに、聞きもせず知ろうともせず、最後までひとり辛い選択をさせてすまなかった」
「ううん、本当の私を知っていたのに離れずにいてくれてありがとう、受け入れてくれてありがとう。生きていてくれてありがとう。私も今日、会えて嬉しかったです。ずっと、ずっと待っていたから」
涙を拭い終わった彼女は、少し晴れやかな顔をして微笑んだ。彼女が笑うたびに、まわりの空気が澄んで、ぼんやりとした風景に輪郭が戻る。すっきりとどこまでも見通せるようだった。
「やっぱり
〇〇の隣は息がしやすいな」
「あなたの隣だといろんな色が見えるわ」
よく覚えてたな、と言うと、忘れたことなんてなかったわよ、と少女のように笑った。恥ずかしいから忘れてくれ、と手で顔を覆い、指の隙間から彼女を覗く。無理よ、記憶力には自信があるの、と胸を張っていた。
『飽きるって書いたひともいれば、秋に会う男女の約束を書いたひともいて、天候の変わりやすい秋の空をひとのこころに例えることもあるし、秋って奥が深いねえ。確かに物悲しくなったり人肌恋しくなったりするものね。空気が柔くなるからかしらね。それもあっという間で急に寒くなったりするものだから、熱が冷めたりするのかしら』
彼女の家に行った時に読んでいた小説の一節にあった言葉に、感慨深げに話す彼女が印象的だった。秋、というだけでこんなにもすらすらと思いを馳せることができるものなのかと、読み終わった後も、なんとなく栞をそこに挟み続けていた。
彼女から貰った栞だった。
数年一緒にいたが、何かを貰ったのはそれだけだった。手元に残っていないということはあの時捨ててしまった紙袋に入っていたのだろう。
「呼び止めた時に
〇〇が言った言葉なんだが」
「この本の一節でしょう?」
私の家で読んでいたものね、と彼女が書店の袋から覗かせたのは、手離した本だった。
「相澤くんがどんな本読んでるのか気になっていたけど、ずっと栞挟まってたし、読みかけなんだろうと思って。今日ならもう読んでもいいかなって買ったの」
「ああ、それはもうとっくに読み終わってたんだ。
〇〇の話してたことが印象深くて、そのページに挟んだままにしていたんだよ」
そうだったの、と言って、本へと目線を落とした。長い睫毛がふわりと上下する。
「秋の契りかあ。約束はしてなかったけど」
「約束みたいなものじゃないか?なあ、名前、さっきみたいに呼んでくれないのか」
「誰の?」
「俺の」
何の事かわからない、と目を丸くする彼女に、自然と笑いが込み上げる。
俺を見て、彼女も、ふふと柔らかく笑った。とても美しかった。
「今日、消太さんに会ったのはこの時間を過ごすためだったのね。一生分の幸せな言葉を貰ったみたい。とってもこころが軽いの」
一緒に過ごした間の、離れていた間の長い長い答え合わせが今できたように思う。たった一言でも言えていれば何かが違っていたのかもしれない。だがそれは、互いに今だから言えることなのだと思うことにしよう。
真っ直ぐと俺を見つめる彼女は新鮮で、まだ知らないことがたくさんあるのだと気づかされる。
膝に置かれた彼女の手にそっと重ねる。包まれた手が僅かに動いて、彼女は俺の手に、片方の手を重ねた。懐かしい、愛しい体温だった。
「結婚しよう」
「……あなたはいつだって突然言うのね」
「ダメか?」
「きっと私、消太さんのそれに弱いのよ」
くにゃりと眉を下げ、泣きそうな顔で微笑む彼女は、「嬉しい」と言った。
重ねた手が、指が自然と絡まる。
もう離さない、と込めた指先に彼女も応えるように、ぎゅっと握り返した。いつだったか、こういうのをしあわせというのか、と思ったことがあったが、きっとこれもそうなのだろう。二人の手に落ちる木漏れ日がちらちらと揺れて、祝福の拍手をしているようだ。
「これからどうする」
「帰ってこの本でも読むわ」
「隣に居ても?」
「もちろん」
隠し事のない彼女をもっと深く知ろう。隔てるものなどないくらいに。
彼女の言葉を深く聞こう。その先の意味を知るために。
「なあ、今日のことはどこまで視えてたんだ?」
「それはね、……」
再び同じ未来へ向かって、二人、ゆっくりと歩き出した。
愛を伝えるのは、本を読んだ後からでも、遅くはない。