推しぬいを愛でていたら知らない間に命を吹き込んでしまっていたみたいです!?
私はデザイン事務所に勤めるしがないOL。推しのために人生を捧ぎ、抑え込めない熱を二次創作へとぶつけるオタクだ。
推しは『ヒロアカ』の相澤先生。なぜ推しているのかと言われるとここで説明するには文字数が大変なことになるので、皆、彼の魅力を知っているものとして割愛させていただく。
今日は推しの誕生日という本当にめでたい日。この日のために毎日必死に頑張って半休を勝ち取った。残業続きの毎日だったからか、明るいうちに帰るというなんとも言えぬ浮き足立った感覚。それでも気持ち朗らかに心の中ではしっかりスキップなんかしちゃったりして、色んな喜の感情で大忙しだ。
きっと口元緩んでにやけてるだろうけど、スイーツショップが並ぶデパ地下の一角を歩いているので、側から見れば美味しそうなスイーツに見惚れてる、と思われているに違いない。ゆったりと歩くマダム方も同じ顔をしている。大丈夫。あやしいやつではないはず!
普段行かないような高級スイーツを眺めている理由はもちろん、推しのぬいぐるみに供える誕生日ケーキを探すためである!
いつもは『ケーキ一切れに700円かあ…』と思いながらキラキラしたショーケースを横目で見ながら通り過ぎるのだけど、今日は違う。しつこいようだが何度も言わせてもらう! なんたって推しの誕生日なんだから! 財布の紐も緩ませていただきます!
推しに似合いそうなオペラと、定番のいちごのショートケーキを選んで、「ありがとうございました」と優しそうな店員さんがにこやかな笑顔で紙袋を丁寧に渡すのを、私もにこっと微笑んでお礼を言って受け取る。しあわせなものを笑顔で送り出すっていいなあ…いい事の連鎖しかないもんね。私も心がけよう。推しの誕生日、なんていい日なんだ…。
帰りのバスでは、揺れで崩れないよう紙袋を膝に乗せ、手をそっと添える。謎の緊張感と高揚感で熱くなった手のひらでケーキを溶かしてしまいそうだったからだ。
帰ったら何から始めよう。11月が近づくとそわそわわくわくして、あれもこれもと推しを飾りたてるものを夜な夜な盛り盛り作ってしまった。もちろん、二次創作にだって力が入る。11月に入ればいよいよ感が漂って、SNSで仲良くさせてもらってる二次創作仲間と毎日お祭り騒ぎ。飾りつけは待ちきれずに昨夜終わらせたし、推しのぬいぐるみに飾るパーティハットも作って0時を回った時に被せた。
ごはんはどうしよう、めでたい日だし贅沢にデリバリーしようかな。久しぶりにピザ食べたいなあ。縁までチーズたっぷりのもちもちした生地のやつにしよう。カロリーなんて、めでたい日にはハッピーすぎてゼロになっちゃうんだよね。知ってる。
色々考えているうちに最寄りの停留所にバスが停まって、マンションまで歩く。
「ただいまぁ、って誰もいないけど…………ねっ!!?」
「おかえり」
待って、え? ちょっと待って、は?? なんで? 待ってぇ! ドア一回閉めていい?
「どうした。入らないのか?」
どうした、って、あなたがどうした?
「あの、失礼ですが、お、お名前は……」
「相澤消太」
「ですよね」
推しの誕生日に家に帰ると、推しが玄関で帰りを待っていました、ってそんな夢みたいなことある? いや、商業誌とかエロ同人とか二次とかでよくある展開だけれども!
「……どこから来たんですか?」
「どこって、ずっとこの家に居たが?」
「へ?」
「忘れてしまったのか?」
しゅん、と眉を下げて私の顔を覗き込む。
顔が近い! だが、顔がいい! 声もいい! 心なしかいい匂いもする!
「で、でも先生はヒロアカっていう漫画のキャラで現実には…」
「そうだが、そうじゃなくて」
こっちこい、と手を引かれて部屋に入る。先生の手やっぱりおっきい……じゃなくて! さっきから刺激が強過ぎて右心房と左心房が榴弾砲着弾しそう。二次創作を嗜むと言ったと思うけど、私、夢女なのよ。何度この手に触れてみたいと何度夢見たことか。
「ここ。ここにずっと居ただろ?」
そう言って先生が指差す場所を見ると、いつも推しのぬいぐるみ――通称もちざわ――を置いているところにもちざわが居なかった。床には私が作った寝袋やマフラー、パーティハットが散らばっている。
もちざわは、私が唯一持ってる相澤消太のぬいぐるみで、コラボカフェやヌン活、もちろん普段のお出かけから旅行まで一緒に出かけて、推し活を楽しんだり、写真を撮ったりしている。フェルトや毛糸で小物を作って、着飾るのも楽しんでいる。毎日撫でて話しかけて、とっても可愛がっているぬいぐるみなのだ。
「ということは、先生はもちざわなの?」
「ん」
ん、て! 可愛すぎか…。思わず拝んでしまった。
「あ! ケーキ! 冷蔵庫にしまわなきゃ」
「ケーキ?」
「先生、今日誕生日なんですよ! お誕生日おめでとうございます!」
「知ってる。そう言いながらコレ被せてくれただろ」
先生は3センチ程の小さいパーティハットを大きな手のひらに乗せて、嬉しそうに言った。信じられないけど、先生はもちざわなのかもしれない。
無事冷蔵庫にケーキを入れて、部屋着に着替える。
今はお昼過ぎ。私はごはん食べてきたからお腹空いてないけど、先生はどうかな。というかぬいぐるみはお腹空くの?
「あの、お腹空いてませんか? というか食べれるんで、す…か?」
ソファに座って腕を組み、ずっとこっちを見ている先生に聞いてみる。後に聞いた質問は言葉にするとなんだかマヌケな響きでアホみたいな事聞いてしまったな、と恥ずかしくなってぶわっと顔が熱くなった。
「空いたな。腹が減る感覚があるから食えると思う。たぶん」
「ぶふっ、先生面白い」
私以上に先生がおかしな返事をするので吹き出してしまった。
「それより、こっちおいで」
「なんですか?」
「隣、座って」
おいでからの座面をポンポン…くっ……私、鼻血出てない? 大丈夫?
鼻を押さえていると、早く来い、と先生が相澤消太らしいセリフでまた私を呼んだ。鼻血は出ていなかった…まだ。
「なんでしょう」
「ただいまのよしよしがまだだ」
「タダイマノヨシヨシガマダダ?」
「ほら、帰ってきたらいつも手のひらに乗せて、撫でてくれるだろ。そのあとお腹撫でて、手のひらで包んでからこう揉むように、」
ジェスチャーがやけにリアル…もうこれは確定ですよね…?
「わあ、わあああ! いやあ! ストップ!! 先生、本当にもちざわなんですね」
「だから最初にそう言っただろ。ちゃんと聞いとけ」
「聞いてたけど、まだどこか信じられなかったと言いますか」
ムッとした表情も相澤消太。ふわふわの髪も…ってよく見ると左側の横がぺしょってなってるの、私のもちざわの寝癖と一緒だ…。どう頑張っても整えられなかったから、この子らしさってことでそれも可愛がってて…やっぱりこの先生はもちざわなんだ。
「ん、ほら早く」
「ちょっと心の準備が…、し、刺激が強すぎるので待ってもらってもいいですか…?」
「ダメだ。俺、今日誕生日なんだろ?」
「なっ! るほど、ね? おめでとうございます…」
「意味がわからん。手をここに置くだけだろうが」
「ひゃぃ!!」
腕を引っ張っぱられて手を頭に乗せられた強制よしよしに変な声が出てしまった。……あ、想像通りの猫っ毛。ふわふわで気持ちいい……ずっと撫でていられる。先生も柔く目を閉じて気持ちよさそうにしてる。鼻筋がシュッとしてて、堀が深い。綺麗な顔。うっ、やばい、また心臓が。
「はい、次」
「つぎ?! も、う無理ですぅ…だって、今もちざわじゃなくて先生なんですよぉ」
「俺は、この姿になれて嬉しかったんだがな。そうか…」
あぁ…あからさまにそんなしゅんとした顔しないで! なぜだろう、申し訳なさよりも可愛さが勝ってしまう…! 母性本能がくすぐられて、心臓が抉り取られそう!
「ち、ちがうの、先生がね」
「その先生ってのもやめろ。俺はおまえの先生じゃない」
「も、もちざわ」
「それもなんかいやだ」
なんかこのもちざわ我儘だな…私がそう育てたのか…? 確かに甘やかしてばっかりだったけど。
「相澤さん? 相澤くん? 消太さん? 消太くん?」
「しょうたくん」
「……消太くん」
「ん」
そりゃあね、何度か推しを呼ぶときに言ったりもしましたよ? けどね? 本人目の前に名前呼ぶのは違くない? でも満足そうに微笑んでる推し良〜〜〜!
「ね、消太くんのからだはぬいぐるみなの?」
「触って確かめてみれば?」
「あっ、墓穴…」
数度掴まれたけど、ドキドキしすぎて感触まではわからなかった。髪の毛は人っぽかったけど、表面だけってこともあるし…? 私、何言ってるんだ? 混乱はまだまだ続くようだ。
「いつもは思いっきり揉むくせに、今更」
「ちょっと語弊…」
「俺はずっと、こうしたかったんだ」
そう言って消太くんは、逞しい腕で私を包んで抱き寄せる。触れ合うところがじわじわあったかくなって、それは人肌の体温だった。皮膚があって筋肉があって骨もある。耳をくっつけた分厚い胸からはとくんとくんと私と同じくらい速まった心音が聞こえる。ドキドキするのに不思議と落ち着く。心地いい。
「消太くんは、私を抱きしめたくて人になったの?」
胸から顔を離して消太くんを見上げる。薄い唇にワイルドな無精髭が、骨ばった輪郭が、すぐそこにある。消太くんも少し下を向いて、私の目を見て、目の前にある薄い唇を開いた。
「ん、まあそれもあるが、色々だ」
「色々…」
「追々話す。時間はたっぷりあるだろ。今はもう少しこのままでいたい」
「たっぷり…、このまま…」
すぐ上から降ってくる、艶やかな低い声に復唱することしかできない。それでも消太くんは一言一言にこくんと頷いて、私をぎゅっと抱きしめた。
計画では、ヒロアカを一巻から読み直しながら、アニメを流して、どっぷり推しに浸かろうとしていたのに、まさか推し本人の胸に浸かるとは思いもしなかった。
連日の残業で疲労困憊の身体は、久しぶりに感じる人肌の心地よさに、瞼を閉じてしまっていた。
「んっ、いつの間にか寝ちゃってた…推しぬいが人になるなんてそんな夢小説のような…こと、あるわ、け」
「夢じゃないぞ、よく寝てたな」
「ぴゃ! 先生!」
「こら、名前で呼べって言っただろ」
「…消太くん」
「よくできました」
ニヤリと不敵に笑って先生口調で話す消太くんは、よく漫画やアニメで見てた先生そのもので、静まっていた心臓がまたバクバクとうるさくなりだした。推しに人生を捧げてたけど、もう一生分の心拍数に達してない? 私明日死なない? 大丈夫? そう思いながらも、重たそうな瞼に生えてる睫毛の生え際を、じっと見ていた。もし死んだとしても推しの睫毛を数えられたなら悔いはない。たぶん。
「あ! 時間! 今何時?」
「16時過ぎだが。前から思っていたが、おまえほんとに騒がしいな」
「16時! ピザ頼まなきゃ! ……って前から? もちざわの時からってこと?」
手元のスマホでピザを選びながら、聞き捨てならない言葉に反応する。ぬいぐるみの時の記憶があるってことは、あんなこともこんなことも聞いてたって事ぉ?! 恥ずかしすぎて霧散する…。
「いつからだったかは忘れたが、ある日突然意識みたいなのが芽生えて、家に居ても、外でも嬉しそうに話したりするのを見ていたよ」
「恥ずかし…」
「よく笑って騒いで泣く姿を見て、おまえがいつもしてくれるみたいにいつか、と思っていたんだ」
「うん」
「そしたら身体が動いて、下に落ちた時にはこの姿になってた」
「え、怪我しなかった? 痛いとこない?」
「大丈夫だよ」
柔らかい優しい声に、さまざまな感情が混ざってぽろぽろと涙が溢れた。よかったぁ、と子どものように泣く私の背中を消太くんは、「ほんとよく泣くな」と言って、トントンと優しくさすってくれた。
「こちらこそ、いつも私に生きる意味をくれてありがとう」
「プロポーズか?」
「ち、が!」
驚きで涙が止まって、ずびっと鼻をすすったとき、消太くんの顔が近づいて、黒い瞳に私が映った。深い深い黒に吸い込まれて、息ができない。
――ポコピーンポコピーン
電子音が部屋に響いて、はっと息をする。
「ピザ! ピザ来た、消太くん! ピザ!」
ああ、と返事をする消太くんの腕をするりと抜けて、インターホンまで走る。
あっぶなぁ! あのままだとチュウしそうじゃなかった? 推しとチュウってしていいの? てかプロポーズって! なにを言っているの?! え? 消太くんはもうもちざわには戻らないの? 混乱! いや、もうずっと混乱してるけど、それとこれとは別っていうか、生活に支障が出るというか!
宅配員さんがもう一度部屋の玄関横のインターホンを押すまで、廊下をぐるぐると歩き回ったけど、落ち着くどころか他のことまで考えてしまって、かえって混乱した。
調子に乗って、Lサイズのピザを2枚も頼んでしまったのだけど、胸いっぱいで入る気がしない。もう一度、インターホンが鳴って、ピザを受け取ると、震える手で消太くんの待つ、部屋のドアを開けた。
「お待たせしました! 消太くんは何飲む? って言っても私お酒飲めないからノンアルしかないんだよね」
至って普通に話しかけてみる。声上擦ってない? 変じゃない? 若干早口なのは否めないが。
これとかどう? とノンアルコールのあまり甘くないカクテルのラベルを見せると、いいね、と返ってきた。グラスに氷を入れて、お皿を出して、誕生日パーティの準備を進めていく。手伝うよ、と主賓もなぜか加わる。本来なら本人不在の誕生日パーティを開催する予定だったのに、まさかの本人ご登場に、部屋の飾りつけたちも喜んでいる、ように見える。
「消太くん、お誕生日おめでとう」
「ありがとう」
カチンとグラスが鳴って、お互い一口。消太くんは初めての味に、これ美味いな、ともう一口飲んだ。ハーフアンドハーフで頼んだ2枚の、計4種類のピザも気に入ったようで歯並びの良い大きな口でガブリと豪快に食べていく。髪が邪魔そうだったから、前髪を分けて、後ろでひとつに結んであげた。捕縛布を外したヒーローコスチュームは、うなじが丸見えでどくんと心臓が跳ねた。だってこんな色気ダダ漏れな生え際ってある…? 生まれて初めて見たんですけど。イケナイ気持ちを紛らわすために、予定していたヒロアカのアニメを流す。
「消太くんは、ヒロアカのこと知ってるの?」
ふとよぎる素朴な疑問。
一枚目最後の一切れを口に入れようとした消太くんが、それを皿に戻した。
「一応知識として入ってる感じだな。性格はこの中の俺とさほど違いはないよ」
「じゃあ、この痛さも…?」
テレビにはUSJで戦う相澤先生が映っている。
「いや、痛みの記憶はない。戦った守ったという記憶みたいなものっていうのかな。おまえがこのアニメの流れを知っているように、俺も知っているってだけだよ」
「なるほど」
痛さや辛さ、苦しさや悲しさを思い出したらどうしようって思ったけど、大丈夫そうでよかった。推しには笑顔でいて欲しいもんね。私のホッとした顔に、消太くんも口の端を緩ませて、「俺の中に生まれた感情は俺のものだよ」と言って、またピザを食べ始めた。
やっぱり私は胸がいっぱいで、1種類ずつしか食べられなかった。無理をするわけでなく、消太くんは残りをぺろりと平らげて、満足そうにお腹をさする。ケーキ、入るかな…。無理そうなら明日でも…って明日じゃ意味ないし、消太くんももしかしたら今日だけのお伽話のような魔法かもしれないし。
「ねえ、消太くん、ケーキ食べれそう?」
「ん、食べるよ」
「よかった! じゃあ準備するね、待ってて!」
大事に大事に持って帰ってきたケーキの箱を開けて、お皿に乗せる。つやつやきらきらして宝石みたい。やっぱり奮発してよかった。トレーにケーキとフォーク、ホットコーヒーを乗せて、片付けられたテーブルへ持っていった。
「ケーキ2個って…あれだけ食ってこれも食べるつもりだったのか?」
「いやいや! 一人だったらあんなにピザ頼んでないし! Sサイズで十分だったし! で、ケーキは一個もちざわにあげて、もう一個を私が食べるでしょ? で、もちざわのは明日食べようって思ってたの!」
くつくつと喉を鳴らして笑う消太くんに、早口で言い訳のように捲し立てる。そんな私を見て、消太くんはお腹を抱えて、笑った。
「はー苦し。その早口、生で聞けて嬉しいよ」
「もう! からかわないでよぉ」
「いや、本音だよ。こうして会話したかったんだ」
トレーを持つ私の手に、消太くんがそっと手を添えて、優しい瞳で見つめてくる。
「…もう」
「ケーキ、食べよう」
「どっちがいい?」
「どっちも」
「欲張りだね」
「そうだな、誕生日だからいいだろ」
我儘で自信たっぷりの甘い推しが、あーん、と口を開けて、私がケーキを入れるのを待っている。
私は、白と黄色と赤のバランスが見事なショートケーキを一口分掬って、持っていく。
「改めて、誕生日おめでとう、消太くん」
「ん、美味い。こちらこそ、ありがとう」
どうして? という顔をしていたのか、消太くんが話始めた。
「昨夜、帽子被せてくれただろ? 誕生日おめでとう、生まれてきてくれてありがとうって言って。その時、どうしても返したいと強く思ったんだよ」
「そしたら動けたの?」
「ああ、楽しそうに部屋の飾りつけしてるのも見てたしな。涼しくなってマフラーも作ってくれただろ? いろんな所にも連れて行ってもらったし、今までのお礼というか、なんだ、まあ色々と募るものをだな」
首の後ろに手をやりながら照れたような言いにくそうな様子で話す。
咳払いをして、からだの向きを正そうと動いた消太くんが、テーブルの縁で脚をぶつけた。同時に、ガチャンと食器が揺れる音がする。
「あ、だいじょ、うぶ……?」
消太くんを心配して近づいた私と、揺れた食器の無事を確認しようと上半身を乗り出した消太くんの、視線がバチリとぶつかる。
相澤消太に恋、だなんてとっくの昔に落ちている。ずっと落ち続けていたんだから。ああ、だめ。この瞳にもう一度捕らえられたら逃げる事なんてできない。心臓が一層高鳴る。自分の心臓の音しか聞こえない。鎖骨の少し下辺りが、胸が、ずっと苦しい。
消太くんの顔が、鼻が、唇が近い。すぐそこに呼吸を感じる。
あと、少し。鼻先同士が、ちょん、と当たる。この先を期待して、瞼を閉じる。
あと、すこし…。すこし、……あとちょっとのはず、…ん? まだ? え、揶揄われた?
そうっと目を開けると、目の前に消太くんは居らず、座っていた場所に手作りの寝袋を着たもちざわが転がっている。
……そっか、魔法解けちゃったのか。お礼したいって言ってたもんね。もうそれ叶っちゃったもんね。私もおめでとうって直接言えたし、一緒にごはんも食べれて、誕生日ケーキもあーんできたし、十分じゃない。十分なはずなんだけど……。
私はもちざわを拾って、両手で包む。胸の苦しさが喉まで上がって、涙に変わる。それは手の甲に、ぽたりぽたりと落ちた。
その時、何かが飛び出して、中の質量が、ふっとなくなった。手のひらに残されたのは黄色い寝袋のみ。
目の前には、消太くん。
「くそ、いいところだったのに」
「……消太くん? 魔法、消えたんじゃ…」
「魔法? んなもんねえよ。近づいた時、テーブルの下にあった寝袋に触ってしまったんだ。俺としたことが…」
「寝袋に触ったら、もちざわになるの? 出たら、消太くんになるの?」
「みたいだな。おまえを待ってる間、何度か試してみたがそうらしい。もう俺に会えなくなるかもって泣いたのか?」
「うん」
「バカだな。時間はたっぷりあるって言っただろ。ほんと人の話聞いてねえな」
「うわあん、よかったあ!!」
「ちょ、さっきみたいにしおらしく泣けないのかよ」
だってぇ、と泣き続ける私の頭をわしわしと大きな手のひらで撫でて、ほっぺたにキスをした。柔らかい部分より、ちくちくする面積の方が多かった。しゃくりあげながらも驚く私の顔を見ると消太くんは、ふっと笑って、今度は唇にキスをした。
「そんなに俺を想って泣くってことは、俺と同じ気持ちでいいってことだよな」
「え?」
「ここまで言って、キスまでして鈍いやつだな」
ほっぺたに残る涙を、かさついた親指が拭って、そのまま抱きすくめられる。そして耳元で、「好きってこと」と言って、私を強く抱きしめた。
「……ええぇぇ――!?」
消太くんの腕の中で自分でも驚くくらい大きな声で叫んだ。その声は消太くんの厚い胸に吸収されて、「驚きすぎ」と言う声と笑い声を、一番近い距離で聞いた。ずっと混乱の中にいたけど、私の頭は許容範囲を超えたみたいで、一旦考えるのをやめた。もちざわは消太くんで、消太くんはもちざわで。もちざわにも、消太くんにもいつでも会えるってことは確かで、もうそれでいいかなって。
「ほら、ケーキの残り、早く食べよう。日付け変わるまでが誕生日だからな」
「うんっ」
それにしても推しぬいが人になって、しかも私のことを好きだなんてどんな世界線?! 夢のような、お伽話のような推しとの生活が今始まる――――!!
「あっ、消太くん、鼻血出ちゃっ…た」
「まじかよ」
――前途多難である。
ハッピーバースデー、相澤先生!
いつかたくさんの笑顔が見れることを願って。
2023年11月8日
write 2023/11/8 👀誕