夏のせい
空が高い。青い。雲が濃い。暑い。風がぬるい。蝉うるさい。
そう、夏!夏なのです。
ドキドキの期末試験最終日の終了を告げる予鈴がなると「やったー!夏休みだー!」と浮かれるクラスに、担任の相澤先生は「浮かれているところ悪いが、残念なお知らせだ。夏休みはない」とヒーローらしからぬ悪い顔をして私たちを絶望させた。
なんのために寝る間も惜しんで勉強したの…実技だって情報収集して対策練ってさ…まあヒーローになるためなんだけども。
「楽しい夏休みのために頑張ろう」って先生言ったじゃん…嘘だったの?
「今から夏休み中の補講の日程を配る」
そう言うと、プリント冊子の束を抱える。
「先生!一つ質問よろしいでしょうか?」
「なんだ委員長」
「楽しい夏休みのために頑張ろうと仰ったじゃないですか、僕たちを謀ったのですか?」
…委員長!みんなが言い出しづらかったことをよく聞いてくれた!とクラスの大半が大きく頷く。
「ん?ああ、間違ったな。すまん。楽しい夏休み中の補講の日程を配る」
先生は悪びれる様子もなく、飄々とわざとらしく『楽しい』を付け加え、冊子を配る。
「そうじゃないんだよぉ〜!海は?水着は?祭りは?花火は?俺の青春はー!?」
「はいはい、静かに。全く休みがないわけじゃない。よく見てみろ」
前から渡された冊子をひとつ取って後ろに回す。中を確認すると、まあ結構なスケジュールで個性伸ばしやら体力基礎トレーニングやらがみっちりと組まれている。
申し訳程度に午後休みが週一、土日も基本的にお休みみたい。まとまった休みはお盆休みのみ。
「お盆休みに帰省するやつは今週までに外泊申請を提出するように」
そう言うと先生は「試験お疲れさん。筆記実技ともに赤点が出た場合、改めて連絡する。今日はこれで解散だ。明日からも気を引き締めていこう」と教室を後にした。
これだけ日程が組まれていると逆に予定が立てやすくありがたい、と思うことにしよう。
寮に帰ると共有スペースに集まり、ショッピングモールに行こう!話題のアイス屋に行ってみない?お気に入りの夏服ファッションショーしようよ!と女子高校生らしい話で盛り上がった。
夏休みに入れば補講は思った以上に過酷で、週一の午後休みが涙が出るほど嬉しくて、帰ってお風呂を済ませると夕飯の時間まで泥のように眠った。あれだけ楽しく立ててた予定は半分どころか一つもクリアできてなくて、せめてアイスだけは食べに行こうね、と固く誓い合った。
「うぅ、今日の個性伸ばし訓練も死ぬかと思った…」
恵みの午後休みの日。お風呂から上がって自室に着き、うつ伏せにバタンとベッドへダイブする。髪乾かすのめんどう、もう、動けない……。
────……雨の音?
ベランダを叩く雨粒の音で目を覚まし、レースカーテンを開けてみると、天気雨で、向こう側は晴れているのにこの辺りだけ雨が降っていて不思議な光景だった。通り雨だろうな、とカーテンを閉めようと視線を落とすといつもの黄色い寝袋を片手に相澤先生が木陰に立っていた。
「先生?なにしてるんだろ」
寮の玄関を出る頃には小雨になっていて、髪を拭くために肩にかけていたタオルを頭に被せる。
「せんせー!なにしてるのー?ってびしゃびしゃじゃん!」
「ああ、
〇〇か。ここで寝てたら通り雨にあってな、この通りだ」
寝起きなのか濡れたことがショックなのかいつも以上に猫背で覇気がなく、大きい先生が小さくみえる。
先生がぐっしょりに濡れて重そうな寝袋を上げると、重力に負けた水分がぼたぼたと出てくる。びしょ濡れのぴょこぴょこ跳ねた黒髪の毛先からもぽたりと雫が落ちる。
「先生風邪引くよ?はい、タオル。使いかけだけどごめんね」
「ありがとね」
先生は素直にタオルを受け取って濡れた髪をわしわし拭くと、ふわふわの癖っ毛がほわんほわんと広がって、なんだか可愛らしくてキュンとしてしまった。
上にとどまっていた灰色の雲はいつの間にか移動していて山の向こうで雨を降らせていた。
青空には真夏のジリジリと照りつける太陽が戻ってきて、次第に静かだった蝉も鳴き出し、空気をむわりとさせる。
暑い…!!あつーい!!
「うわあ、一気に暑い。先生はどうするの?お風呂?」
「あー、寝袋ないと困るからな、濡れたついでに洗濯するよ」
先生もさすがに暑そうで、背中がさらに丸くなっている。
「寝袋って洗濯してるんだ」
「当たり前だろ。使ってたら汚れるし、それに臭うだろ」
「ぶふっ、先生においとか気にするの?」
そりゃ臭い中で寝たくないしな、と当たり前の事を当たり前のようにいう先生が面白くてまた笑ってしまった。何がそんなにおかしいんだか、と先生も呆れながら笑っていた。
「寝袋は手洗い?洗濯機?」
「手洗い」
「今から洗う?それ手伝ってもいーい?」
「いいけど、結構体力使うぞ。疲れてるんじゃないのか?」
「大丈夫!洗うの楽しそう!やりたい!」
道具持ってくるから中で待ってろ、と教員寮の共有スペースで待つ。
謎の待ち合わせ感がそわそわする。
お待たせ、と戻ってきた先生は、髪を後ろに一つで結んで、全身真っ黒なのはいつもと変わらないのに、半袖Tシャツにハーフ丈ジャージを履いて、肩にはタオルをかけていて、素足だ。
粉洗剤の箱が入った大きなタライを脇に抱えている。
「先生、めっちゃ夏じゃん!うちわで扇ぎながら縁側できゅうりの一本漬け食べてそう」
「はははっ、何その具体的な例え」
先生がすごく笑ってる、夏のせいかな。捕縛布がないから表情がよく見える。
「ほら、
〇〇もタオル。あとこれ」
白いふわふわのタオルとよく冷えた水のペットボトルを渡される。
「ありがとうございます」
さっき借りたタオルは洗濯して後日返す、ほら日が高いうちに洗って干すぞ、と言うとまた暑い外に出る。
「やっぱり外あつーい、とけるー、先生だけサンダルずるーい」
「暑い暑い言うな、余計暑くなるだろ」
寮の裏にある水道からタライに水を張り洗剤を入れながら先生が言う。
「先生ってさ、汗かくの?」
「…俺をなんだと思ってるんだ」
雨水を軽く絞った寝袋をタライに付け、洗剤水を染み込ませていく。
「え、むんっ!て気合い入れたら汗腺も閉じれそうだなって」
「ぶはっ、なんだそりゃ」
先生はとうとう吹き出した。普段は並行かつり眉なのが、ふにゃっと下がって、口が大きく開いて、それを隠すように濡れた手を握って口元にやる。垂れる水が太陽でキラキラしていて、目が離せない。自分の心臓がうるさすぎて、あんなにうるさかった蝉の鳴き声も遠くに聞こえる。
「ほら、手が止まってるぞ」
「え、あ、はい!」
やっぱ暑いからかな、夏のせいだ。言い聞かせるように、むぎゅむぎゅと寝袋を押し洗う。
「今度の休みに女子で新しくできたアイス屋さん行くんだ」
「へえ、気をつけて行ってくるんだぞ」
「先生も一緒行かない?」
はあ?と嫌そうな面倒そうな顔をする。いつもの先生だ。
一度寝袋を取り出し、新しい水に替えると、またむぎゅむぎゅと押し洗っていく。
「そういうのは学生同士で行きなさい」
「えー、引率で来てよー」
「アイス屋に引率で来る教師がどこにいるんだよ」
「ここに」
「いやだね」
さすがにアイス屋は無理だったか、と諦める。
「じゃあさ、海は?中には入らないんだけど、夕方のちょっと涼しくなったくらいにA組みんなで海見に行こうって言ってて」
「そういうのもみんなで楽しんでおいで」
うっ、なかなか手強い。
また軽く押し絞って水を取り替える。その作業を何度か繰り返し、むぎゅむぎゅ押していくと段々洗剤水の濁りがなくなっていく。
「先生これいつもひとりでやってるの?」
「まあ、そうだな。頻繁に洗うわけじゃないから、夏の間だとマイクが日陰で見てたりするよ」
「へえ、仲良しだね」
最後に空にしたタライに折り畳んだ寝袋を入れると、ぎゅうと押して水分をきっていく。寮の壁に立て掛けてあった物干し台にかけ置いて寝袋の洗濯は終わった。先生はタライを綺麗に洗い流すとまた水を貯める。
「手伝ってくれてありがとね。暑かっただろ」
水を張ったタライをいつの間にかできていた日陰に持っていくと手招きする。ちょいちょいと足を指さすから「いいの?」と聞くと「どうぞ」と言う。段差に座って靴を脱ぎ、足を入れる。
「つめたーい!きもちー!先生ありがとう」
日陰で水を飲みながら「どういたしまして」と言う。先生も入ればいいのに、と思ったけど座って並ぶのは恥ずかしいから言えなかった。
「ねえ、先生」
「ん?」
「やっぱり、一緒海行こうよ」
「そうだな、夕方から行くなら帰りは危ないだろうし引率として行くよ」
「いいの?」
「いいの、っておまえが誘ったんだろ」
「だっていいよって言うと思ってなくて」
うわ、めちゃくちゃ嬉しい!顔がにやける。叫びたい!
「やったー!嬉しい!先生、大好き!海、楽しみだね!帰ったらみんなに知らせよーっと」
「声でか。もう今ので聞こえたんじゃないか?」
呆れたように鼻で笑う先生にまたドキッとして、水をバシャバシャと蹴り上げる。高く飛んだ水飛沫がまだまだ上に居続けている太陽に当たってキラキラとしながら落ちる。
思わず大好きと叫んでしまったけど、夏だからいいよね。全部夏のせいなんだから。
write 2023/6