受けとめて、冬
先生がわたしの手に触れる。
その触れ方も、声も、目も、どれも知らなくて、だけど前から知っているような気もする。わたしだけが知っていればいいのにと、この何もない部屋に焦りと子どもじみた嫉妬がじわりと染み出していく。
わたしが卒業して数年後、雄英高校は全寮制になり、教員も皆、寮住まいとなっているらしい。来年度のインターン受け入れの件で、おつかいを頼まれ、必要書類を渡しに来た半日オフの日の今日。まさに今さっき聞いた。先生と同じ敷地内に住めるなんて…と邪な考えをしてしまったことは内緒。
校舎から徒歩五分。なんて優良立地なのだろう。そして立派だ。全学年、全クラス分等間隔に並ぶ様は圧巻で、ほうとため息が出てしまった。
「ここが一年A組。ここが教員寮。割と近い」
寮になって仕方ないとはいえ、生活部分も見えてしまって、距離が近くなったりするのだろうか、と数ヶ月前、パトロール中に見かけた先生の誕生日パーティの帰りを思い出す。当時、私たちなんて先生の誕生日すら知らなかった。知っていたとして、先生がパーティに来てくれたり、ましてや一緒に出掛けたりなんて想像もつかない。そんな距離感だった。
「ちょっと羨ましいかも」
「何が羨ましいんだ?」
寮の棟を遠巻きに眺めていると、背後から気配もなく声が聞こえた。
「わ、先生はいつも突然現れるからびっくりするよ」
「は?突然現れたのはそっちだろ」
この間といい、今といい、と口調から少し怒っているように思う。
「先生、怒ってる?」
「怒ってないよ、いや、怒っているのかもしれん」
「どっち」
外は寒いから中に入ろう、と教員寮へと案内される。玄関を入ると、広いリビングと食堂のようなダイニングがあって、その奥にはキッチンもある。
「コーヒーでいいか?」とキッチンに立つ先生が電気ケトルに水を入れながら聞く。早速見れてしまった生活感に、ああやっぱり羨ましいな、と思ってしまった。
「おい、聞いてるのか」
「へ?あ、はい!コーヒーで大丈夫です!」
「この間は立派なヒーローになったな、と感心したんだがな」
「し、失礼な!今日はオフだから、気が緩んでるだけですー」
変わってなくて安心したよ、と笑う先生は卒業式の時に見た先生に近い気がした。
マグカップを二つ手に持った先生が「こっち」と案内したのは『相澤』と書かれたドアの前。
え、と、入ってもいいの?もしかして生徒も普通に入れてて当たり前な感じ?
「手塞がってるから、ドア開けて」
「いいの?」
「ここで飲むのか?」
「いえ、そういうわけでは」
こういういじわるな言い方、変わってない。
「失礼します」とドアを開けると「どうぞ」と言いながら先生が先に入り、その後ろを着いていく。
「な、なんもない…!」
「なんもなくはないだろ。机とベッドと冷蔵庫はある」
「それはなんもないに等しいよ、先生」
コーヒーを渡されると、適当に座って、と言われ、ベッドに寄り掛かるようにして床に座った。先生はデスクの椅子に座って、くるりとこちらを向いた。思わず着いてきちゃったけど、うっかり部屋にまで案内されちゃったけど、どうしたらいいの。なんとなく目が逸せなくて、じっと見つめる。
「ね、先生。先生は先生になれた?」
「そうだな。比べるのはあまり好きじゃないが、あの頃よりはなれていると思うよ」
「そっか、じゃあ心配ないね。あんなに生徒たちが安心した顔で、先生、先生って呼んでるんだもん。聞かなくてもわかってたよ。いじわるしてごめんね」
「おまえはどうなんだ。立派なヒーローになれたか?」
「どうだろ。なれたと言えばなれた気もするし、目標は遠いし遠くなっていくから毎日必死で。こんなに遅くなっちゃった」
先生は瞼を閉じると、ゆっくり首を横に振った。
「支え、というのは生きていく上で大事なものだと思う」
「うん」
「でかいのが一本あってもいいし、何本もあって束になっていてもいい、在り方は人それぞれだ」
と、先生らしいことを言うと「俺の場合、後者寄りなんだが、その内の一本はおまえだよ」と続けた。
「いつからだったか、は、もう忘れたな」
また目を閉じると、瞼の裏に思い出が映っているのか、ふわりと微笑む。そこにわたしがいるのだろうか。だとしたら、その優しい顔はわたしに対してのものなのだと思ってもいいのかな。
「わたしは…わたしの真ん中に大きいのがあって、それが先生だよ。入学したときから」
でも、でも…。
「近くなったかと思えば遠くて、遠すぎて、早く早くって思っても先生を想う度、まだかもって思って。あの時は子どもだったな、って」
「その無邪気さ、真っ直ぐさに救われたこと何度もあったよ」
「卒業式の日、言ったこと覚えてる?」
「忘れてない、と言ったはずだが」
しん、とした何もない部屋に、吸う息の、はぁ、という音が響く。
「もう、言ってもいいのかな。自信ない」
思ったより声が震えていて、身体を支えていた掌の感覚がなくなっていく。ことり、とマグカップをデスクに置くと、先生がゆっくり立ち上がり、わたしの前に座る。
「あの時の勢いはどうした」
「だから、子どもだったんだってば」
ニヤリと笑ったいじわるな顔に、わたしもつられて頬を膨らませてしまう。
「先生?」
「ん?」
「こんな風に生徒を部屋に入れるの?」
膨れたついでに子どもじみた嫉妬を吐きだす。
「は?入れるわけないだろ」
「あんなに懐いてる生徒なのに?」
「それとこれとは別だろ」
「なんで?」
なんで、って、とめんどくさそうに唇を尖らせて首の後ろに手をやる。はあ、もうやだ。これじゃあの時より子どもだ。
「ったく。あのなあ、何を考えてるのか知らんが、誰かを部屋に入れたのはおまえが初めてだよ」
「そうなの?」
そうなの、と先生はわたしを見つめる。
生徒を、じゃなくて誰かを、と言うことは、本当に誰も入ったことないのか。へえ、そうなのか。
「なんだよ、むくれたかと思ったら、今度はにやにや笑って」
「んーん、嬉しいなって思って」
「おまえ、仕事中とオフの日の落差激しすぎだろ」
「だって、あの時は可愛い後輩もいたから。成長してないって思った?」
いや、と首を横に振ると「安心したんだよ」と言った。
「先生?」
「今度はなんだ?」
「好きです」
いつの間にか声の震えは止まっていた。こんなにも、どくんどくん、とうるさく心臓は鳴っているのに、指先だけが冷たくて、その冷えた指に、先生の指が触れる。ささくれた固い感触に、ぴくりと指が動くと、大きな手がわたしの手をすっぽりと覆う。温かい掌がじわりと溶かしていく。先生の親指が、すり、とわたしの手の甲を撫でる。くすぐったいのは手なのに、鎖骨辺りがむずむずして、きゅう、と苦しくなる。
手から逸らせなかった目を、もう一度、先生に向けると、並行だった眉を柔らかく下げ、重そうな瞼をとろりと伏せている。短い睫毛が動いて、わたしの目を捕えると「俺も好きだよ」と言った。
その声は今まで聞いた声より低く甘くて、本当に先生かと少し疑って、余韻の残る薄く開いた唇に、やっぱり先生なのだと呑み込んだ。
遅くなってしまった告白は、ふたりの今までを受けとめて、窓の外で静かに降り始めた雪のように、溶けては混ざっていく。
そして、全てが一つになったとき、また春が来る。
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