十話 カフェにて
変わらずミステリーが好きなのね、と彼女は振り返らず歩きながら話す。
髪が短い。出会った頃と同じくらいだろうか。最後に見た後ろ姿は腰ほどまでに髪が垂れていた気がする。あれから5、6年程経ったのか。今の今まで思い出すことすらなかったのに、今更それを思い返す事は許されるのだろうか。咄嗟に追いかけたものの、彼女と会話を続けることができなかった。
「泣きそうな顔ね」
「……いや、別に…」
返事をしない俺を怪訝に思った彼女が隣を歩く。よく見れば、服装も化粧も仕草も少女さが抜けて、大人の女性になっている。久しく感じる胸の軋みは呼吸を浅くさせた。加えて動悸。切なさと同時に、あの爽やかに吹き抜けた初夏の風と同じ気持ちがせめぎ合っている。
おそらく、いや、確実に俺はまた恋に落ちている。
一目惚れ、とはまた違うか。もう惚れているのだから。
だが己の勝手さに嫌気がさす。
「今度は難しいこと考えてる」
「え?」
「眉間のシワ」
彼女の指差す先に手を当てると、きつくシワが寄っていた。
「相澤くん」
……相澤くん、か。
「なんだ」
「声かけたこと、後悔してる?」
休日の繁華街は人が多く、流れに沿うように、目的地などなく、ただただ歩いている。
「……戸惑って、いる」
「そっかあ」
そうだよね、とぽつりと続けた彼女の顔に影が落ちる。見下ろす彼女の、はたりと瞬かれる長い睫毛がやけに遅く感じた。
間違えた。戸惑っているのは自分の感情で、声をかけたことではない。彼女はこの日の事をどこまで知っているんだ。ひとり辛い思いは、もうさせたくない。
「悪い、違うんだ。
〇〇に会えたこと、嬉しいと思っているよ」
うん、とまたぽつりと言った。
「時間、あるか?」
話がしたい、お茶でも飲まないか、と誘うと、彼女は少し悲しそうにはにかんで頷いた。
甘いにおいのする風がふわりと吹いて景色の輪郭をぼんやりとさせた。
駅近くの座席数の多いカフェの奥まった席に向かい合って座る。二人ともホットコーヒーを頼んだ。
「さっきは咄嗟に返せなくてすまなかった」
「ううん、戸惑うよね。今更どうしてって」
「そういう意味で言ったわけじゃない」
程よく騒ついた店内が緊張を解かせ、あれだけ重かった口を開くことができた。
お互い目線は手元にあるコーヒーの入った紙コップで、彼女は温度を確かめるように触ったり離したりを繰り返している。
「俺は、
〇〇が……あの頃とは雰囲気が変わっていて…いや、
〇〇のことを忘れることなんかできなくて、全てに蓋をしたんだ。忘れていたことになるよな、すまん」
「変わらず真っ直ぐで、安心する。それは私がそうしてってお願いしたのよ、謝らないで。守ってくれてありがとう」
そう言って笑った顔は思い出した記憶の中の彼女と同じだった。この笑顔をどうして忘れていられたのか今になってはわからないほどに俺の中は彼女との記憶で溢れかえっている。出会い交わした言葉も、別れのその瞬間でさえ。
「私ね、相澤くんが最後に部屋に来た日、視てしまったの。これが最後だからって」
本当、懲りないよね、相澤くんが思ってるほど強くなくてごめんね、と今度は彼女が謝った。
「そんなことない。
〇〇こそ謝らないでくれ、あの時そうすることで当時の
〇〇が救われたなら俺はそれが正しいと思うよ」
「……うん、ありがとう」
彼女は悲しそうに微笑んで、「誰でも未来が視れるわけではなくてね、先で私と関わりがないと視えないの」と続けた。
それが今日、あの本屋だったのか。視えて彼女はどう思ったのだろうか。数年後俺とまた会うということを知っていて、今日までどんな思いで過ごしていたのだろうか。いや、俺を思って過ごしていたわけではないだろうが。彼女が未来を変えたくないから視た通りに動くと前に言っていたじゃないか。自分は忘れていたのに都合良く解釈してどうするんだ。
それでも、と思ってしまう自分が嫌になる。
「髪、切ったんだな」
「視た時わかりやすい目印みたいなのがあると便利でしょ、だから5年おきに切ってるの」
「そうだったのか、知らなかった。初めて会ったときと同じ長さだ」
よく覚えているわね、と言ってコーヒーを啜った。まだ熱かったらしく、「あつ」と小さく言ってすぐに置いた。猫舌なのも変わらないらしい。これも言えば、そんなことも思い出したのかと言うだろうか。
「話してないこと、話せなかったこと、たくさんあるもの」
「それを埋める時間、改めて聞く権利は俺にはあるだろうか」
「それは…」
一瞬驚いたように俺の顔を見て、すぐに目線を手元に落とした。
「すまない。また俺は、」
「私ね、ヒーロー辞めたのよ。髪だって本当はもう自由にできるの」
がっかりした?私、相澤くんが思っているようなひとじゃないのよ。だからそんなこと言ってもらえる立場でもない。きっと話を聞けば、今日私を呼び止めたことも後悔するかも、と遮ることを拒むよう一気に話した。
「俺は…
〇〇のそういうところが好きだよ。強いとか弱いとかで表すのは簡単だが、柔軟で、繊細でしなやかな、そういう
〇〇の芯のあるこころに惹かれていたんだ。
〇〇がなにを選んだとしても失望したり、ましてや嫌ったりなんてありえないよ」
「……そんなに簡単に、言わないで、よ」
「簡単に言ったつもりは…俺、
〇〇の個性について、おそらく気づいていたんだ。ごめんな」
「うん、そんな気がしてたよ。謝らせてばっかりだね、ごめん」
俺は、いや、と首を横に振った。お互いに謝ってばかりだな、と言えば、そうね、と彼女は柔く口角を上げた。
それから彼女はゆっくりと話し始めた。
「本当はね、個性発動にかかる時間、3秒なの。私がカウントして3秒間。カウントしなければ発動しないの」
「…ああ」
「ひとの目が見れないのは、個性のせいにした私の弱さなの」
それにね、と申し訳なさそうな顔をした彼女がぬるくなったコーヒーの紙コップを撫でながら話を続ける。
「視える未来もね、細かくは無理だけどどのくらい先かは調整できるの。10年とかあまり先はできないけどね。視たときと同じ季節というのは本当」
警察と協力しているヒーローが不確定な個性で頼られるわけがない。だが、アングラヒーローともあれば自分の個性を隠すのはおかしなことではなかったし、彼女が話せないことならば、と当時追求しなかった。それが正しいことだと思っていた。
「ちょうど相澤くんと出会った頃、視るのに、ひとの人生を覗いてしまうのに疲れてしまって、ひとの目を見るのが怖かったの」
「ああ、そう言っていたな」
「セーブしていたんだけど、長く追ってた事件に進展があって、そうもいかなくなってしまって。これが最後だからって」
「もしかして4年前に強盗集団の逮捕と表では出ていた事件か」
「知ってたの?」
「全容を知ったのはだいぶ後になってからだけどな。表立ってヒーローが関わった事件ではなかったから」
事件の裏を知った時、数名のヒーロー名を見たが、俺は、彼女のヒーロー名を知らなかった。あれだけ大きな組織の動きに俺が呼ばれなかったのを不思議に思ったが、考えなくてもわかることを、大事なことを忘れていたが故に、知らなかったが故に、あの真面目な刑事さんの場を濁すような愛想笑いを理解できなかった。
「最後に…最後までやり遂げてね、私、最後までヒーローできたんだ、って」
彼女に守ってもらっているときに、俺は彼女を守るどころか…。大事だと思うなら彼女の言う通りにするんじゃなく、もっと知ろうとすればよかっただろ。だが、そう思えるのは今の自分だからだ。彼女の悲しむ姿より笑顔が見れたならと、聞かないことが優しさだと、当時は思っていた。俺が彼女といることで救われていたように、彼女もそうだといいなと思っていたんだ。独りよがりの思い上がりだ。
「話してくれてありがとう。今だから話せるんだよな。頑張ったな」
「…消太さん…」
か細く震える声が、俺の名前を呼ぶ。大粒の涙が握りしめた手の甲にぽたぽたと落ちていく。
「まだ、全部話せてないのに…」
「十分じゃないか。立派にヒーローとして市民を社会を守ったんだろ。それに争うことなく事件が解決するなんて滅多にないことだ。俺も、守ってくれたんだろ?同時にたくさんのヒーローも」
彼女は、うん、と涙を溢しながら深く頷いた。
偶然なんてないと言っていた彼女は、長い睫毛を濡らしながら長年溜め込んでいた思いを丁寧に淡い紫色のハンカチに吸わせる。朝露に濡れた花弁が弾く澄んだ雫を集めているようだった。折り畳まれたハンカチの角に染みが広がっていく。俺は瞬きを忘れ、それを見ていた。見なければいけない気がした。