手当て
夕食も終わって、すっかり日が沈み、静かになった雄英高校の敷地内。
体力作りのため、舗装された遊歩道をランニングしていた。
走る速度に合わせリズミカルに刻む呼吸音とザッザッという足音が、陽がなくなり深い緑となった木々に吸い込まれていく。
個性だけに頼った救助や戦闘だけでは限界があり、まずは基礎体力なのだと今日の授業で思い知らされた。もし自分のせいで救助が遅れたら、もし自分のせいで仲間が危ない目にあったら、もし、もし、と実践式のカリキュラムの厳しさが自分の弱さを目の当たりにさせ、憧れだけで突っ走ってきた思いにブレーキをかけた。
それでも苦楽を共にする仲間たちを見ていると憧れは光を失うどころか輝きを増して、止まっているわけにはいかない、と夢へ向かって己を奮い立たせていた。
日中の暑さは引いたとはいえ、これだけ走ると額からこめかみから汗がたらりと流れてくる。ジャージのウエストに挟んでいたタオルを取ろうとした時、足元の凹凸に気づかず、長時間のランニングで疲れた脚は簡単に躓いて転けてしまった。
「っいったあ」
こんな時に限ってハーフ丈のジャージを履いてしまっていて。きっとこういうところなのだろう。訓練中の怪我の方が数倍酷いし痛いのに、自分の情けなさも相まって涙が滲む。ズッと鼻を啜って、汗を拭い、膝の傷口からじわりと滲み出る血をタオルで押さえ、その場に座り込んでしばらくぼんやりとする。
「今日はここまでにしよ。共有スペースに救急箱あったよね」
寮が立ち並ぶ敷地内が近くなると、薄らだった灯りが影ができるほど明るくなる。自分のクラスの寮までもう少しというところ、職員寮の前で声をかけられる。
「怪我してるんだろ。こっちに来なさい」
「せんせい、なんで」
「自主練している生徒が怪我をしたとインターホンに呼び出しがあった」
担任の相澤先生はヒーローコスチュームではなく、黒のVネックの七分丈のカットソーに黒いパンツを履いている。あまり普段と変わらないように見えるが捕縛布がなく、長い前髪を真ん中で分け、髪を後ろでひとつ括りにしていて、首周りがすっきりとしている。あまり見ることのない格好の先生で少し緊張する。
「すみません」
「何も謝ることじゃない。手当てするから早くおいで」
はい、と返事をすると先生が開けてくれた教員寮のドアから中に入り、救護室に通される。
ここ座って、と簡易な丸椅子に座らされ、先生は棚から救護セットを取り出し、わたしの横にあるテーブルに置く。カチャカチャ、コン、カシャン、ショキショキと消毒液の匂いのする広い空間に先生の手際よい作業音だけが響いている。
座ったわたしの前にしゃがむと、精製水で砂や血を綺麗に洗い流す。消毒液を脱脂綿に染み込ませ膝に優しく手を添えると「少し染みるぞ」と声をかけ、ポンポンと傷口に当てていく。
「今日の訓練の評価、気にしてるのか」
言い当てられた言葉に、こくん、と頷く。
「まあ、おまえの性格上、じっとしてられんのはわかってたが…こんな時間まで無茶して。計画的に鍛えないと体壊すぞ」
「…はい」
「足りないところを補おうと自主練に励むのはいいことだ。どう鍛えたらいいのかわからない場合は相談しろ」
その為の先生だしな、といつもよりゆっくりと話す先生は、目線は傷口に落としたままで、伏せられた瞼の短いけどよく揃った睫毛が影をつくり、隈を濃くしている。こんなに隈ができている先生が『体壊すぞ』なんて棚上げなのに、普段厳しい先生の思わぬ優しい言葉にまた涙腺が緩みそうになるのをグッと耐える。
その姿が痛みを堪えているように見えたのか「痛むか?もう少しで終わるからな」と目線を合わせて言う。
ガーゼを置き、あらかじめ切っていたテープで留めると、膝の処置が終わる。
「はい、次。手出して」
「手?」
無意識のうちにタオルをグッと握っていた手を解くと、両手の手のひらにも薄く擦り傷がついていた。ジンジンと脈を打つ膝にばかり痛みが集中していて全然気づかなかった。
「ここはそんなに酷くないから、消毒だけね」
はい、と返事をすると、強く握りしめすぎて固くなった指先を開くように先生の指が触れる。大きな手の手のひらの皮は厚くて、古傷が幾つも付いている。たくさんの人を守ってきたヒーローの手。
「ん、終わり」
「ありがとうございます」
いーえ、と返事をしながら立ち上がり片付け始める。
玄関に着くと、脚、怪我してるから寮まで送る、と徒歩数分の距離を並んで歩く。
「先生?」
「ん?」
「わたし、がんばるね」
先生のような強くてかっこいいヒーローになるために。
「ああ、期待してるよ」
前を向いて話す先生の表情は身長差がありすぎてしっかりとは見えなかったけど、きっと笑っていたと思う。そう思うことにする。
write 2023/5