世界を揺るがせ残像
黒黒黒赤青黒黒黄、何と何が繋がってるかわからないコードが這う床の上、自分の体温を吸ったところがぬるく冷たいところを求めて、ごろんとうつ伏せから仰向けに転がる。
広げた指先に、くしゃくしゃに丸めた紙が当たる。殴り書いた汚い字がちらりと見えて、いらっとした。
まだいけると窓を開け、半開きになったカーテンが風に揺れて、ほぼほぼ熱風と変わらないそれを頭から浴びる。高い空も、掴めそうな雲も、蝉の声も、それを追う子どもたちの声も暑い。昼夜逆転した体には生命力が強すぎる。
「喉乾いた」
掠れた声が出た時、鍵のかかっていない玄関のドアがガチャリと開いた。
「鍵、開いてたぞ。無防備すぎるだろ」
「はあ?いつものことだろ。勝手に入ってきてなんだよ」
寝転がったまま、頭だけを上げる。ズカズカと、でも這うコードは避けて部屋の中へ男は入ってくる。
「熱中症、しゃれにならんから気をつけろよ」
顔の横にどさりと水滴のついた買い物袋を置く。乳白色から、涼しげな青が透けている。オレンジや黄色も。
「ありがと」
いーえ、と返すと男はキッチンのラックに干していたグラスを取って蛇口から水を汲み、シンクに手を着いて喉を鳴らしながら飲み干した。そういうヤツだ。
私はそれを視界に入れながら『大粒みかんたっぷり』と書かれたビニールの蓋を、ぺりと剥がした。一緒に入っていたプラスチックのスプーンも開ける。
「いただきます」
「いただきます、が言えるのは偉いが、座って食べような」
うつ伏せで寝転がったまま食べようとした私の頭を、つむじを、ツンと突いた。
「へーい」
「返事は伸ばさず、はい、だ」
「うえぇ、先生みたいなこと言ってるー」
「残念、俺は先生だよ」
そう言って座り直した私を見て、よくできました、とまた先生のような事を言った。うえ、と言いながらも私はそれは別に嫌ではなかった。
「昨日のも、よかったよ」
「また来てたの」
「そりゃ自分の書いたやつがどんな曲になってるか、気になるだろ」
「評判いいよ、悔しいくらいにね」
透明の、みかんのオレンジをうつしたツヤツヤキラキラしたステージから見る照明のようなそれを、スプーンでザクザクと突いた。客席が見えないのは照明がつく一瞬で目が光に慣れれば、小さなハコだと奥まで見える。だから、男が壁にもたれて腕を組んで真っ直ぐにこっちを見ているのにも気付いていた。
オーナーと知り合いなのに楽屋に来ることもせず、出待ちも打ち上げに参加することもない。ただ、こうやってライブの次の日、何かを持ってふらりとくるのだ。私の分だけの何かを持って。
初めは、冬だった。ココアと肉まんと、あとはチョコだった、色んな種類の。何で家を知ってるのか、と聞いたら、バンドメンバーに聞いた、と言った。
思い当たるヤツが一人いた。練習でよく使っている貸しスタジオのバイトをしていて、この業界では珍しく社交的で、顔の広いヤツ。対バン探しや、ハコを押さえたりするのも彼に任せっきりで、バンドではベースを弾いている、きっとソイツだ。
後日彼に、なんで勝手に教えた、と問うと、「俺らの音が気に入ったんだってよ。あそこのオーナーが言うには、あの人プレマイのダチらしいからさ、ごめん」と答えた。結局パイプかよ、って思ったけど、うちに来たからってなにするわけでも、話をするわけでもなく、ただ、差入れを食う私を見たり、ギターを弾く姿や、パソコンに音を打ち込む姿を見ているだけだった。何かを言えば、媚びていると思われる気がして、私も何も話さなかった。
ライブの次の日は抜け殻のように、死んだように床に転がっているから、インターホンが鳴るのを何度か無視した。でも、ことごとく失敗した。鍵を締め忘れていたのだ。もう癖だ。
好みがわからんから、と大量に買ってくるのが申し訳なくて好きなものを言うと、そればかり買ってきた。
冬にはコレ、春にはコレ、夏にはコレ、秋にはコレ。
男の買ってくるもので季節を感じたりしていた。
男が勝手に部屋に入るのに抵抗がなくなった頃、私は酷くスランプ状態で絡まるコードと、丸めたり破ったりした紙クズの中にいた。次の練習までに一曲持っていかなければならなかった。焦っていた。八つ当たりの、最低な「帰れ、入ってくんな、帰ろって言ってるだろ、何も知らないくせに」という言葉にも怯む事なく、ズカズカと入って「また何も食べてないんだろ、とりあえずこれ食え」と、秋に好きだと言った、オールドファッションを口に突っ込んだ。腹が減っていたのだ。減っていたことに、書けないことに、絡まるコードに、なくなった紙に、腹が立って、投げやりになって、全てが悪い方向に、色んな黒いものを巻き取ってぐるぐると腹の中に溜まっていた。
無理矢理突っ込まれ、反射的に咀嚼して、嚥下する。口溶けの良い甘い柔らかいものが、すとんと腹の中に落ちると、ちゃぷんとミルククラウンのように広がって、ぐるぐると回っていたものが凪いだ。
「落ち着いたか?」
「うん、ごめん」
「いいんだよ、こういうのには慣れてる」
そこで男が、先生をしているのを聞いた。
意外だった。髪ももさもさで、整えているわけでもない伸び放題の髭面の、私と同じくらい濃い隈が目立つでかい男が、一体何を教えているのだろうと暫く、ウソだ、と言って笑った。
食べて、笑って、体が軽くなって、そこで男が、相澤が「どうした?」と聞いた。
「曲が、歌詞が書けない、浮かばない、並べる言葉が嘘くさい。ありきたり」
「途中まで曲はできてるじゃないか」
そう言って、丸まっていない書きかけのスコアを手に取った。そして、壁に立てかけていたギターを私に渡して、相澤はベースを取った。アンプに繋いでいない弦の音だけで弾き始めると、それに合わせて相澤もベースの弦をはじいた。
「ベース弾けるの?」
「お遊び程度だよ」
「ふぅん」
ノらないと思っていたサビのメロディが、イイもののように思えた。
「俺、最初に聴いた、あの曲好きだな」
「初耳。というか相澤が曲褒めんの初めてじゃね」
「そうか?言ってたつもりだった」
「うちに来たってほとんど喋んないのに?うける」
「うけんな」
繰り返すAメロに合わせる柔いベース。どうBメロに繋げるか逡巡しているのにも、緩く合わせてくる。
「あー、あれな、失恋のやつ。ぽくないよう書いたけど」
「へえ、そうだったのか」
「そう」
「なあ、この曲の歌詞、俺が書いてもいいか?」
ベースがぴたりと止んで、私も手を止めた。
曲はいつの間にか出来ていた。丸めた紙を伸ばした裏紙にスコアの続きを書き込んだ。相澤のベースは優しすぎたから、書き込まなかった。書き込めなかった。
これが最初の、相澤の、曲だった。
「相澤、ホントに教師かよ。愛だとか恋だとか簡単に書いちゃってさ」
それ以来、聞いた曲が気に入れば、歌詞を書く相澤は、難解な、難しい言葉を並べて、そうかと思えば、愛だとか恋だとか、わかりやすい言葉を一緒に並べて、結局何を言ってるのかわからない、でもそれがアップテンポで上ずるハスキーな私の声に合っていて、最高にロックだと周りからも客からも評判がよかった。そう、悔しいくらいに。
「お前こそなんだよ、ライト前だと女の子って感じで。実際は口も悪いし」
ガッカリした。相澤はそうじゃないと思っていたし、思っていたかったから、いらついた。
「はあ?相澤もアレに騙されて私のとこ来たんだ。男ってあんなのが好きなんだろ?で、ロック歌ってんのにギャップ感じて好きになんだろ?口悪いのはうちが兄ちゃんばっかだからだよ。しょうがねえだろ」
いらついて捲し立てるよう言った後、売れるためのプロデュースだよ、とあからさまにガッカリした声で言えば、相澤は、「そういう意味じゃない」と静かに言った。
私は、「わかんねー」とだけ返した。
あの見てくれで、先生で、愛だとか恋だとか書いているところを想像すると、チグハグな感じが面白くてわりとするりと曲が書けた。相澤も、私につられたのかたまに口が悪かったり、暴力的な言葉も並んだけど、よくわからない言葉の波にほどよく浮かんで沈んで、歌っている私の口も気持ちよかった。
でも書く歌詞と同じで、相澤の考えていることなんて全くわからなかった。
一度、「相澤の頭の中覗かせてよ」と言ったことがある。
相澤は、「覗いたところでどうする?慰め合うか?」と言った。
「何をどう慰め合うんだ?」と聞けば、「お前の枷が解けたら言うよ」と言って、ふ、と鼻で笑った。
やはり、よくわからないと思った。
ただいつまで経っても、相澤の弾くベースは柔く優しかった。
だから、それは私だけに仕舞って、スコアにはゴリゴリの重い音を並べて、相澤の言葉を、低音で遊んだ。
「夏だな、」
「みかんゼリーと、スポーツ飲料の、夏」
「それはお前が好きなものだろ?」
「それだけじゃ、ないよ。青、水色、オレンジ、黄色。」
わからん、と聞こえたけれど、私は相澤が初めて書いた、愛だと書いたよくわからない歌を口ずさんだ。
高い空も、蝉の声も、床を這うコードも、汚い字の丸まった紙も、もうどうでもよかった。そして、相澤の持ってくるもので満たされた体は、ギターを抱え、また曲を書き始めた。
write 2023/7/31