くりかえさないための、青
ひやりとした空気が心地のよい、夏の朝の、ビー玉を光に透かしたような、しゅわっとした空気感。
寝起きのぼうっとする頭には少し爽やかすぎたが、その空気を肺いっぱいに取り入れて、溜まったものを吐き出す。煮詰まったものを薄めるには、こういう綺麗なものを混ぜるのがいい気がする。大事な話をするのに夜はやめておけ、って何かで見たっけ。本当にその通りだ。こんな澄んだ空気で体を満たしていれば、あんなどろりとした感情は出なかった気がする、多分。
乾いて乾いてどうしようもなかった。煮詰まりすぎて水分がなくなってしまったようだった。失敗して掃除の仕方も調べず捨ててしまった焦げついた鍋の底みたいに。
住んでいるマンションを出て、道なりに真っ直ぐ歩く。ちょっと強面のおじさんが店主だけど子どもたちで賑わう小さな商店、遊具がある広場とグラウンドのある広めの公園、ついこの間まで畑だったところにできたコインパーキングを通り過ぎると、塀に沿うように自販機が置いてある。横にある色褪せた青いゴミ箱は、夜にはいつも入りきらないくらいいっぱいなのに今は空で、私のようだと鼻で笑った。
そこで『今ならお得』と書かれた黄色と赤のポップが目に眩しい、缶の600mlのスポーツドリンクのボタンを押す。ガコンと鈍い音がして、取り出し口に手を伸ばし、それをもう一度繰り返す。
徐々に明るくなり始め、差す光に、じわじわりと熱がこもりだしてきた。
どこかの木にとまっている蝉が、一匹鳴き始めた。
きっとすぐに暑くなってくる。
「ただいま」
聞こえるか聞こえないかくらいの声で言って、キッチンがある短い廊下を歩けば、6畳ほどのリビングに入る。
「おかえり。どこ行ってた」
彼はもう起きていた。
体格のいい彼と二人で座るには少し手狭な、でも、ざらっとした肌触りが気に入っている深緑のキャンパス生地のソファに座った彼の、律儀に挨拶を返す声はいつもの心配する声色ではなく、どこか余裕がなさそうで私は密かに安堵した。
「すぐそこの自販機。なんかこういうの飲みたくなっちゃって」
腕に抱える2本の、私よりも汗をかいている缶に視線を落とすと、ああ、とさっきより落ち着いた声が聞こえる。
「どこかに行く時はひと声かけろ、心配するだろ」
「寝てたみたいだったから、ごめん。今度からそうするね」
「いや、こっちこそごめん」
愛想尽かして出ていったんじゃないかと思った、と言う彼に、ここ私の家だよ、と言うと、それもそうだな、とぎこちなく笑った。
ソファに二人並んで座る。飲む?と渡したスポーツドリンクは、もうぬるくなってしまっただろうか。隣でカシュっと軽い音がして、どうぞ、と渡される。同時に、私の左手に持っていた未開封の缶を取って、またカシュと音がした。こんなに飲めるかな、一本を分ければよかったかもしれない。彼の下手な笑顔が気になって思わず座ってしまったけれど、コップに注いで、少しずつ飲めばよかったかもしれない。
そのくらいの余裕はあってもよかったのかもしれない。
缶をなぞり、水滴を集める。耐えきれなくなった雫が、ぽとりと足の甲に落ちた。
窓の外では、蝉が大合唱を始めている。部屋の静けさが際立つ。また、ぽとりと雫が落ちた。今度は膝の上だった。
缶を持っていた方の手なのだろうか、彼のひんやりと冷たい、濡れた親指が、私の頬を拭った。
彼は何も言わない。
連日の激務のせいか、眠りが浅い。
昨日も自宅の仕事用のデスクに突っ伏していて、どくどくと脈打つ鼓動が五月蠅く、寝付きが悪かった。案の定、嫌な夢を見た。
残酷な思い出作り。もしかしたら別れないかもという淡い期待。離された手。閉まる扉。そしてさよなら。もう何年も前のことなのに、今は幸せなのに、気持ちがざわつく時に見る悪い夢。繰り返し見ていくうちに、少しずつ薄くなっていっている気はする。その人に未練がある訳ではない。ただの苦しい悲しい記憶。
激務だけのせいではないのはわかってる。木曜日、隣で眠る彼を見て、またそうなってしまうのではないか、という不安と焦りがこの悪夢を見せたのだ。彼に限ってそういうことはないし、大事にされている自覚だってある。だけど、言い表すことのできないこの感情を彼に伝えるのには十分の不安定さ、最悪の状態だったのだ。今日は無理だと連絡するべき…いや連絡したところで、彼は理由をつけて訪ねてくる。
夢を夢だと認識して、眠っているのに頭はフル回転、身体は強張って起きたいのに起きれない。金縛りのような感覚が続いて、息ができなくて早く目を覚したかった。
酷い汗だった。五月蝿かった鼓動は、鼓膜を突き破りそうなくらいに激しく、ずくずくと揺らしていた。
「どうした、顔色も悪いし、すごい汗だぞ。体調悪いならベッドで横に、」
『今終わった。一度帰ってからそっちに行く』
突っ伏した腕の横に置いていた携帯を覗くと、連絡が23時38分に来ていた。今の時刻は深夜0時を過ぎたあたりだった。
心配そうに覗き込む彼――今付き合っている、消太――の、触れようとする手を払いのけてしまった。一瞬、驚いた顔をしたけれど、いつもの顔に戻って、それがまた私の嫌な感情を刺激して、どろりと滑り出る。驚いて、慌ててくれた方がまだ幾分よかった。でも、そうならないのが彼なのだ。
「呼んだの。一昨日の夜」
なんの事だかわからない、という表情。
「一昨日の夜?」
「寝言で。呼んでたの、女の人の名前」
「俺が?覚えてないね」
それより少し横になろう、水飲むか?と、私を心配する。それは彼が優しいから?それともヒーローだから?いや、そんなこと、はじめからわかっているくせに。
「名前を呼んだのよ。苦しそうな顔をして、切ない声で。その人のことが好きなの?」
「それがどうした。そんな話持ち出して、嫌な言い方をして、らしくないな」
俺にどうしてほしいんだ、と言う彼は、穏やかで、「俺のこと疑ってるのか」と逆上してもおかしくはないのに、いまだ私の心配をしている。
「私のこと大事だと思うなら、もっと感情的になってほしいの」
今優しさなんかいらないの。
はあ、と深いため息をひとつ吐いて、大事だからこそしまっていたんだがな、と呟いた。
「お前こそ、さっき呼んでたぞ、男の名前」
眉が吊り上がって、眉間に皺が寄る。
聞き逃そうと思ったが、お前がそう言うなら言わせてもらう。夢にまで見て、涙を流すくらい、まだそいつのことが好きなんじゃないか?と低い声で続けた。
「………わからない、覚えてない」
俺もそうだよ、とぼそりと呟いて、私の気持ちの悪い我儘に優しい彼は付き合ってくれる。彼は、優しくするために安心させるために、私に対して意見を言わなかったり、肯定したり、要求をのむだけではなかった。意見はしっかり言うし、叱ってもくれる。でも、とげとげしいものは飲み込んで、争いを避けようとしていた。表情も言葉もいつだって優しくて、それはまるで…。
だから、初めて見る彼の表情に、口から出てくる嫉妬の言葉に、ずんずんと嫌な鳴り方をしていた鼓動が、とくんとくんと弾むような音に変わる。
「忘れられないから、泣いて、呼んだんだろ」
「違う。泣いていたのは、夢と消太くんが同じになってしまうと思ったから。たくさん幸せな思い出を残して、さよならって。いつも優しくて穏やかで、安心をくれる消太くんは好き。でも、それは保護者みたいだなって。私には全く見せないのに、そんな顔をさせてしまう消太くんの夢の中の人に、嫉妬したし、とても焦ったの。いつか、その人のところに戻ってしまうんじゃないかって、不安になったの」
「そんなわけ、」
「わかってる。でも…ごめんね、勝手で。怒った顔が見れて嬉しいって思った。消太くんは優しすぎるから、」
「俺だってただの嫉妬だ。そのくらいするよ。でも嫌だろ、こんなみっともないところ。できれば俺は見せたくなかった」
「私は、見たいよ。どんな消太くんも」
私がそう言うと、「結構嫉妬深いし、心狭いぞ」と頭をわしわしと掻きながら言って、「俺は、お前には笑っててほしいって思ってるよ」と続け、「寝言で呼んだ名前は、すまん。本当に記憶にないし、思い出そうと記憶を辿ったりもしたくない。それはわかってくれるか?」と、同じ低さでも耳を撫でるような柔い声で、彼は言った。
「笑って、幸せに過ごしてほしくて、そう接していだが、不安にさせていたんだな」
彼はたくさん喋って、私は何も言わなかった。
今日は遅いし、もう寝よう、と彼は言って、私もそれに頷いて、一緒に眠った。
嫌な夢は見なかった。
彼の濡れた親指が、次の雫を拭った。
「消太くん。昨日はごめんね。私は、消太くんのことが、好きだよ」
言い忘れてたの、と付け足した。缶に口をつけて、ゴクゴクと喉を鳴らす。しなびた体に、それはぐんぐんと染み込んで、萎んでしまっていた気持ちを、ちゃぷんと滴るくらいには潤した。少しぬるくなっていたけれど、ちょうどよかった。多いと思っていたのに、一気に半分ほど飲んでいて、自分が思う以上に渇いていたのだと、瞬きをすれば、また溢れた。
一体、何の涙なのだろうかと考えた。
「知ってる。俺も、好きだよ」
言い忘れてた、と彼もそう言って、ゴクゴクと飲んだ。
少しぬるいスポーツドリンクが彼の体に入る度に動く喉仏を、溶けた目で見ていた。
熱くて、深く瞬きをした。
ふわりと柔い黒髪が頬を掠めて、閉じた瞼に、彼の優しさが残る。
「これからのことを、話そう」
「うん」
この先も一緒にいれると安心したから、だった。
遠くで夏の音がする。もう、部屋は静かではない。眩しかったから、半分だけカーテンを開けた。
write 2023/8/19