におい
昨夜まで続いた冷たい雨が嘘のように空が高く、まだ雨つゆが残る緑はきらきらとしていて突然世界が変わったかのように風景が一変する。
かくいう私も今日から衣替えで着慣れた長袖のワイシャツから、夏服へと変わる。
真新しい半袖のワイシャツへ袖を通し、少し生地の薄いプリーツスカートの軽さに少し心許なさを感じる。
そんな初夏のはじまり。
吹き抜ける風も湿りを帯びて、くんと空気を嗅げば夏の気配がして「夏の匂いがする」と口ずさむと「こら補習中だぞ」と声が降ってくる。
その声は諸事情で公欠した私に放課後、補習時間を設けてくれた担任の相澤先生のもので「すみません」と申し訳程度の謝罪をすると「夏の匂いってなんだ」と返ってくる。
先生もそんなこと気になるんだな、とまだよく知らない先生のことを見上げる。
確かに『夏』とは程遠い暑苦しい格好をしているけど。
「こう風の中に緑の匂いと湿り気が混じった感じ、でしょうか」
「ふうん」と聞いた割に興味なさげな返事をする。
ふわ、とまた教室内に風が吹き込み、くんと空気を吸う。
「ほら」と言うと、同じように先生もすんと鼻から息を吸う。
「わからん」「そうですか」なんてやりとりしていると、立っていた先生が急に屈んで、その顔の近さにびっくりする。
前に屈んだ先生のいつもは見えない首元は薄らと汗ばみ、ふわふわの後毛が張り付いていて、なんだか見てはいけないものを見てしまった気がして、ふいと顔を背ける。
そんな私に気づくことなく先生は目を閉じてくんくんと鼻を鳴らしている。
「な、にして、るんですか」
動揺を隠せなかった一言目にさらに動揺して声が裏返る。
「いや、この辺りでは匂いがするのかと思って」
「わかりましたか?」と聞くと「さっぱり」と体勢を戻す。
「さてどこまでやったかな、続き始めようか」
「…はい」
「集中しろよ」なんて無責任なことを言って、何事もなかったかのように教科書を読み上げ、丁寧な解説をして補習を進める。
みたび風が教室を吹き抜けると火照る私の熱を攫って、そこに先まで感じていた夏の匂いはなくなっていて。
残ったのは先生から香った石鹸のような匂いと汗のまざった匂い。
そんな初夏のはじまり。
write 2023/5